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2012年7月16日 (月)

大奥スキャンダルで失脚した間部詮房

 

享保五年(1720年)7月16日、江戸幕府の将軍、第6代・家宣と第7代・家継に仕えた側用人・間部詮房が亡くなりました。

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寛文六年(1666年)もしくは七年の生まれとされる間部詮房(まなべあきふさ)・・・父は、徳川綱重(つなしげ=徳川家光の3男で甲斐甲府藩主)お気に入りの能役者で、詮房自身も、喜多流の能楽師・喜多七太夫(きたしちだゆう)弟子で能役者でした。

Manabeakifusa350 そんな彼が19歳の時、綱重の嫡男=綱豊(つなとよ)に気に入られて小姓に取り立てられた事から、人生の大転換となります。

幼い頃から評判の才気溢れる超イケメンを寵愛する綱豊によって、番頭格から奏者役格用人と、毎年のように出世して行く中で、宝永元年(1704年)=39歳の時に、更なるラッキーサプライズが彼を待っていました。

主君・綱豊が、5代将軍・徳川綱吉後継者に選ばれたのです。

家宣(いえのぶ)と名を改めた綱豊とともに、江戸城西の丸に入った詮房・・・この時から、身分は幕臣となり、3年後には若年寄格となり、相模(神奈川県)鎌倉など、計1万石の大名になります。

主君=綱豊改め家宣に仕えてから23年・・・確かに、23年はある程度長いですが、もとは能役者で、武士でも無かった事を考えると、驚異的な出世です。

しかも、宝永六年(1709年)に綱吉が亡くなれば(1月10日参照>>) 当然、第6代将軍は家宣・・・ここで老中格に昇進し、翌年には上野高崎城主となって5万石を領するようになります。

そして、先代の政治を払拭するがのごとく、以前の堀田正俊刺殺事件(8月28日参照>>)がらみで失脚していた新井白石(あらいはくせき)を登用し、生類憐みの令の廃止貨幣の改良新しい武家諸法度の発布などなど、家宣&詮房&白石によるトロイカ政治を精力的に行うのです。

白石が献策し、詮房によって幕閣に根回しし、家宣の決済で決定する・・・後に「正徳の治」と呼ばれる政策です。

しかし、家宣の世は、わずか4年で終わりを告げます。

正徳二年(1712年)、家宣が51歳で亡くなってしまったのです。

後継者である嫡男=家継は、未だ、わずか3歳・・・当然の事ながら、「こういう時のための御三家とも言える血筋から将軍を…」という声があがり、尾張藩主の徳川吉通(よしみち)の名もあがりますが、結局は、詮房&白石両人の強い推しにより、第7代将軍は家継に決定します。

そりゃ、3歳なら、彼らの思い通りですわな。

3歳の幼君は、そのご機嫌をそこねないためにも、常に、生母のお喜世の方が、そのそばに付き添います。

そう、このお喜世の方が、将軍の生母として大奥に君臨する月光院さん・・・

いくら思い通りになる3歳の将軍と言えど、大事な政策を、詮房らだけで勝手に決める事はできませんから、様々な用件を幼君に伝えて、それを決済してもらわねばならないわけで・・・

それらをスムーズに行うためにも、幼君を、母・月光院の膝の上に乗せて、ご機嫌を取りながらの政務・・・

もはや詮房は自宅にも帰らず、朝な夕なに江戸城に詰めて、仕事をこなしますが、当然、徐々に3人はうち解けて行くわけで・・・

本来なら男子禁制の大奥に、度々やって来て仕事をこなす詮房に向かって
「まるで間部が将軍のようだ」
と、幼い将軍が言ったのは有名な話ですが、幼い将軍としては悪気は無く、ごくごく単純に発言しただけ・・・しかし、周囲の大人は、度々大奥にやって来る詮房の行動を、そう単純には受け止めてくれません。

実際に、そういう関係であったのか無かったのかはともかく・・・いや、おそらくは無いと思われますが、

「二人が手をつないで一緒に月見をしていた」
とか
「部屋で抱き合ってた」
とか
「色っぽい声が襖越しに聞こえて来た」
とか・・・

とにかく、二人が密通しているかのような噂が、まことしやかに囁かれるようになます。

さらに、詮房が独身で、お妾さんもいなかった事が噂に信憑性を持たせ、果ては
「先代が元気な頃から二人は関係していて、家継は詮房の子供だ」
なんて話にまで発展していくのですが、ここで、更なるスキャンダルが・・・

そう、あの絵島・生島事件(3月5日参照>>)です。

この事件は、月光院に仕えていた大年寄=絵島が人気役者の生島新五郎と恋に落ち、果ては、「男子禁制の大奥に彼を入れた」なんて言われる事件ですが、実際には、現将軍の生母という事で大奥のトップに立った月光院に対して、以前にトップだった前将軍・家宣の正室・天英院の派閥が行った追い落とし作戦であるとも言われます。

その通り、この事件後の月光院は発言権を失い、詮房も幕閣で孤立する事になるのですが、さらに、正徳六年(1716年)・・その・唯一の頼りどころであった家継が、わずか8歳で亡くなってしまったのです。

もとより、譜代の家臣でも何でもない詮房にとって、これは万事休すです。

そして、大奥内で発言権を取り戻した天英院の強い推しで、第8代将軍となったのが、紀州の暴れん坊徳川吉宗です(8月13日参照>>)

吉宗は、すぐさま白石を排除し、詮房も高崎から越後(新潟県)村上に転封・・・一応、同じ5万石という事ではありますが、明らかに左遷・・・

そして、ご存じのように、吉宗は先代の政治を払拭するかのように、様々な改革を行います(6月18日参照>>)

それからわずか4年後享保五年(1720年)7月16日詮房は転居先の村上で55年の生涯を閉じたのです。

死因は暑気あたり・・・

あまりの出世ぶりに、生も根も尽き果てたのか?
それとも、わが世の春からの急展開に、もはや、生きる気力すら失ったのか?

何やら寂しさの残る最期ですが、能役者から詮房さん1代で5万石の大名となった間部家が、場所は変われど、その5万石のまま明治維新を迎えられた事に、少しホッとします。
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コメント

大奥スキャンダルですか。吉宗さんは大奥リストラをしたそうですね。紀州藩主で大名行列を組んで参勤交代したし。

投稿: やぶひび | 2012年7月17日 (火) 21時59分

やぶひびさん、こんばんは~

大奥の力をフル活用して将軍になったのに、なった途端に大幅リストラで、さぞや、お女中たちも驚いたでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年7月18日 (水) 03時37分

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