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2012年8月19日 (日)

高氏改め足利尊氏が中先代の乱の後に…

 

建武二年(1335年)8月19日、前月に勃発した中先代の乱で主力となっていた諏訪頼重らが自刃し、討伐に向かった足利尊氏によって乱が鎮圧されました。

・・・・・・・・・

建武二年(1335年)7月23日に反乱軍が鎌倉を占拠・・・というお話をさせていただいた中先代の乱・・・(2012年7月23日参照>>)

この2年前・・・
千早城で踏ん張る楠木正成(2月5日参照>>)
京都を攻めた足利高氏(後の尊氏)(5月7日参照>>)
鎌倉を攻めた新田義貞(5月21日参照>>)
らの協力得て鎌倉幕府を倒した後醍醐(ごだいご)天皇は、その後、ご存じの建武の新政(6月6日参照>>)を開始します。

この鎌倉幕府滅亡の時に、事実上の最後の執権として自刃したのが第14代執権=北条高時(ほうじょうたかとき)です(5月22日参照>>)
(実際には、執権職は16代まで)

今回の中先代の乱は、その高時の遺児北条時行(ときゆき)を担いだ信濃(長野県)諏訪頼重(すわよりしげ)らや、北条一族の生き残り=名越時兼(なごえときかね)らが東国で起こした、北条復権を願っての反乱・・・

・・・で、先に書いた通り、攻め寄せた反乱軍は鎌倉を占拠し、この地を任されていた後醍醐天皇の皇子=成良(なりよし・なりなが)親王(八宮)と高氏の弟=足利直義(ただよし)は、命からがら、駿河(静岡県)へと脱出する事になります。

脱出した直義らからの知らせにより、時行らの反乱を知った京都では、早速、高氏を征討に向かわせる事を決定しますが、この後醍醐天皇の命令を受けた高氏・・・それを引き受けるにあたって二つの交換条件を提示します。

「あの元弘の乱の時に、僕が援軍として加わったさかいに(4月16日参照>>、全国からの兵が倒幕軍に加わって、ほんで一気に勝利に導く事ができたんですやん。

Asikagatakauzi600 せやから、今、天皇さんのもとに天下が統一できたんも、この高氏の軍事的功績が大きいと思いますねん。

そもそも征夷大将軍の地位って源平両氏の武将が、その功績によって任命される物で、今までもいっぱい例がある事ですよって、どうか、今後の朝廷のためにも、我が足利家のためにも、僕を征夷大将軍にしてくださいよ。

それと・・・
反乱軍を鎮めるためには、戦いに功績のあった武将に、どんどんその場で恩賞を与えんと、彼らの士気も高まりませんし、忠義心を導く事もできません。

今みたいに、よーけの手続き踏んで褒賞を得るまでに時間がかかるようでは、どないもなりませんよってに、今回を含め、ちょっとの間、僕が、直接、軍の論功行賞を行えるようにしてくださいよ。

それやったら、今すぐ鎌倉に行って朝敵を征伐します・・・けど、この2点を許可してもらわれへんねやったら、反乱鎮圧は別の人にやってもろてください」

そうです。
ご存じのように、建武の新政は天皇の親政・・・天皇の許可なくしては賞罰すらままならぬ状況で、これまで、命を賭けて戦った武士たちには、かなりの不満が溜まっていたのです。

この高氏の言い分を許すか?許さないか?・・・
朝廷にとっては、かなりの重大事項ですが、意外にもあっさり決定・・・

ただし、あっさり許されたのは、関東8ヶ国の管理と支配権・・・つまり、上記の後半の条件だけで、征夷大将軍に関しては、「今回の反乱鎮圧の功績を見てから…」という事で、保留となりました。

その代わり・・・と言っては何ですが、後醍醐天皇は、自らの名前=「尊治(たかはる)から「尊」の1文字を高氏に与える事に・・・そう、ここから、足利高氏は足利尊氏となります。

という事で、結局は征夷大将軍に関する正式な勅状(ちょくじょう=天皇の命令を記した文書)が無いまま、やむなく出陣する尊氏・・・

途中で、直義らとも合流して5万余騎となった尊氏軍が鎌倉へと進軍します。

もちろん、これを迎え撃つべく反乱軍も3万余騎を擁して鎌倉を出発しますが、遠江(とおとうみ=静岡県西部)橋本相模(さがみ=神奈川県)相模川などで連戦連敗し、やむなく鎌倉へ退去・・・

敗軍となった反乱軍は、最後の最後・・・建武二年(1335年)8月19日には、わずか300騎となり、諏訪頼重以下、指揮官たちが全員自刃しました。

その時、その死体が誰なのか特定できないように、顔の皮を剥いでいたため、この時は、彼ら反乱軍に担がれた時行も自刃したものと判断されましたが、彼は、見事脱出し、後の南北朝動乱のさ中でに南朝方の武将として登場します(1月28日参照>>)、そのお話は、また別の機会にくわしくさせていただくとして・・・

とにもかくにも、こうして速やかに関東を制圧した尊氏・・・ここで、約束通り、自らの判断で、乱の鎮圧に功績のあった者への褒賞を行うわけですが、これが、けっこう、後醍醐天皇が思っていた以上に独断的で、しかも長期・・・

「京都に帰っておいでよ!」
の後醍醐天皇の要請にも応じず、何やら、鎌倉に腰を据えて、あたかも武家政権の誕生を思わせるかのように・・・やがて、浮上して来る「尊氏謀反」の噂・・・

しかも、ここに来て、かの中先代の乱の時、鎌倉を脱出しようとした直義が、そのドサクサで、幽閉状態にあった後醍醐天皇の皇子=大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・もりながしんのう)(2009年7月23日参照>>)を殺害していた事が問題に・・・

これが決定打となって、後醍醐天皇は尊氏討伐の命令を下し、その命を受けた新田義貞が東へと向かいますが、そのお話は、11月19日【朝敵・尊氏を追討せよ…大将軍・新田義貞】でどうぞ>>
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