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2012年8月24日 (金)

織田信長の大声で信行に勝利?稲生の戦い

 

弘治二年(1556年)8月24日、尾張・小田井川にて、対立する弟の信行にくみする林美作柴田勝家らを、織田信長が破った稲生の戦いがありました。

・・・・・・・・・

ご存じのように、あの織田信長が少年の頃には、いつも、だらしないファッションをしては、ワル仲間と遊び歩いていたわけで、それとは対照的に、優秀の誉れ高かったのが、すぐ下の弟織田信行(のぶゆき=信勝とも)・・・

信長と同じ土田御前を母に持つ織田信秀(のぶひで)三男か四男です。

有名なところでは、天文二十年(1551年)の父・信秀が亡くなった葬儀の場で、いつものだらしない恰好でやって来て、仏前で焼香を投げつけるという無礼をやった兄・信長に対し、正装で参列した信行は、終始、礼儀正しく振る舞っていたと言われます。

そんな中で、
「亡き信秀の後継者には、うつけの信長より、信行のほうがふさわしいのでは?」
という声が、家臣の中で囁かれるようになるのは当然の事・・・

天文二十二年(1553年)閏1月には、信長の1番の味方であった傅役(もりやく・教育係)平手政秀(ひらてまさひで)が自刃(1月13日参照>>)・・・これも、一説には、信長に目を覚まして欲しいと願う諌死(かんし=死んで目上の人を諫める事)であったとも言われます。

やがて天文二十四年(1555年)頃からは、本来、織田家当主が代々名乗っている弾正忠の官職名を、兄を差し置いて信行が名乗りはじめていたらくし、どうやら、本人も、その気満々だったようで・・・

さらに、弘治元年(1555年)6月に、信長&信行=二人の兄弟の弟である織田秀孝(ひでたか)が、守山城主織田信次誤って殺害された時には(6月26日参照>>)、何も行動を起こさない信長に対して、一方の信行がいち早く行動し、守山城下を焼き払った後、籠城する守山城を攻撃する構えを見せた事から、「礼儀正しさだけでなく、合戦の手腕も信行の方が上ではないか?」との声も上がり、ますます、家臣たちの間で、信行=当主への期待が高まっていったのです。

そんなさ中の弘治二年(1556年)4月・・・「信長に美濃を譲る」の遺言状まで書いていた(4月19日参照>>)と言われる嫁=濃姫の父・斎藤道三(どうさん)が、嫡男=義龍(よしたつ)との長良川の戦いで命を落とします(4月20日参照>>)

なんたって道三は「美濃のマムシ」と恐れられた男・・・嫁の実家として信長についていたこの大きな後ろ盾が、ここに来て排除されたわけです。

「これは、またとない大チャ~ンス!!」
と、『信行くんを当主にする会』のメンバーが、動き出すのは当然の事でした。

Sibatakatuiekitanosyou500 その主力となったのは、織田家の1番家老・林秀貞(ひでさだ)と、その弟・林通具(みちとも=美作守)、そして、やはり織田家重臣の柴田勝家でした。

もちろん、彼ら重臣たちのこの動きに対して、信長も、清州の東南に位置する小田井川(於多井川=現在の庄内川)を越えた名塚という場所に砦を構築して備えます。

かくして弘治二年(1556年)8月24日前日の雨によって水かさを増した川を越えて、信長軍の先手の足軽が進み出たところを、東から1000ほどの兵を引き連れた勝家が、南から700ばかりの兵を従えた通具が待ち構えます。

これが稲生(いのう)の戦い・・・
『信長公記』によれば、この時の信長の兵は700に満たなかったとか・・・

まさに、多勢に無勢・・・

案の定、正午頃に始まった戦いでは、完全に信長不利・・・しかも、主力の勝家は、この上ない戦上手ですから・・・

奮戦するも、信長軍の主力部隊は次々と討たれ、柴田軍の先鋒が、信長の本陣に近づく頃には、もはや40人ばかりの側近が信長の周りを固めているに過ぎない状況でした。

もちろん、そこに林軍も登場し、万事休す・・・
となる中、織田信房(のぶふさ)森可成(よしなり)の両名が主君を守るべく進み出て奮戦し、清州衆土田の大原なる武将を突き伏せて、何とか討ち取った・・・
その時です!

なんと、信長自身が、この世の物とは思えないほどの、とてつもない大声で敵兵を怒鳴り散らしたというのです。

セリフが書いて無いので、何と言ったのか?・・・とにかく
「アホ!ボケ!カス!おんどりゃ、ワシを誰やと思てけつかるねん!
耳の穴から手ぇ突っ込んで、奥歯ガタガタいわしたろか!」

なんせ、この信長の怒鳴り声に、敵兵が一斉に逃げ散ったというくらい、相手をビビらせたわけですから、なかなかの名ゼリフだったんでしょう(@Д@;

まぁ、なんだかんだで、これは織田家内の戦い・・・敵兵と言えど、元をただせば信長の配下なわけで、あまりの形相に恐れおののくという状況も、無きにしもあらず・・・

とにかく、これで勢いを取り戻した信長軍は、その勢いのまま林軍に攻めかかり、なんと、信長自らが、槍にて林通具を討ち取ったと言います。

その後、総崩れとなった敵兵を約450名余りを討ち取り、見事、信長は、この戦いに勝利したのです。

敵方が祭り上げた信行とは、兄弟の母である土田御前が間に入って和解・・・主力だった林秀貞や柴田勝家も、信長に謝罪した事で罪を許され、逆に、忠誠をを誓う事になります。

後に、弟・信行は、再び兄を倒そうと謀反を企みますが、この時に、いち早く、その事を知らせたばかりか、

結局、信長が自身の手で信行を葬り去る(11月2日参照>>)お手伝いをするのは、誰あろう、この時、信長に忠誠を誓った勝家・・・

もちろん、その後の勝家さんの織田家での活躍は、皆様、ご存じの通りです。
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