大陸に渡った奝然と釈迦如来像と清涼寺と…
永観元年(983年)8月1日、東大寺の僧・奝然が、宋に向け、中国船にて出港しました。
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渡来系の氏族・秦氏の出身とされる東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は、近江(滋賀県)の石山寺にて真言密教を学びました。
早くから、仏教の聖地=中国に渡って聖地を巡礼し、本場の仏教を日本に持ち帰りたいという夢がありましたが、当時は、あの菅原道真が遣唐使を白紙(894年)に戻して(9月14日参照>>)以来、約100年ほど、日本から中国に赴く事が無かった時代でした。
ようやく夢が叶ったのは、40代も半ばを過ぎた頃・・・しかし、それこそ、夢が叶うのに、早いも遅いもありません。
永観元年(983年)8月1日、奝然は意気揚々と中国商船に乗り込み、一路、宋(中国)を目指したのです。
一方、彼を迎える中国側も、ほぼ、100年ぶりの日本からの訪問者という事で、彼を大歓迎・・・
なんと、北宋の第2代皇帝・太宗(たいそう)に謁見する事もできました。
この時、日本という国に興味津々の太宗に・・・
「日本は、代々、血のつながった国王(天皇)が統治をし、家臣たちも世襲制で、それに従っています」
と奝然が、日本の事を紹介すると、太宗は、いたく感激し、
「日本は、島国の夷(えびす)やと思てたけれど、国王が代々世襲するなんて、古の理想的な形やないかい・・・せやのに、我が国は、唐の昔から分裂ばかりを繰り返して、大臣や名家も短命に終わってしもてる」
と嘆きながらも
「私は、古の王に劣るかも知れんけど、これからも徳を積んで政治に励み、後々まで、朽ちる事の無い世を造りたい」
と言ったのだとか・・・
その後、奝然は、五台山や天台山などの聖地を巡りつつ3年間の修行を終えた後、無事に帰国・・・その時、かつての遣唐使がそうしたように、彼もまた、沢山の仏典や仏像を持ち帰って来ています。
その中の一つが、現在、京都・嵯峨野の清涼寺のご本尊となっている国宝の釈迦如来像・・・
この清涼寺が、昔から「嵯峨釈迦堂」と呼ばれて庶民に親しまれているのも、この釈迦如来像が、超有名だからなのですが・・・では、なぜに、そこまでの信仰を集めたのか???
実は、この釈迦如来像は、生身のお釈迦様をそのまま映したお姿だからなのです。
その昔、お釈迦様が、母の摩耶夫人(まやぶにん)に法を説くために忖利天(とうりてん=別世界の天)に昇った際、しばらくお釈迦様に会えない事を悲しんだ弟子たちの姿を見かねた優塡王(うでんのおう=紀元前6世紀頃のインドの王)の発案によって、現在の生きているお釈迦様ソックリの像を造らせたのです。
果たして、90日後に戻って来たお釈迦様は、その像を見て
「メッチャ似てるやん。。。私が死んだ後は、この像が、私に代わって、皆を救ってくれるに違いないわ!」
と言って、大変喜んだのだとか・・・
その像が、やがて、インドからヒマラヤを越えて中国へと渡り・・・
そう、この時、奝然が持ち帰った釈迦如来像は、そのお釈迦様の像を、そっくりそのまま、現地で模刻した物なのです。
確かに、高さ160cmの等身大の像は、日本の仏像には無い雰囲気を醸し出しています。
また、昭和二十八年(1953年)、この像の胎内から絹で造られた五臓六腑(ごぞうろっぷ=内臓の事…くわしくは1月10日のページ参照>>)が発見されています。
これは、奝然が、この像を模刻した際に5人の中国人尼僧によって手作りされて納められた物・・・そう、それこそ、生身のお釈迦様を映した像という事で、内臓も納められていたというワケです。
清涼寺…清涼寺への行き方は、本家HP:京都歴史散歩「嵐山・嵯峨野」でどうぞ>>
残念ながら、奝然自身は、その釈迦如来像を納めるべく建立するはずだった清涼寺の完成を見る事なく、長和五年(1016年)に79歳でこの世を去りますが、
その思いは弟子によって受け継がれ、さらに、お堂が完成した後には、1000年に渡って「釈迦堂」と親しまれるのですから、おそらく、奝然さんも、空の上で、喜んでおられる事でしょう。
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コメント
清涼寺釈迦堂の謂われは知りませんでした。
昨年の浅井三姉妹ブームのお陰で、当家の過去帳が清涼寺にあるのを初めて知りました。大坂の陣で豊家に殉じた夫妻と子供達、その祖母のものです。オリジナル茶々様・秀頼公と命日を同じくしています。
という訳で 我が家とも深い縁のある清涼寺でしたが、今まではあっさり通り抜けるばかりで。次回はゆっくり見てみたいです。
投稿: レッドバロン | 2012年8月 2日 (木) 16時00分
レッドバロンさん、こんばんは~
そうですか、過去帳が清涼寺に…
清涼寺には、大阪城三の丸跡地で発見された秀頼公の物とおぼしき首も納められていますから、やはり、豊臣家と縁の深いお寺なのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年8月 3日 (金) 02時38分