御室桜のごとき返り咲き~宇多天皇の「寛平の治」
承平元年(931年)7月19日、第59代宇多天皇が65歳で崩御されました。
・・・・・・・・・
宇多(うだ)天皇は、元慶八年(884年)から3年間、源定省(みなもとのさだみ)と名乗る源氏の人でした。
というのも、この宇多天皇の父=第58代の光孝(こうこう)天皇が、先日お話した承和の変(じょうわのへん)(7月17日参照>>)に関与した第54代・仁明(にんみょう)天皇の皇子・・・
そのページでもお話しましたように、その仁明天皇の父=第52代・嵯峨(さが)天皇が、その父の桓武天皇が皇位継承でモメた事(9月23日参照>>)や、自分自身も、兄の平城(へいぜい)天皇との間に藤原薬子の乱(9月11日参照>>)を経験した事で、今後は、後継者をめぐっての争いが起きないようにと、
「これからは、兄弟間の血筋で、交代々々に皇位を継承しうて行こな」
という約束を交して、異母弟の淳和(じゅんな)天皇に皇位を譲り、
その後、ちょっとは、その約束が守られて兄弟間で譲位しようとしたにも関わらず、承和の変という怪しい事件によって、その順番が狂い、その後は、仁明天皇の息子=第55代・文徳天皇、さらに、その息子=第56代・清和天皇、またまたその息子=第57代・陽成(ようぜい)天皇と、3代に渡って親子間の皇位継承がされていたのです。
ところが、ドッコイ、この陽成天皇が、時の関白=藤原基経(もとつね)に奇行が目立つという難クセをつけられ、わずか17歳で騙されるように退位させられ(8月26日参照>>)、いきなり、3代前の仁明天皇の息子=光孝天皇が即位したのです。
そうです。
それまで陽成天皇のもとで、幼いのをこれ幸いと、関白として好き勝手に手腕を発揮していた基経が、成長してうっとおしくなった陽成天皇を廃して、またまた好き勝手にやれる天皇として選んだのが光孝天皇だった・・・というワケです。
その思惑通り、光孝天皇は政治のすべてを基経に任せっきりとなりますが、心の底ではおそらく
「ナメとったらアカンぞ!」
と、仕返しの炎がメラメラと・・・(←これはあくまで想像です)
そう、実は、光孝天皇は、自らの子供に後を継がせないために、ものすご~~くたくさんいる自分の子供たちすべてに姓を与え、臣籍としたのです。
(姓を与えて臣籍に…については7月6日【桓武平氏の誕生】を参照>>)
あくまで憶測ですが、光孝天皇の気持ちとしては、おそらく次期天皇への継承は陽成天皇の系統に譲りたかったんじゃないでしょうか?
しかし、それが叶わぬうちに、光孝天皇は病に倒れてしまいます。
そして、もはや死期を悟った光孝天皇・・・最後の置き土産とばかりに、すでに源氏となっている息子の中から、
「コイツなら、ヤレる!」
と信じた源定省の源氏姓を削って親王に戻し、その翌日、定省親王を皇太子に立てて、そのまま、息をひきとったのです。
父が見込んだ、すでに自分の意思やしっかりとした考えを持った次期天皇・・・これが宇多天皇だったのです。
日本の歴史上ただ一人、1度、臣籍に降下して後、再び天皇家に返り咲いた21歳の若き天皇です。
しかし案の定、基経との衝突はすぐに起こります。
宇多天皇は自らの治世でも、基経に関白を務めてもらおうと、改めて関白に任命する勅書(ちょくしょ=天皇の命令を書いた文書)を出すのですが、その文面の中に「宜しく阿衡(あこう)の任をもって卿の任とせよ」との一文があった事に、基経は激怒するのです。
つまりは「阿衡に任命しますよ」って事・・・この阿衡という役職名は摂政(せっしょう)や関白の別名であって、宇多天皇側にしてみれば「関白やってネ」という事と何ら違わないつもりだったわけですが、
基経とツルんでいた学者の藤原佐世(すけよ)が
「阿衡って、位はあるけど実務を伴わない役職やから、結局は“政務はやるな”って意味なんちゃいますのん?」
という入れ知恵をしたのです。
「ほな、おっしゃる通りに、もう、仕事しませんわ!」
と、基経はいきなりの出社拒否・・・
実は、この頃、当代一の学者とうたわれていた佐世には、同じく、当代一の学者と称される橘広相(たちばなのひろみ)というライバルがいたのですが、この広相の娘が宇多天皇の女御だった関係から、宇多天皇が何かと相談を持ちかけていた学者が広相で、かの勅書の文章も広相が作成した物・・・
そうです・・・ライバルを蹴落とそうと、文章のあげ足を取って拡大解釈してイチャモンをつけたわけです。
かと、言って、関白とあろう人が、このまま出社拒否しっぱなしというわけには行かず・・・やむなく宇多天皇は「“宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ”の文は自分の意に背く物である」という宣言をして事の収拾に当たったのですが、
