南北朝の幕開け…光明天皇の即位
延元元年・建武三年(1336年)8月15日、北朝第2代・光明天皇が即位しました。
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後醍醐(ごだいご)天皇とともに、鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)足利尊氏(あしかがたかうじ=当時は高氏)でしたが、後醍醐天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に不満を抱いていたところ、東国で起こった中先代の反乱(7月23日参照>>)の鎮圧に派遣された事をキッカケに、尊氏は、後醍醐天皇に反旗をひるがえします。
一旦は、天皇側から敗北を喰らう(1月27日参照>>)も、九州で態勢を立て直した(4月26日参照>>)尊氏は、光厳(こうごん)上皇を奉じて畿内へと攻め上り、湊川(みなとがわ)の戦いで楠木正成(くすのきまさしげ)を自刃させ(5月25日参照>>)、続く、京都合戦で新田義貞(にったよしさだ)に勝利して、京都を制圧しました(6月30日参照>>)。
尊氏の進攻を受けた後醍醐天皇は比叡山に逃れます。
この時点で、尊氏が奉じている光厳上皇・・・ちょっと、整理しますと、この光厳上皇は、かの後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱=元弘の変に失敗して隠岐へ流された時(3月7日参照>>)に、後醍醐天皇に代わって、鎌倉幕府=北条氏が擁立した天皇です。
なので、北条氏滅亡の際は、むしろ、北条氏と行動をともにしていた天皇で(5月9日参照>>) 、だからこそ、今回は後醍醐天皇とともに比叡山へは逃げず、攻め上って来た尊氏と行動をともにしたわけですが、その北条氏を倒した後醍醐天皇が天皇に復帰した時に廃位され、その新体制のもとでは、特例として上皇の尊号を受けたものの、実際には、以前に天皇になっていた事さえ否定されている微妙な立場でした。
そこで尊氏は、その光厳上皇に、弟の豊仁親王を猶子(ゆうし=契約関係によって成立する親子)にしてもらい、延元元年・建武三年(1336年)8月15日、光明(こうみょう)天皇として即位させたのです。
三種の神器の無いまま、光厳上皇の院宣(いんぜん=上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書)による即位でした。
一般的に、光厳天皇が北朝初代で、光明天皇が北朝2代と言い現しますが、厳密には、上記の通り、光厳天皇が天皇だったのは鎌倉時代で、廃位のまま、特例で上皇になり北朝=尊氏に味方する・・・という事ですね。
とは言え、その一方で周到な尊氏・・・京都を追い出された形の後醍醐天皇に誘いをかけます。
「自分には、天皇に対しての反逆の意思はなく、京都で合戦に及んだのは、あくまで、新田義貞を討つため・・・天皇には、ぜひとも京都に戻っていただきたい。
なんなら、もっかい天皇になってもろてもええんでっせ」
との密使を送り、和睦を打診するのです。
これを受け取った後醍醐天皇・・・その文書に、伝教大師勧請の起請文(比叡山開祖の最澄の身代わりに誓いを立てた文書)が添えられていた事から、すっかりその内容を信じ、重臣の誰にも相談する事はく
「ほな、近々京都に行くよってに…」
との返事を出し、従う者の人選まではじめちゃいます。
驚いたのは、「後醍醐天皇が尊氏と和睦??」の噂を聞いた義貞です。
なんせ、彼は、ずっと天皇のために戦っているわけですから、むしろ、その情報は間違いなのではないかと思い、一族の堀田貞光(ほったさだみつ)を、後醍醐天皇のもとに派遣・・・しかし、そこで、それが事実である事を知った貞光は、涙ながらに天皇に訴えます。
この訴えによって、ハタッと、自らの先走りに気づいた後醍醐天皇は、義貞と、その弟の脇屋義助(わきやよしすけ)をそばに呼び、涙を浮かべながら、その心情を語ったのです。
「君らが、同じ清和源氏の一族でありながら、朝敵(国家の敵)の尊氏と袂を分かち、私に忠節を尽くしてくれてる事、ほんま、感謝してるんやで~
これまで、新田の一族を、ただ一つの天下の守護として、国家を統治して行こと、ず~っと考えとってん。
けどな、まだ、運が開かへんうちに戦況が悪なって、朝廷の権威もガタ落ちになってしもたさかい、ここは一つ、尊氏と形ばかりの和睦を結んで様子見て、時期を待とうやないかっちゅー事で、京都に戻るってな事を尊氏に言うたんや・・・
この事は、ホンマは君らに先に報告しよと思ててけんど、もし、秘密がバレたらマズイさかいに、時期を見て話そかな?と思てたところ、貞光が涙ながらに訴えに来たっちゅーわけで・・・
勝手な事して悪かったわ。
こうなったら、君は皇太子(後醍醐天皇の皇子の恒良親王)を連れて北国へ行ってくれるか?
越前(福井県)には、すでに味方の武士を派遣してるし、敦賀の気比社は、こっちの味方になってくれるて言うてる・・・
ただし、このまま、私が京都に戻ったら、君らが朝敵になってしまうよって、ここで、皇太子に皇位を譲って、ほんでから北国へ下ってくれ。
政治の事は、君らにまかす・・・私と同様に、新しい主君を盛りたてたってくれよ。
ほんで、北国で態勢を立て直して、再び、大軍を率いて天下の守護となるようにな!
私は、君らの忠節を信じて、それまで、どんな屈辱にも耐えとくさかいに・・・」
ここに来るまでは
「何、勝手に和睦しとんねん!」
と怒り心頭だった義貞らも、そして彼らに従う関東武士たちも、この言葉を聞いて、感激の涙にくれたと言います。
果たして、北国行きを決意した義貞・・・密かに日吉の大宮権現に参詣し、先祖伝来の家宝=鬼切りという名刀を奉納して、朝敵討伐の祈願し、北へと向かったのです(10月13日参照>>)。
一方の後醍醐天皇は、三種の神器を携えて比叡山を降り、尊氏のもとへ・・・
その三種の神器は、神器無しで即位した光明天皇のもとに渡り、後醍醐天皇には太上天皇の尊号が贈られ、そもそもの最初の約束通りの両統迭立(りょうとてつりつ=持明院統と大覚寺統か交代で天皇を出す…くわしくは伏見天皇のページで>>)にのっとり、光明天皇の皇太子には、後醍醐天皇の皇子=成良(なりよし・なりなが)親王が立てられたのです。
これで、めでたしめでたし・・・
と行かないのは、皆さまご存じの通り・・・
この後、後醍醐天皇は、突然
「あっちに渡した三種の神器はニセ物だよ~ん」
と言って、脱出先の吉野にて朝廷を開く・・・そう、ここから南北朝が始まるわけですが、そのお話は、12月21日のページでどうぞ>>
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