謎が謎呼ぶ結城城・埋蔵金伝説
江戸幕府8代将軍の徳川吉宗が、大岡越前守忠相を寺社奉行に任命したのが元文元年(1736年)8月12日・・・
さかのぼる事、半世紀前・・・
小田原征伐を終えて(7月5日参照>>)、その足で奥州仕置を行った豊臣秀吉が、検地の強行などを、配下の者に託して帰路についたのが、天正十八年(1590年)8月12日・・・
さらに、さかのぼって、
文治五年(1189年)8月10日から3日間に渡った阿津賀志(あつかし)の戦い(8月10日参照>>)に勝利した源頼朝が、奥州藤原氏の本拠地=平泉に向おうとしていたのが、ちょうど、この8月12日頃・・・ですかね?
本日は、この3つの出来事にまつわるお話をさせていただきます。
・・・・・・・・・・・・
大岡越守忠相(ただすけ)が寺社奉行に任命されてまもなくの事、彼は、幕府老中より、ある密命を受けたのです。
それは結城城(茨城県結城市)に眠る埋蔵金の発掘!!
そもそもは、その奥州藤原氏・・・(7月13日参照>>)
奥州藤原氏が、京の都に勝るとも劣らない栄華を誇った背景に、陸奥特産とも言える黄金(砂金)がもたらす莫大な財力があっった事は、皆さまご存じの通り・・・
今に残る中尊寺金色堂は、まさに、その象徴とも言える物ですが、上記の通り、文治五年(1189年)に源頼朝に攻め込まれ、第4代藤原泰衡(やすひら)の死を以って、奥州藤原氏は滅亡するわけです。
この時、源平の合戦や木曽義仲討伐にも参加し、この奥州でも頼朝に従って武功を挙げ、後の鎌倉幕府では頼朝の側近となって、あの梶原景時と並び称されるほどの重要人物となったのが結城朝光(ゆうきともみつ=小山朝光)・・・朝光一代でのあまりの出世ぶりに、頼朝のご落胤説もあり、朝光以下、代々の当主が継ぐ「朝」の字は頼朝の「朝」なんて話も・・・
とにもかくにも朝光は、一連の合戦の恩賞として、この時に、頼朝から結城郡を与えられたと考えられています。
その結城氏は、2代め朝広までは鎌倉幕府の重臣として栄えたものの、3代め以降の当主が夭折(ようせつ=若くして亡くなる事)したり後継ぎに恵まれ無かった事から、いち時衰退しますが、室町幕府から南北朝にかけて再び勢力を盛り返し、再度の最盛期を迎えます。
その、再びの盛り返しの原動力となったのが、初代の朝光が、頼朝から分け与えられた藤原氏の黄金では無かったのか???・・・と、
もちろん、実際に、そんな事があったのか?無かったのか?はわかりませんが、結城氏が、石高のワリには豊富な財政を誇っていた事から、江戸時代頃には、「藤原氏の黄金を結城氏が受け継いでる説」が、もっぱらの噂となっていたようです。
とは言え、戦国時代の結城氏は、後北条氏や上杉氏などの大大名に翻弄されて揺れ動きながら、最後には、秀吉の小田原征伐に馳せ参じて所領を安堵された後、秀吉の養子となっていた徳川家康の次男=秀康を養子に迎えて、何とか存続を図った・・・
そう、ご存じ、結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)ですね。
んん?でも、この秀康が結城氏の後継ぎとなったのなら、もし本当に、かの藤原氏から受け継いだ黄金があったとしても、それは秀康の物になったはず・・・
ところがドッコイ・・・戦国の世での生き残り作戦のために秀康を養子に迎えた第17代当主の結城晴朝(はるとも)ですが、やはり、イザとなったら、その血筋が絶える事がツライ・・・
そこで、いつか、ホンモノの結城家が再興される事を願って、その日のために、黄金財宝のすべてを、そっくりそのまま結城城のどこかに埋めてしまったというのです。
それを知った秀康が、必死のパッチで黄金を探すも見つからず・・・やがて、ご存じのように、秀康は越前(福井県)に転封となって越前松平家となるので、結城城は破却され、廃城となりました。
以後、ここは幕府の天領となり、幕府からは「何人たりとも、結城城に立ち入るべからず」のお触れ書きが出されていたとか・・・
やがて元禄十三年(1700年)に、この地に移封された水野勝長(かつなが)によって、その3年後に、新たな結城城が再築城されますが、その頃には、すでに以前の結城城がどのような物であったかさえ、忘れ去られていた状態だったと・・・
そうです・・・今回の大岡忠相さん、財政難にあえぐ幕府のために、もはや、その縄張りさえあやふやになった以前の結城城に埋められているかも知れない埋蔵金を掘り起こすように命じられたというわけです。
しかし、さすがの名奉行の大岡さまでも、埋めた直後の秀康でさえ見つけられない物を、そう簡単に見つけられるはずもなく・・・
「どうや…どう、なってる?」
「もう、見つかったか?」
と、老中たちは、忠相が登城するたんびに聞いてきますが、
それに対する忠相の返答が、
「いえ、まだでございます」
から
「掘り跡のあるとこや、土色の変わってるとこは、もちろん、もう、手当たり次第に掘ってますさかいに!」
と、その口調が変わるほどの期間を費やしても、結局、この時は見つかりませんでした。
・・・で、その後も、幕府は、江戸時代を通じて、6回も埋蔵金探しを行ったのだとか・・・
建て替えられた結城城は、幕末には戊辰戦争の舞台にもなって、またまた廃城・・・もはや、その遺構も判別し難い姿となりましたが、それでも、明治・大正と、この地を掘り起こそうとする人が後を絶たなかったのだとか・・・
奥州藤原氏の思い、結城氏の思い、徳川幕府の思い・・・いくつもの時代の様々な欲望に翻弄された結城城ですが、今は、一部が公園となり、静かに平成の世を迎えています。
果たして、その下には、今も眠っているのでしょうか?
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コメント
茶々さん、こんにちは。埋蔵金は現代でも話題になりますよね。武田家の埋蔵金を調査する特番もあったような。
投稿: いんちき | 2012年8月13日 (月) 14時58分
いんちきさん、こんにちは~
なんか、お金の事でありながら、ロマンがある気がしますもんね~
実際には、一所懸命探すより、偶然見つかる事の方が多いのでしょうけど…
投稿: 茶々 | 2012年8月13日 (月) 17時45分