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2012年8月30日 (木)

黒田官兵衛の福岡城…扇坂門の怨霊話

 

本日は、九州は福岡城に伝わるコワ~イお話で、少し涼んでいただきましょう。

福岡城は、ご存じ、黒田如水(じょすい=官兵衛孝高)長政父子(8月4日参照>>)が、関ヶ原の戦いの功績によって筑前(福岡県西部)一国・52万3000石という大幅アップの所領を得た事により、新たに構築した大城郭です。

約250000㎡という広い敷地に、慶長六年(1601年)から7年もの歳月をかけて建てられた城には、大小47もの櫓十数ヶ所もの城門があり、それは、九州の大大名にふさわしい巨大な物で、遠目に見ると、大小に重なる櫓が、鶴の大軍が舞い降りて来るように見えるという事から、別名:舞鶴城とも呼ばれていました。

Fukuokazyoukotizu600 福岡城を描いた古地図

ただ、これだけ巨大な城でありながら、この城には天守が無かったと言われ、それは如水の、徳川家が警戒せぬようにとの配慮から・・・とされていますが、もともと、この城は、戦うための戦国の城ではなく、領国を統治するための城であったと考えられ、そうだとすると、イザという時の立て籠り要塞の役目だった天守は、はなから不用だった可能性もあります。

以前もお話しましたように、この時期は、城の変革期でもありますから・・・(4月6日参照>>)

また、近年、隣国の細川忠興(ただおき)
「黒田長政が、幕府に配慮して天守を壊すと言っていた」
という内容の、元和六年(1620年)3月16日付けの書状が発見された事から、最初はあったものの、幕府の出した一国一城制に配慮して取り壊したのでは無いか?とも言われています。

・・・と、上記の通り、この福岡城を構築したのは、黒田如水&長政父子なわけですが、本日のお話は、その長政の息子で、次に藩主となった黒田忠之(ただゆき)さんの時代のお話・・・

実は、この忠之さん・・・あの伊達騒動(3月27日参照>>)加賀騒動(6月26日参照>>)に並んで、江戸時代の三大お家騒動の一つに数えられている黒田騒動(3月2日参照>>)を巻き越す事から、かなり暗愚なダメダメ藩主として語られます。

本当にそうだったのか?
あるいは、優秀すぎるジッチャンや父ちゃんに比べると・・・って範囲内のものだったのか?
いやいや、本当は優秀だったのに、何かの理由で、事実を歪められて伝えられているのか?

それこそ、ご本人に直接会ってみないとわかりませんが、今回の伝説でも、やはり、ダメな藩主という設定で登場・・・父の長政が亡くなった後は、自分の周囲にはイエスマンばかりを集めて可愛がり、イイ気になって藩政を怠っていたと・・・

で、今回の主人公は、その忠之さんのお気に入りだった浅野四郎左衛門という武士・・・

彼は、もともと下級も下級・・・底辺に近い身分で、ちょっと前までは食べるにも困る貧乏ぶりだったのですが、ゴマスリの達人だったおかげで、藩主・忠之のお気に入りとなり、ここのところ急激にハブリが良くなって来ていたのです。

そうなると、ついつい調子に乗っちゃうのが人の常・・・

城下に繰り出しては、飲めや歌えの宴会に女遊びの酒池肉林の毎日・・・奥さんをほったらかしては、遊び呆けてうたわけですが・・・

実は、という名前の彼の奥さん・・・四郎左衛門がまだまだ貧乏だった頃に貰った奥さんで、気だては良いものの、身分は低く、見た目もも一つ・・・

そうなると、
「今の俺やったら、もっとエエ女がふさわしいんちゃうん?」
と思い始め、やがて、単なる女遊びではなく、お妾さんを囲って、そこに入り浸るようになるのです。

まぁ、この時代、藩主や身分の高い武士には側室がいるわけですし、裕福な商人だってお妾の一人や二人いるのも当たり前でしたが、それは、あくまで、本当に身分が高いか、本当に大金持ちの一部の人のみ許されるもので、四郎左衛門のように、未だ、大した身分でもなく、ちょっとばかりのお金を持ったからってな程度では、やはり良く無い行為というのが常識でした。

なんせ、四郎左衛門程度では、家計の事務的な事をやってくれる家臣や奉公人もいないわけですから、彼に、ちゃんと家に帰って来てもらわないと生活も成り立たなくなっちゃうわけです。

しかし、待てど暮らせど、帰らぬ四郎左衛門・・・

いつしか、奥さんの綱は、毎夜、お妾の家に向かう四郎左衛門が通るであろう扇坂門に立ち、
「あなた、帰って来てちょうだい」
と、涙ながらに説得するようになります。

Fukuokazyounawabarizu600

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福岡城の縄張り図→
扇坂門は、東二の丸から二の丸へ向かう途中にあったそうです。

そうなると、綱がうっとぉしくてたまらなくなる四郎左衛門・・・

ある日、同僚に
「鬼の面をつけて脅かして、嫁を追っ払ってくれ」
と、頼みます。

「まぁ、追っ払うだけなら、いいか!」
と、その同僚は、遊び半分の気軽な気持ちで引き受けます。

そして、その夜・・・
計画通り、鬼の面をつけて暗闇から、飛び出て、綱を驚かす同僚・・・

案の定、綱は驚いて腰を抜かして、その場に倒れてしまいます。

そこを、すかさず、物陰から飛び出てきた四郎左衛門が、倒れて気を失っている綱に向かって斬りつけたのです。

薄れゆく意識の中で、傍らに血まみれの刀を持って立つ夫を見つけた綱は・・・
「なんという卑怯な事を…このようなひどい仕打ち…末代まで怨みます」
と、言い残して息絶えます。

それから異変は起こります。

まもなく、四郎左衛門は原因不明の高熱に冒され、綱の死から1年も経たない間に亡くなってしまいました。

さらに、その後は、この扇坂門を通る・・・それも、男にだけ、不幸な事が起こるようになります。

ケガなどは序の口・・・やがて、死に至る者まで現われ、誰とはなく
「綱の怨念が扇坂門に残って、復讐しているんやろ」
てな噂が流れるようになり、藩によって、門の近くに神社が建てられたとか・・・

それ以降は、ピタリと、その現象も止まったとの事・・・

もともと、気だての良い綱さん・・・おそらくは、神社の建立によって、ふと我に帰り、夫には怨みはあれど、無関係の男性を巻き込む事を止めたのかも知れませんね。
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コメント

久しぶりのコメント失礼します。

今回は福岡城にまつわることなので、日頃以上に興味深く読ませていただきました。

「苦労したときの相手を蔑ろにしてはいけない」という教訓話しとしてもよかですね。

投稿: onelife | 2012年8月30日 (木) 21時24分

onelifeさん、お久しぶりでございます。

お綱さんの怨霊のお話は、今回のお話以外にも、いくつかのバージョンがあるようで、扇坂門の事を「お綱門」と呼んでいたとか、扇坂門の近くに、今は幻となった「お綱門」という名の門があったという話もあるようです。

いずれにしても、苦労した時代の奥さんは大切にしてほしいですね。

投稿: 茶々 | 2012年8月31日 (金) 00時22分

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