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2012年8月25日 (土)

近江聖人・中江藤樹の「心の学問」

 

慶安元年(1648年)8月25日、江戸初期の儒学者で、日本陽明学の祖と称される中江藤樹が41歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

中江藤樹(なかえとうじゅ)・・・上記の通り、江戸時代初めの学者さんですが、おそらく、戦前の教育を受けられた方々には、もはや説明もいらない有名人だと思います。

そう、この方も、楠木正成(5月16日参照>>)二宮金次郎(10月6日参照>>)のように、明治初期の国語の教科書や修身の教科書に必ず取り上げられていた人です。

そんな中でも、教科書に登場する、最も有名なお話は・・・

・‥…━━━☆

江戸時代初めの頃のある日、近江の国(滋賀県)に住む又左衞門という馬方(馬に人や荷物を乗せて運ぶ仕事)が、京都に向かう飛脚を乗せました。

無事、送り届けてから自宅に戻り、馬を洗おうとすると、鞍の間に何やら袋が挟まっています。

中身を確認すると・・・なんと200両もの大金!!

「きっと、さっきの飛脚に違いない…さぞかし困ってるやろ」
と感じた又左衞門は、夕暮れ迫る街道を30kmもひた走り、さっきの飛脚が泊る宿へと、その袋を届けるのです。

一方、宿では、疲れを癒しに風呂に入ろうとした飛脚が、お金が無い事に気づいて大慌て・・・あっちこっち探しても、いっこうに見つかりません。

右往左往している所にグッドタイミングで現われた又左衞門・・・受け取って中身を調べると、ソックリそのまま200両は無事・・・

「いやぁ、ありがとう…実は、このお金は藩の公金で、京屋敷まで届けるとこやったんや。
もし、失くしたとなったら、ワシの死罪どころか、親兄弟まで処罰されるところやった。
正直に届けてくれて…ホンマ、おおきにm(_ _)m」

と、涙ながらに感謝感激!!

早速、お礼を・・・と自らのポケットマネーから15両を出して、又左衞門に手渡そうとしますが、
「なんでですのん??
アンタはんのお金をアンタはんに返しただけで…お礼なんて貰う事できませんがな」

と言って受け取りません。

しかし、飛脚にとっては、物が200両もの大金ですし、わざわざ持って来てくれたわけですし、ある意味命の恩人だし・・・
「ならば…」
と、金額を10両に減らしますが、又左衞門はやっぱり拒否・・・

Syouzikinaumakata800 さらに5両、3両・・・と減らしていく中、困り果てた飛脚の顔と、あまりの押し問答のやりとりに、
「ほな、ここまで30km走った駄賃として200文だけ貰いますわ」

と又左衞門は、200文だけ頂戴しますが、すぐさま、その200文をお酒に変えて戻って来て、宿の主人やらと、何やら雑談しながら、楽しそうに酒を酌み交わし、ちょうど酒が無くなったころあいを見計らって、
「ほな」
と、帰宅の途につこうとします。

この様子を見ていた飛脚・・・あまりのデキた人物に、
「この馬方は、おそらくタダ者ではない…きっと、名のある人物に違いない」
と思い、
「あなた様は、どのようなお方で??」
と聞きます。

すると又左衞門は
「アハハ…見ての通りのただの馬方でんがな。
ただ、ウチの近所に中江藤樹という先生が住んではってな。
俺も、時々、先生の話を聞きに行くんやけど、その先生が、
“一日一善をすると、一日一悪が去る”
とか
“陰徳
(人知れず良い事を行う)のある者には必ず陽報(良いむくい)がある”
とか、イロイロ教えてくれはりますねん。

先生は、日頃から、“人を傷つけたり、人に迷惑をかけたり、人の物を盗んだりしたらアカンで”って言うてはります。
今日は、先生の教えの通りにしただけ…お金は俺の物やないさかいに、持ち主に返しただけですやん」

と言って、家に帰っていったのだとか・・・

・‥…━━━☆

藤樹は、こういった身分の低い者とも分け隔てなく接し、解りやすい言葉で人としてあるべき道を説いた人・・・その言葉は、広く、そして深く、人々の心に刻まれ、人は藤樹の事を「近江聖人」と呼びます。

と、ここまで書けば、まさに、昔の教科書のように「中江藤樹=聖人君子」みたいな感じに思えて来ますが、私としては、藤樹という人は「神」のような完璧な存在ではなく、もっと人間臭さ溢れる人物だったように思います。(←個人的感想です)

いや、その方が、個人的には好きです。

Nakaetouzyu600 慶長十三年(1608年)・・・近江で農業を営む中江吉次の長男として生まれた藤樹(諱は原=はじめ)は、9歳の時に、米子藩・加藤家に仕えていた祖父・徳左衛門の養子になって米子に住む事になります。

んん??
お父さんが農業で、お祖父ちゃんが武士で、その養子???