何となく、天皇側が折れた感はぬぐえず・・・「世の中、ゴネたモン勝ちかい!」てな結末に・・・
しかし、ここで折れた宇多天皇も、寛平三年(899年)1月に基経が亡くなると、その後は関白を置かず、自ら親政を行い、律令国家の再生に向けて手腕を発揮します。
この時、宇多天皇の政治を見事にサポートしてくれたのが、あの菅原道真(すがわらのみちざね)・・・実は、先の基経のゴタゴタの時に、間に入ってうまくまとめてくれたのが道真だったのですよ。
この一件から、道真に篤い信頼を寄せるようになった宇多天皇・・・もちろん、道真も、それに応えます。
後に、道真のライバルとなる藤原時平(ときひら)も、この頃は未だ年若く、お互い協力して、諸国に博士や医師を配置して地方政治のレベルを上げたり、農民に荒田や閑地の占有を認めて小農民を保護する政策などを行いました。
これは「寛平の治(かんぴょうのち)」と呼ばれ、今でも善政とされ、一説には、奴婢(ぬひ=奴隷)制度廃止令も、この時代に出されたと言われます。
また、落ち着いた時代には、様々な文化も生まれる物で、勅撰(ちょくせん=天皇の命で造る)史書の『類聚国史(るいじゅうこくし)』や、現存最古の漢和辞典『新撰字鏡(しんせんじきょう)』などが、この宇多天皇の治世で生まれています。
やがて、後継者決めでゴタゴタするのを避けたのか、寛平九年(897年)、突如として息子の敦仁親王=第60代・醍醐(だいご)天皇に皇位を譲り、自らは仏の道に専念するとして、あの仁和寺に入り、法皇となりました。
とは言いながらも、病弱な醍醐天皇をサポートする形で、常に政治に気を配っていたと言われますが・・・
そんな宇多天皇は、常に、道真と時平が並び立つ事を希望し、双方に対して、
「賞罰な常に公平にし、喜怒を表さず、事を進める時には常に先例を頭に置いて行うように」
と訓じておられたとか・・・
その思いとはうらはらに、後に道真は、時平によって左遷されてしまう事になります(阿衡事件に関しては内容かぶってますが…1月25日参照>>)。
その事を、宇多天皇は、どのように感じておられたのでしょうね。
承平元年(931年)7月19日、65歳で崩御された宇多天皇・・・天皇の愛した「御室(おむろ)桜」は、今も、毎年春、仁和寺を訪れた人の心を和ませてくれます(御室桜の写真は4月15日参照>>)。
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コメント
茶々さん、こんばんは!
宇多天皇、臣下身分の源氏から主上にランクアップですもんね!
しかも、菅原道真を登用する事で、学者や実務官僚たちに出世への門戸開放の機会を与えた点は価値があります。
ただ、そんな父帝を見ていた同じく臣下身分の源氏から親王・皇太子となった醍醐天皇は、対抗するかのように藤原氏と手を組んじゃうところが残念なんですよね。
のちの白河院や鳥羽院のように宇多院として院政を敷こうという考えを持っていたら、また違った日本の国政が拓けたかもしれません。
ps.仁和寺さんでは宇多法皇を「寛平法皇」を尊称されているんですよ!
投稿: 御堂 | 2012年7月20日 (金) 00時10分
御堂さん、こんばんは~
あっ、そうか…
醍醐天皇は、宇多天皇が源氏だった時に生まれてるので、こっちはこっちで異例で唯一の皇位継承なんですよね。
うっかりしてました(*´v゚*)ゞ
宇多天皇が藤原氏が独占しないように気配りしていただけに残念ですね。
投稿: 茶々 | 2012年7月20日 (金) 00時59分
茶々さま、ご機嫌麗しゅうございます。
皇室の系図は面白くて見てて飽きないですね。
あまり長子相続を重んじないところがなんとも面白いです。
神武天皇はお兄さん2人を差し置いて即位してるし、後醍醐天皇は弟の弟なんだけど、自分の家系で皇位を独占しようとしたりして。
お兄さんの系の清和源氏の方が正統性があったりしたらいろいろヤバいですよね。
投稿: しまだ | 2012年7月20日 (金) 18時22分
しまだ様、こんばんは~
神武天皇のくだりは、おそらく、弟である天武天皇が皇統を継ぐ事を正統化するためのエピソードでしょうね。
海幸山幸も弟が主役ですし、仁徳天皇やら何やら、神代の皇統は、ほとんど弟が継ぎます。
古くは兄弟間の継承が普通だったのが、誰かしら親子で継承したい人が出て来るとモメて、結局最後は、封建社会の長男重視にする事でモメないように…って感じですかね?
投稿: 茶々 | 2012年7月20日 (金) 21時43分