運命を変えた遭遇戦…新田義貞の最期
延元三年(建武五年・1338年)閏7月2日、新田義貞が、北陸で奮戦中に討死しました。
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鎌倉幕府を倒し、建武の新政(6月6日参照>>)をうちたてた後醍醐(ごだいご)天皇に反旗ををひるがえした足利尊氏(あしかがたかうじ)(12月11日参照>>)が、湊川(みなとがわ)の戦い(2012年5月25日参照>>)に勝利して京都を制圧した事で、比叡山へと逃れた後醍醐天皇・・・(6月30日参照>>)
その後、比叡山で籠城を続ける事が不可能と判断した後醍醐天皇は、皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王に皇位を譲って、自らは尊氏とかりそめの和睦し、その恒良親王と異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を新田義貞(にったよしさだ)に託して北国へと落ち延びさせます(10月13日参照>>)。
敦賀に入って越前金崎城(福井県敦賀市)に本拠を構える義貞でしたが、翌・延元二年・建武四年(1337年)3月、足利軍の猛攻を受けて、金崎城は陥落・・・この時、援軍要請のために杣山城(そまやまじょう=福井県南越前町)にいた義貞と、その弟=脇屋義助(わきやよしすけ)は難を逃れましたが、留守を預かっていた義貞の息子の義顕(よしあき)と尊良親王が自刃し、脱出した恒良親王も、ほどなく捕えられてしまいました(3月6日参照>>)。
金崎城の陥落後は、世は足利一色に傾いていきますが、そんな中で、杣山城に陣取って全軍を再編成し、再起をはかる義貞・・・
それを受けた尊氏は、越前国府(越前市)に攻撃軍を派遣・・・しばらく、両者のこう着状態の後、延元三年(建武五年・1338年)2月に、ついに、義貞が国府を落としました。
この勝利に士気挙がる義貞軍は、支城を次々と攻略し、たちまちのうちに越前の大半を制圧・・・やがて5月に入って、義貞らは、足利軍の総司令官である斯波高経(しばたかつね)の籠る足羽城(あすわじょう=福井市)の攻略に取りかかります。
続く6月には、越後(新潟県)に本拠を置く新田勢も越中(富山県)へと侵出し、高経ら足利軍を挟み撃ち態勢・・・足羽城の陥落は、時間の問題と思われました。
かくして延元三年(建武五年・1338年)閏7月2日、高経の呼びかけに応じて、足利方についていた平泉衆徒の立て籠る藤島城(福井市)を攻撃中の義貞は、陣を敷く燈明寺城(とうみょうじじょう=福井市)にて全軍の指揮をとりながら、ケガ人の状況などを視察していましたが、一進一退を続ける現状に、少々のイラ立ちを感じはじめていました。
早く勝利の報告が聞きたい!
と、心がはやる義貞は、藤島城の最前線の現状を確認すべく、わずかに50騎ほどの馬廻りの者を連れて、現地へと視察に行く事に・・・
しかし、これが運命の船出でした。
そう、たまたま、その時、救援のために藤島城に向かっていた足利配下の将=鹿草彦太郎公相(ししくさひこたろうきんすけ)の300騎と遭遇してしまったのです。
もちろん、公相らは、突然目の前に現われた一隊が、義貞の一団とは気づいてはいませんでしたが、かと言って、遭遇した敵には、相対さねばならないわけで・・・
急きょ、周囲の泥田に散らばり、前面に楯を持った兵を並べ、その楯に身を隠しなが弓隊が矢を連射しはじめます。
残念ながら、この時の義貞には、弓隊どころか、楯を持った兵士すら、1人もいなかったのです。
そう、義貞は、出陣ではなく、視察であったため、その装備はいたって軽い物だったのです。
全面の歩兵は矢面に立ちふさがって義貞を守りますが、もはや、格好の標的となって、ただ死んでいくだけ・・・
この状況を見た中野藤内左衛門尉宗昌(なかのとうないさえもんのじょうむねまさ)は、義貞に目配せしながら・・・
「千鈞(せんきん)の弩(いしゆみ)は、鼷鼠(けいそ)の為に機(き)を発せず」
(重い石弓をハツカネズミを捕まえるために使ったりしないという意味)・・・
つまり、「大将たる者が小者を相手にしてはいけない」
と、言い、退却を勧めました。
しかし、義貞は、
「士を失(しつ)して独(ひと)り免(まぬ)がるるは、我が意に非(あら)ず」
「家来を死なせておいて、1人だけ逃げるやなんて、俺のポリシーに反するわ!」
と言って、馬に鞭を当て、敵の中に突進していきます。
義貞の馬は、駿馬の誉れ高い名馬で、普段なら、2mや3mの掘でも軽々と越えて行くのですが、残念ながら、その体には、すでに5本の矢が突き刺さっており、泥田に足を取られ、屏風が倒れるように、その身を横たえてしまいました。
しかも、運悪く、義貞の左足が馬の下敷きとなり、身動きが取れない・・・やっとの事で、上半身を起こそうとした、その瞬間!!!
