日本の思い出を胸に…初代駐日総領事・ハリス
安政三年(1856年)7月21日、初代アメリカ駐日総領事ハリスが伊豆・下田に来航しました。
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7年前は斎藤きちさんの事を書いてしまいましたので(2006年7月21日参照>>)、本日はハリスさんのお話を・・・
アメリカはニューヨーク州のワシントン郡の貧しい家に生まれたタウンゼント・ハリスは、中学を卒業した後、家業を手伝いながら独学で、フランス語やイタリア語やスペイン語を習得し、各国の文学を学びました。
その時に苦労した経験から教育に興味を持って、教育活動に打ち込む中、その活動が認められて1846年(弘化三年)からは、ニューヨーク市教育長を務めました。
その後、貨物船の権利を取得した事から貿易商に転身し、太平洋沿いの各国へと航行するようになりますが、そんな中、清国(中国)にて、ペリー(6月3日参照>>)率いる東インド艦隊に出会った事で日本にも興味を持ち、外交官を目指すようになるのです。
そんな時、そのペリーが日米和親条約を締結させた事で、下田に領事館が設置される事を聞きつけたハリスは、なんと!大統領に直談判して、初代の駐日総領事に任命してもらいます。
かくして安政三年(1856年)7月21日、ハリスは伊豆下田に来航したのでした。
最初は通訳の行き違いから上陸を拒まれたり、やっと意思が通じて上陸して下田玉泉寺に領事館を構えた後も、江戸へ行くのを断られたりと、幕府は何かとハリスを警戒していましたが、やがて、彼の誠実な人柄が垣間見えるようになり、徐々に幕府も・・・いや、逆に、大いに彼に信頼を寄せるようになるのです。
やがて、翌年には江戸に行く事も許され、第13代将軍=徳川家定に謁見する事も叶いました。
さらに、その翌年の安政四年(1858年)の7月、14回にも渡る交渉の末、日米修好通商条約の締結に至りました。
この時、ハリスが主張した日本貨幣と米国貨幣との交換比率の条件によって、おびただしい量の金が流出したのは有名な話ですが、一方でハリスは、日本の金貨が外国の銀貨に比べて、意図的にその価格を引き下げられている事実を幕府に勧告し、早急に金貨の価値を上げるよう、貨幣価格の比較一覧表を送ったりなんかもしてます。
その後、初代総領事から初代公使へと役職名が変わったハリス・・・しかし、大仕事を終えた安堵感からか、やがて体調を崩しがちになり、病気を理由に公使の辞任を申し出るようになります。
そして文久二年(1862年)4月・・・5年9ケ月に渡る日本での生活に別れを告げ、ハリスはアメリカへと戻りました。
この時、すっかりハリスに信頼を置くようになっていた幕府は、何とか帰国を引きとめようとし、それが叶わないとなると、アメリカ国務長官にハリスの再任を要請したと言います。
もちろん、帰国後のハリスも、常に日本に関心を寄せ、訪問者には、日本での生活の事を大喜びで語っていたとか・・・
独身だったハリスは、その後、15年間ニューヨークに住み、質素な生活をしていたと言いますが、やがて、彼が日本に滞在していた時の費用を、自らのポケットマネーでまかなっていた事を聞きつけた国務長官によって、その滞在費用のすべてを国家で補償する事が約束されたそうで、
それからは、公職につく事も無く、海外旅行を楽しんだり、時には、パリの博覧会を見物に行ったりという悠々自適の生活を送ったようです。
そんなハリスは、1878年(明治十一年)2月25日、肺出血によって74歳の生涯を閉じますが、今もニューヨークにあるその墓碑には「日本のよき友である」という内容の銘文が書かれてあるとか・・・
そして、そのすぐ横には桜の木が1本・・・その桜が美しい花を咲かせる春には、きっと、そこに眠るハリスさんも、遠き日本を思い出してくれている事でしょうね。
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コメント
はじめまして、こんばんは。
ハリスというと、あまり良いイメージはなかったのですが、
なかなかの苦労人だったようですね。
大変、勉強になりました。
また、お邪魔させて頂きます。
拍手!!
投稿: 雷蔵 | 2012年7月21日 (土) 22時54分
雷蔵さん、こんにちは~
そうですね。。。
強引に条約を締結させられた日本側の人間としては、あまり、良い印象では無いですね~
そのために、明治政府も苦労しましたし…
「NOと言える」事は大事デス
投稿: 茶々 | 2012年7月22日 (日) 17時57分