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2012年8月21日 (火)

平忠盛の海賊退治で息子・清盛が昇進

 

長承四年(1135年)8月21日、平忠盛の海賊追討の功により、忠盛の子・清盛が従四位下に叙せられました。

・・・・・・・・・

と言っても、これらの海賊討伐に関しては記録が曖昧で、なかなかに実態がつかめない物なのですが、そのお話に行く前に・・・

そもそも、今年の大河ドラマ「平清盛」や数年前の「義経」などのドラマや小説などでは、何かと平家滅亡に至る源平の合戦に重きを置く事が多いので、「源氏と平氏はライバルで対立しているものだ」というイメージがありますが、先日ご紹介させていただいた平忠常の乱に見るように、もともとは、ともに皇室から臣下として枝分かれした両氏は、地方官として地方に下って、その地元に根をはる平氏と、摂関家とともに中央にいて活躍する源氏という感じだったわけです(6月5日参照>>)

そんな中で、その平忠常の乱を鎮圧した源頼信(みなもとのよりのぶ)・・・というよりは、あくまで、今回起こした乱は国司への反発であって、中央の朝廷に刃向かう気では無かった平忠常(たいらのただつね)が、中央から派遣されて来た頼信に従った形(8月5日参照>>)で乱が終結した事によって、源氏の関東支配が強まり、平氏はその傘下になるという構図で落ち着いたわけです。

その後、頼信の息子である頼義(よりよし)が、晩年に陸奥守(むつのかみ)に任じられて、前九年の役(9月17日参照>>)を戦い、その息子である八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)後三年の役(11月14日参照>>)を戦い、また、その義家の弟・義綱(よしつな)平師妙(たいらのもろたえ)らが出羽で起こした反乱を鎮圧したり・・・と、地方の争乱の鎮圧を一手に引き受ける形となり、この頃の、彼ら河内源氏は武士の第一人者としての評価を得る事になります。

ただ、一方で、彼らは兄弟や同族同志の争いが絶えず、何かと血生臭い事件に発展する事も多くありました。

ま、これには、一旦、兄・義家を持ちあげてみては、次に弟・義綱を持ちあげて義家を冷遇したりなんぞして、源氏の中で、誰か一人が突出する事無く、むしろ、お互いがモメるように仕向けた感のある、白河法皇朝廷の思惑などがからんでもいるんですが・・・

そんな中で、白河院の殿上人にまでなった義家が亡くなると、その後を継いだ弟・義忠が何者かに殺害され、嫌疑をかけられた義綱の子が一族もろとも討伐されるなど、兄弟間・一族間のゴタゴタが、ますます大きくなる中で、義家の息子・義親(よしちか)出雲で反乱を起こします。

源義親の乱と呼ばれるこの乱の鎮圧に派遣されたのが、ここに来て白河法皇の大のお気に入りとなっていた平正盛(たいらのまさもり)・・・清盛のお祖父ちゃんですね(12月19日参照>>)

・・・で、この時に、見事、義親を追討した事で、一気に武将としての名を挙げ、白河法皇の寵愛も増す事になり、正盛の息子である忠盛(ただもり)も、同時に目をかけられる存在となります。

そんな正盛は、一方で、義親を追討した後も、西国の受領(ずりょう=地方に赴任して行政を行う長官)を務めていた関係から、瀬戸内の海賊や地元の勢力と深いつながりを持つようになり、「兵士を率いて上洛した際、そのほとんどが西海&南海の名士だった」という話が記録されていたり、「自宅に海賊をかくまっている」という噂が絶えなかったり・・・

そんな西海の勢力は、正盛亡き後は、そっくりそのまま忠盛に受け継がれる事になりますが、そんな中で浮上して来たのが長承四年(1135年)の海賊の追討問題・・・

瀬戸内海の海賊活動が活発化した問題で、追討使が派遣される事になったのです。

この時の追討使候補には、義親の息子・源為義(ためよし)の名も挙がったようですが、例の兄弟間・一族間のゴタゴタで若くして家長継いでいたために、未だ配下の者の統率が取れずにいた事から、結局、備前守(びぜんのかみ)でもあり、西海にも勢力を持っている忠盛が、その追討使に選ばれます。