そう、実は、徳左衛門と吉次は、藤樹が生まれる前から、なぜかソリが合わず・・・で、その所領のほとんどを次男に与えていたので、長男の吉次は農業をやっていたわけですが、年老いて、いざ、後継者の事を考えると、長男がいるのに次男に譲るわけに行かず、息子二人を飛び越えて、孫の藤樹を養子にして譲ろうと考えたという事のようです。

その後、藩主の加藤家が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなったので、祖父とともに藤樹も愛媛へ・・・やがて元和八年(1622年)に祖父が亡くなり、藤樹は、15歳で家督を継ぎました。

若くして後を継いだ藤樹ですが、頭も良く、生真面目で仕事熱心、学問好きで完璧主義な性格は、なかなかに見事に仕事をこなしていたようですが、そのぶん、気を張り過ぎて、どうやら、彼自身には、相当な負担がかかっていたようで、この頃から、持病の喘息に悩まされるようになります。

彼が朱子学と出会うのもこの頃・・・論語の講師として招いた禅僧に触発されて、様々な書物を読むうち朱子学に出会います。

そして寛永十一年(1634年)、結局、27歳で、「母か心配」なのと「病気」を理由に藩に辞職を願い出ますが許されず・・・脱藩をして京都に隠れ住み、その後、ほとぼりが冷めてから、故郷の近江へと戻ります。

・・・と、ここで、彼が心配する母・・・

確かに、このお母さんは体が弱く、ともに暮らしていた時から病気がちでしたが、9歳で祖父の養子になった藤樹が、母に会いたい一心で学校をサボって実家に戻った時、
「母さん!」
と泣きながら駆けよる彼に、
「ストップ!
と、井戸で水汲みしていた手を休め、
「男っちゅーもんは、1回、目標を決めて家を出たんやったら、めったな事で帰って来るもんやない!
ウチの事なんか心配せんと、さっさと学校に戻らんかい!」

と、ピシッと言ってのけた強き母です。
(どこかで見たと思ったら天地人の加藤清史郎くんと田中美佐子さんだった)

個人的には、この時の藤樹の脱藩は、確かに母も心配で親孝行の気持ちもあっただろうけど、どちらかと言えば、生真面目であるが故に完璧にこなそうとして、緊張に次ぐ緊張の連続だった武士としての宮仕え仕事を、「もう、やっていけない」と感じていたのでは?

悪く言えば、仕事に挫折したのではないか?と思います。

ただ、その挫折を、ただの挫折で終わらせないところが藤樹の藤樹たる所以・・・
挫折したからこそ自らの進む道を見つけ、
挫折したからこそ学問の何たるかを知り、
挫折したからこそ人の心の本質に迫る事ができたという事なのではないでしょうか?

故郷に戻った藤樹は、真っ先に、(武士は辞めたので)もう、不要となった刀を売ります

この刀を売る仲介役をやってくれたのが、冒頭のお話の中で出て来た馬方の又左衞門・・・18年ぶりに戻った藤樹にとって、再出発の故郷の地で知り合いになった最初の友人でした。

まもなく、私塾を開設した藤樹・・・その屋敷に藤があった事から、門下生たちから「藤樹先生」と呼ばれるようになり、塾の名も藤樹書院としました。

やがて、朱子学から陽明学の影響を受けて、彼なりの物事の道理を追究しながら、様々な著書や名言を残し、その思想は、「心の学問」として、多くの後輩たちに影響を与える事になります。

●父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し
お父さん、お母さんは、子供のためならどんな苦労も惜しまないもの・・・ただ、それをあえて子供には言わないからわからないだけで、それは天よりも高く、海よりも深いのです。

●善をなすは耕うんのごとし
良い行いをするという事は、田畑を耕すような物・・・すぐには結果はでないけれど、必ず、秋には実りとなるでしょう。

●人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし
人は皆、“明徳”というすばらしい物を持ってこの世に生まれて来るもの・・・だから、本当の悪人なんて、この世にはいない。

●それ学問は心のけがれを清め、身のおこないをよくするを以って本実とす
学問という物は、心の汚れを清め、行いを良くするための物…高い知識を詰め込むだけなら、それは満心を産むだけです。

●それ人心の病は、満より大なるはなし
もともと善人ばかりのはずが、それを曇らせてしまうのは満心という病・・・高満な心を持ち続けていると、やがて大事な物を失ってしまうのです。

他にも、様々な逸話や言葉が、今に伝わる藤樹さん・・・どれもこれも、現代人の心にも響くものとして共感を呼んでいます。
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