藤原氏繁栄の基礎…実に怪しい承和の変
承和九年(842年)7月17日、皇太子・恒貞親王が廃太子される政変=承和の変(じょうわのへん)がありました。
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『続日本後記(しょくにほんこうき)』に記録される事件の経緯は・・・
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春宮坊(とうぐうぼう=皇太子の家政機関)の帯刀(たてわき=指揮官)であった伴健岑(とものこわみね)と但馬権守(たじまごんのかみ)橘逸勢(たちばなのはやなり)らが、皇太子=恒貞(つねさだ)親王を奉じて、東国にて反乱を起こそうと計画・・・
それを、恒貞親王の良き理解者である阿保(あぼ)親王(平城天皇の皇子)に相談したところ、あまりの重要事項に驚いた阿保親王が、嵯峨太皇太后(嵯峨上皇の妃=橘嘉智子)に伝え、その嵯峨太皇太后が、当時、右近衛大将(武官の最高職)だった藤原良房(よしふさ)に相談・・・
で、良房から、現天皇である第54代仁明(にんみょう)天皇の知るところとなり、承和九年(842年)7月17日、伴健岑と橘逸勢をはじめとする彼らの一味を逮捕したのです。
慌てて、恒貞親王は皇太子を辞退する旨を仁明天皇に伝えますが、「親王自身は計画に関与していない」と判断され、一旦、保留に・・・
しかし、6日後の7月26日に事態は一転し、良房の弟=藤原良相(よしみ)ら近衛兵が恒貞親王の座所を取り囲み、出仕していた大納言=藤原愛発(ちかなり)、中納言=藤原吉野(よしの)、参議=文室秋津(ぶんやのあきつ)らが逮捕されました。
その後、仁明天皇の詔(みことのり)により、恒貞親王は皇太子を廃され、伴健岑と橘逸勢の両名は、謀反人として、それぞれ隠岐(おき)と伊豆に流罪・・・以下、多くの関係者が処分されました。
恒貞親王の廃太子によって空席となった皇太子の座には、仁明天皇の第1皇子=道康(みちやす)親王(後の文徳天皇)がつく事になります。
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てな事なのですが・・・
臭います・・・今すぐファブリーズを!!と叫びたくなるくらい臭いまくりです。
何たって、あーた、最後に皇太子の座につく道康親王の母は藤原順子(のぶこ)・・・良房の妹なのです。
当然ですが、この事件によって独り勝ちとなる良房は、この後とんとん拍子に出世し、貞観八年(866年)には、皇族以外で初めての摂政となり(8月19日参照>>)、その後、息子(養子)の基経(もとつね)が初の関白となり、以後、この血筋の藤原氏が栄華を極める・・・あの望月の欠けたる事もない藤原道長(10月16日参照>>) につながるのですよ。
そもそもは、皇位継承のゴタゴタで恐怖におののきまくった(9月23日参照>>)父=桓武天皇の遺志もあり、自らも、その後を継いだ兄=平城(へいぜい)天皇との間に藤原薬子の乱(9月11日参照>>)を経験した嵯峨天皇は、今後、後継者をめぐっての争いが起きないように、
「これからは、兄弟間の血筋で、交代々々に皇位を継承しうて行こな」
という約束を交して、異母弟の淳和(じゅんな)天皇に皇位を譲りました。
その後、その淳和天皇も、約束通り、嵯峨天皇の皇子に皇位を譲ります。
この天皇が仁明天皇・・・そして仁明天皇も、約束通り、淳和天皇の皇子である恒貞親王を皇太子に立てていた・・・
そう、このまま行けば、ごく順調に、次の天皇は恒貞親王だったのです。
ところが、承和七年(840年)の淳和上皇が崩御し、2年後の承和九年(842年)には嵯峨上皇が崩御・・・
そう、実はこの承和の変、7月15日に嵯峨上皇が亡くなった2日後に起きているのです。
確かに、ここのところ力をつけて来た良房が、
「妹の子である道康親王を皇太子の座につけたいと思っているようだ」
てな噂が朝廷内を駆け巡っていて、恒貞親王が危機感を抱いた・・・という事も考えられるかも知れません。
しかし、恒貞親王自身は、この噂が立った時点で、皇太子を辞退する意思があり、度々、その事を申し出ていたものの、かの嵯峨上皇が
「約束を違えるとオカシナ事になる」
と、それを許さなかったのですから・・・
その嵯峨上皇と父の淳和上皇が立て続けに亡くなったからと言って、反乱を起こしてまで、皇太子の座を維持しようなんて事を、その恒貞親王が考えるとは、とても思えませんね。
100歩譲って、あまりの危機感から、東国での反乱を思いついたとしても・・・それならそれで、首謀者とする臣下の位が低く、もう少し大物を連れて来ないと、東国で挙兵なんてできないでしょう。
首謀者とされる彼らとて同じで、もし、恒貞親王の意思に関係なく、自分たちが危機感を抱いての反乱だとしても、もっと大物を仲間に引き入れ、徹底した準備を行わない限り不可能な事は、充分わかるはずです。
しかも、一旦、首謀者以外はお咎めなしとしといて、後になって藤原愛発らを捕縛するところがさらに怪しい・・・
この事件にも関係している嵯峨上皇の妃=橘嘉智子(たちばなのかちこ)のページ(5月4日参照>>)で、以前も書かせていただきましたが、あの藤原不比等(ふひと)の息子の藤原四兄弟の家柄で、長男の武智麻呂(むちまろ)の南家は仲麻呂(なかまろ)が乱に失敗して(9月11日参照>>)失脚、三男の宇合(うまかい)の式家も広嗣(ひろつぐ)が叛乱に失敗した(9月3日参照>>)うえに薬子がダメ推しして転落、四男の麻呂(まろ)の京家が後継者に恵まれず・・・
っで、残ったのが次男=房前(ふささき)の北家ですが、その房前の孫が内麻呂(うちまろ)で、その次男が良房の父である冬嗣(ふゆつぐ)・・・上記の藤原愛発は内麻呂の七男なんですね。
つまり、首謀者を伴健岑と橘逸勢らにする事によって、名族の伴氏(とものし=大伴氏)と橘氏に打撃を与えるだけでなく、将来敵になりそうな同族の愛発も京都追放にし、式家の生き残りである吉野も左遷する事に成功したわけで、
どう考えても、良房の都合の良いように事が運び、最終的に甥っ子が皇太子・・・もちろん将来は天皇になるわけで・・・あまりにウマイ事行き過ぎ
とは、言うものの、あくまで状況証拠の推理の域を出ないお話・・・
ただし、少なくとも、今後の藤原北家の栄華の基礎となった出来事である事は確かです。
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