白羽の矢が1本・・・義貞の眉間を貫いたのです。
急所に矢が刺さった事で、意識もうろうとする義貞は、
「もはや最期の時・・」
と悟り、抜いた刀を左手に持ち替えて、自らの首を掻き切ったのです。
義貞の死を目の当たりにした者たちは、次々と切腹・・・わずかに残った者も射殺され、隊は全滅したのです。
誰ともわからない武将を討ち取った公相ではありましたが、その身につけていた物から、「ただ者では無い」と感じつつ、かの高経の前へ・・・
その首を見た高経は、
「義貞に似ているが・・・」
と、何となく半信半疑でしたが、左眉の上にあった矢傷、持っていた太刀が源氏の重宝=鬼切と鬼丸であった事から義貞を確認・・・
さらに、最後の決め手となったのは、その懐深くに大事に大事にしまい込んでいたお守り袋・・・その中には、義貞に宛てた後醍醐天皇の宸翰(しんかん=天皇自筆の手紙)が収められていたのです。
新田義貞:38歳の夏・・・命を賭けた戦いは終わりました。
新田義貞・首塚(滝口寺)…すぐ左手には勾当内侍の供養塔が鎮座します
以前のご命日に書かせていただいた勾当内侍(こうとうのないし)との恋(2007年7月2日参照>>) と言い、その戦いぶりと言い、良くも悪くも、純情で一途で、少し古いタイプの人間だった事を感じさせる義貞の生きざま・・・
泥田に沈む最期・・・その脳裏をかすめたのは、人生を賭けて愛した人か、人生を賭けて従った大君か・・・はたまた、にっくき尊氏の顔なのか・・・
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コメント
「不運の名将」というのは存在しないそうです。
多数の家来の生き死には勿論のこと、この時期、南朝の運命は、ひとえに義貞さんに懸かっていた訳ですからね。軽率な突出や無理な戦いぶりといい、義貞さんの将器への評価は、厳しいものにならざるを得ません。
しかし、さぞや男らしい男であったのでしょうね。傾国の美女に大いに傾いたり、個人的な覇気が欠点でもあり、魅力でもあります。
投稿: レッドバロン | 2012年7月 4日 (水) 16時59分
レッドバロンさん、こんばんは~
先日書かせていただいた松浦静山の『剣談』の中に「勝ちに不思議の勝ちあれど、負けに不思議の負けなし」(だったかな?)みたいな名言がありますね。
やはり、負けるには、それなりの負ける理由があるのでしょう。
小気味いい見事な作戦を考え出す武将も好きなんですが、一方では「もう少し要領よくできひんの?」と言いたくなる感じの武将も好きです。
投稿: 茶々 | 2012年7月 5日 (木) 00時18分
多少の運の良さもあると思います。情報やブレーンを持っていても。武蔵国に、新田義貞ゆかりの神社もあるけど。太平記では、楠公が魅力的です。
投稿: やぶひび | 2012年7月 6日 (金) 18時18分
やぶひびさん、こんばんは~
「勝負は時の運」
という言葉もありますからね。
>太平記では、楠公が…
確かに、ものすごくかっこよく描かれてますね~
投稿: 茶々 | 2012年7月 7日 (土) 00時59分
小学校に置いてあった(初めて手に取った)歴史漫画でも、古典漫画でも、新田義貞は「レオパルドン(出典・キン肉マン)のような最期」に描かれていて、シュールさと共に妙な人気を(読者の間)で得ていた記憶があります。
相次ぐ愛する人の死に、悩み苦しんで死んだ尊氏や「やるだけのことはやった!俺が死んでも息子と妹(観阿弥母。世阿弥祖母。)がいるから、忠義と血脈、どちらかは必ず残る!!」と、強かに種を蒔いて死んでいった正成。都に帰りたいと切望しながら亡くなった後醍醐帝とキレイな対比ができていて、それがまた(良い悪いかは別にして)印象的でした。
投稿: パイナップル | 2017年7月15日 (土) 17時15分
パイナップルさん、こんばんは~
おっしゃり通り新田義貞は人気がありますね。
特に東の方は揺るぎない人気なのでは?
関西では楠公も人気ですが…(*^-^)
投稿: 茶々 | 2017年7月16日 (日) 03時15分