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2012年7月10日 (火)

滅亡へのカウントダウン?鎌倉幕府14代執権・北条高時

 

正和五年(1316年)7月10日、北条基時の出家に伴い、北条高時が鎌倉幕府第14代執権に就任しました。

・・・・・・・・

すでに鎌倉幕府・滅亡のページにその最期の姿(5月22日参照>>)を書かせていただいた北条高時(ほうじょうたかとき)ですが、「そう言えば、その人となりを書いてないなぁ」とは思うものの、
これが、ほとんど悪口しか残って無い・・・(ノ_≦。)

「暗君」に「暴君」に、
「頗(すこぶ)る亡気」この上ないアホ・・・と、

世の中、「勝てば官軍、負ければ賊軍」・・・負けた高時は、勝利した後醍醐天皇や足利尊氏を輝かせるための脇役&敵役でしかありません。

第9代執権の貞時を父に持ち、幕府有力御家人の安達時顕(あだちときあき)の娘を母に持ち、わずか9歳で得宗(とくそう=後継ぎ)となった高時が、13代の北条基時(もととき)に代わって、鎌倉幕府の第14代執権となったのは正和五年(1316年)7月10日わずか14歳の時でした。

未だ少年で、しかも幼い頃から病弱だった高時に、幕府の政務をこなす事など、およそ不可能・・・外祖父の時顕や、内管領長崎高綱(ながさきたかつな)高資(たかすけ)父子が実権を握る中での傀儡(かいらい=あやつり人形)の執権である事は、誰の目にも明らかでした。

そんな中での高時は、政治に関心を示すはずもなく、遊びにふけってばかり・・・にも関わらず、高資の指図により、わずか24歳で、病気を理由に出家させられてしまい、ますます遊びにのめり込んで行く高時・・・

ある夜、小さな宴会を催した時に、酔いにまかせて踊り始めた高時でしたが、それは、お世辞にもウマイとは言えない踊りで、その場にシラケきった空気が・・・

それでも、かまわず踊り狂う高時のもとに、どこからともなく10余人の田楽師たちが現わて列をなして田楽(でんがく=田植えの時に豊作を願って演じられる歌舞芸能)を踊りはじめますが、それが実にオモシロイ踊り・・・

しばらくすると拍子を変えて・・・
♪天王寺のや、ヨウレイボシを見たいわな♪
と囃したてて、それは、もう、抱腹絶倒の舞い踊り・・・

この歌声のあまりの面白さに、侍女が襖の隙間から覗いてみると、なんと、田楽師だと思っていた人たちには、顔にくちばしがついていたり、体に羽根があったり・・・そう、妖怪たちが人間の姿に化けて踊っていたのです。

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妖怪と田楽を舞う高時 『太平記絵巻』(埼玉県歴史と民俗の博物館蔵)

慌てて外祖父の時顕に連絡をとる侍女・・・

一報を受けて、完全武装でやって来た時顕でしたが、その近づく足音を聞くと、妖怪たちは、アッと言う間に姿を消してしまいました。

畳の上には獣の足跡が残り、宴席は、まるで誰かに襲われたかのような惨状・・・しばらくあたりの様子を探りながら妖怪を警戒しますが、やがて、その気配も無くなり、爆睡していた高時も目覚めますが、その識はモウロウとしていて、踊りの記憶も無かったのだとか・・・

後に、この一件を伝え聞いた刑部省(ぎょうぶしょう)次官藤原仲範(なかのり)は、
天下が乱れる時には、妖霊星(ようれいぼし)という悪い星が現われると言うから、妖怪たちが歌ったあの歌は、(大阪の)天王寺付近から動乱が起こって国家が滅亡するという暗示なのでは?」
と、恐れおののいたのだとか・・・

しかし、そんな事にはめげない高時・・・

ある時、庭にたくさんの犬が集まって、噛み合う姿を見て闘犬に目覚めます。

諸国に命令を出して税の代わりに犬を納めさせたり、公家や武家にも犬を献上させたり・・・

金銀まじりの綱をつけた犬が輿に乗って大路を行けば、人々は下馬して道にひざまづいたとか・・・やがて、その数は日増しに多くなり、いち時、鎌倉は犬の町と化してしまうほど・・・

月12回(多い…(^-^;)開かれる闘犬の日には、北条一族や有力家臣が御殿に集まり、100匹~200匹の犬を同時に放って戦わせるので、それは、天地も揺るがすような轟音となって響ったとか・・・

とは言え、後醍醐天皇の2度目の倒幕・・・いわゆる元弘の変(10月21日参照>>)のあたりからは、うって変わって、執権として差配を奮います。

後醍醐天皇を隠岐に流罪(3月7日参照>>) にしたり、先の正中の変(9月19日参照>>)で佐渡に流罪となっていた日野資朝(すけとも)を斬首にしたり・・・

やがて、訪れた元弘三年(1333年)の一連の戦いでは、伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)で蜂起した後醍醐天皇(2月24日参照>>)の追討軍として足利高氏(尊氏)を差し向け(4月16日参照>>)・・・

しかし、その高氏は一転、六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)を攻撃(5月7日参照>>)・・・楠木正成の千早城を攻めていた新田義貞も、途中で撤退して逆に鎌倉へと攻め寄せ(5月11日参照>>)・・・

頼みの綱の幕府御家人に次々と寝返られ、最後には幕府滅亡へと・・・

故に、その滅亡の根元が高時の遊興にあり、幕府を傾けさせた暗愚の将として評価されわけですが、そもそもの鎌倉幕府の傾きは、源氏の直系が、わずか3代で耐えたうえに、あの2度に渡る元寇(6月6日参照>>)の時から、御家人の困窮や不満はあった(12月8日参照>>)わけで、何も、高時の遊興に始まったわけではありません。

しかも、その最期の姿は、武家の棟梁らしく実に潔く、家臣との信頼関係があった事もうかがえます。

夢窓疎石(むそうそせき・夢窗疎石)(9月30日参照>>)などとの交流も深く、芸術的センスもあったという高時さん、いつか、その悪のイメージが払拭される日が来る事を願います。
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コメント

茶々様 おはようございます。

北条高時といえば、大河ドラマ「太平記」の片岡鶴太郎さんを思いだします。
暗愚のイメージで語られることが多い高時ですが、最後まで多くの武将が共に奮戦しており、自刃に際してもかなりの数の一族郎党が殉じていますので、それなりに人望があったと思いたいです。

投稿: 山根秀樹 | 2021年7月10日 (土) 10時29分

山根秀樹さん、こんばんは~

大河ドラマ「太平記」の場合は、どう転んでも片岡高時が敵役ですもんね~
あの憎々しさを演じた鶴太郎さんも良かったです。

高時さんに限らず、討伐隊を迎え撃った北条の面々の散り際の美しさを見れば、実際の北条氏には、それなりの人望があった事がうかがえますね~

特に北条仲時の最期>>と、それに殉じた人々との関係にはグッときます。

投稿: 茶々 | 2021年7月11日 (日) 03時16分

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