Tairanotadamori500 かくして長承四年(1135年)8月・・・見事!海賊の討伐に成功した忠盛は、捕虜の海賊70名を連行して、京都に凱旋するのですが、『長秋記(ちょうしゅうき=源師時の日記)八月十九日の条には
「この中多くはこれ賊にあらず ただ忠盛の家人にあらざる者をもって 賊慮と号し進らすと云々」
とあり、なんとなく、
「西海にて、現地の有力者を自らの傘下に収めようとする際に、それに従わない者を『海賊』と称して検非違使(けびいし=京都の治安維持・司法警察)に引き渡してるんじゃないか?
てな事を、京都の人たちも、うすうす感じていたようです。

とは言え、確固たる証拠も無いわけで・・・結局、そんな噂が囁かれるくらいですじゃら、今回の海賊鎮圧の実態は、まったく以って不明なわけです。

ただ、その真偽はともかく、忠盛は、このような軍事活動と受領経験によって、着実に、西海での勢力を強固な物にしていったわけで、おかげで、息子・清盛も、長承四年(1135年)8月21日従四位下に叙せられ、後には、この父のしっかりした瀬戸内の地盤を受け継いで、祖父・正盛の時代には『最下品(さいげぼん=侍身分)』と呼ばれた伊勢平氏を、貴族をもうならせる頂点へと導いていくのは、ご存じの通りです。

一方、この時、海賊追討使を逃した為義は、未だ統率の取れない郎党に悩まされながらも、やがては、荘園の管理や僧兵対策に武力を必要としていた藤原摂関家の信頼を得て、摂関家の荘園支配に関与するようになり、自らは京都を拠点としながらも、長男の義朝(よしとも)や次男の義賢(よしかた)や三男の義広(よしひろ)を関東に、八男の為朝(ためとも)を鎮西にと、一説には50人もいたという息子たちをフル活用して各地に進出し、勢力基盤を築く事になります。

ちなみに、今年の大河の玉木さんの熱演で、ご存じかとは思いますが、この為義さんの長男の義朝さんが、源頼朝のお父さんです。
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さま、こんばんは


今日の記述について質問です。

>そんな中で、殿上人にまでなった
>義家が亡くなると、

・・・とありますが、
大河ドラマ「平清盛」の中では、
清盛の父・忠盛は
”武士で初めて殿上人になった”と語られていました。
正しくは、八幡太郎義家の方が先に殿上人になっていたんですか?
それとも、それとこれとは意味合いが違うのでしょうか?

投稿: hana-mie | 2012年8月21日 (火) 21時00分

hana-mieさん、こんばんは~

説明不足で申し訳ありませんでしたm(_ _)m

殿上人とは、天皇から昇殿が認められた人の事ですが、天皇以外にも、院(法皇や上皇)や東宮(皇太子)なども、それぞれの御所で昇殿を行っていて、いずれも「殿上人」と呼ばれるので、そのように書いてしまいましたが、義家は白河法皇の院御所に昇殿を許された殿上人です。

忠盛が武士で最初の…というのは、天皇の内裏に昇殿を許された殿上人という事です。

区別する場合は、前者を「院殿上人」、後者を「内殿上人」と言うそうですが、一般的に「院殿上人」より「内殿上人」のほうが格上と考えられているそうなので、「清盛の父・忠盛は”武士で初めて殿上人になった”」という表現になるのだと思います。

ややこしいので、本文を「白河院の殿上人」という表現に変更させていただいときます。
申し訳ありませんでした。

投稿: 茶々 | 2012年8月22日 (水) 00時47分

茶々さま

丁寧に解説していただき、ありがとうございました。
よくわかりました(*^_^*)

投稿: hana-mie | 2012年8月23日 (木) 21時51分

hana-mieさん、こんばんは~

お返事、ありがとうございましたm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2012年8月24日 (金) 01時12分

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