迅速・勇猛・果敢…武勇の佐々成政が秀吉に降伏
天正十三年(1585年)閏8月6日、羽柴秀吉が佐々成政を越中新川一郡に削封・・・礪波・射水・婦負郡を前田利家に与えました。
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尾張春日井(名古屋氏西区)に根を張る土豪(どごう=地元の小豪族)の佐々氏に生まれたという佐々成政(さっさなりまさ)・・・
その出自など、はっきりした事はわかりませんが、最初は敵対していた織田信長の傘下に入った後は、その信長が優れた武将を20人選んで任命した母衣(ほろ)衆の隊長に任命されるほどの信頼を勝ち得ています。
母衣衆とは、戦場での最前線と、大将のいる本陣との連絡をする係なので、常に矢面に立つ場所にいて、それらの攻撃をかいくぐって移動するばかりか、それ専門ではなく、普通に戦ううえに、その役を任される物(会社で普通に仕事をしながら、その部屋の火元責任者を任されるような物)なので、それは、もう、大変な役どころでした。
しかし、迅速で勇猛で果敢なうえに負けず嫌いの性格も相まって、そんな中でも常に重要人物の首を挙げていたという武勇伝の持ち主です。
そのスゴさは、あの信長さんでさえ「参った」というほど・・・ある時、信長が成政に恩賞を与えようとしたところ、
「今回は、いただけるほどの武功を挙げてませんので…」
と、かたくなに固辞し、
「その我の強さが、お前の欠点や」
と言われた事もあったとか・・・
とは言え、信長さんも、そこまでの武勇の持ち主なら、キライでは無いわけで・・・
越前(福井県)の朝倉を倒して、柴田勝家に北ノ庄城(福井市)にて北陸の支配を任せた時、同時に、前田利家、不破光治(ふわみつはる)、とともに成政を、その与力・目付けとして府中に置きました。
当時は、未だ上杉謙信の勢力強かりし頃・・・その玄関口となる北陸に、この3人を置いたのは、やはり、それだけ信頼が篤かったわけで、彼らは「府中三人衆」と呼ばれました。
こうして、小丸城(福井県越前市)を居城とする北陸の住人となった成政・・・
やがて、一向一揆などとも戦う(9月8日参照>>)中で、天正九年(1581年)には、正式に越中(富山県)半国を与えられて大名に出世・・・富山城の主となります。
しかし、ここで、ご存じ、本能寺の変(6月2日参照>>)・・・さらに、その後の清州会議(6月27日参照>>)で、柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉との間に入った亀裂が、やがて賤ヶ岳の合戦へと発展します(3月11日参照>>)。
この時、成政は、勝家に味方します。
以前、途中で戦線離脱した前田利家についてお話しましたが(2009年4月23日参照>>)、そこで書かせていただいたように、この時の成政や利家ら「府中三人衆」の立場は、あくまで、「どちらに味方しようが彼らの自由」という立場・・・
彼らは、北陸支店長である勝家のもとに織田家本社か出向している形ですので、織田家内の北陸支店長=勝家に味方しようが、近畿支店長=秀吉に味方しようが、どちらでも構わないわけです。
ただ、この時、未だ、越後の上杉家の動向が気になる成政は富山を離れる事ができず、勝家の味方と言いながらも援軍を派遣した程度で、彼自身は、合戦に参加せず・・・そのおかげか、勝家が負けても(2010年4月23日参照>>)、彼自身は、人質を差し出して剃髪する事で、富山の領土は安堵されました。
しかし、未だ完全に秀吉派とはなれずに悶々とする中(11月28日参照>>)、その後に訪れたのが、秀吉の勢いに脅威を感じた信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)が、徳川家康を味方につけて秀吉と抗戦した小牧長久手の戦い・・・
(3月12日:亀山城攻防戦>>)
(3月13日:犬山城攻略戦>>)
(3月17日:羽黒の戦い>>)
(3月28日・小牧の陣>>)
(4月9日:長久手の戦い>>)
(6月15日:蟹江城攻防戦>>)
東海地方で行われたこの戦いを、秀吉に良い顔しながらも、しばらくは静観していた成政ですが、途中で、どうやら、家康に分があると見えた事、また、隣接するライバルと感じている利家が秀吉についた事などから、成政は、最終的に家康側につく事を表明し、利家配下の末森城に攻撃を仕掛けました(8月28日参照>>)。
それこそ、背後の上杉にも気を配らねばならない状況での戦いで苦戦を強いられる成政でしたが、未だ、北陸での合戦が決着を迎えない間に、なんと、合戦の言いだしっぺの信雄が、単独で秀吉と講和を結んでしまいます(11月16日参照>>)。
まだまだ戦いを続けたい成政・・・慌てて、何とか、この講和を阻止しようと、決死の北アルプス・さらさら越えを決行し、直接、家康に会いに行った成政でしたが(11月11日参照>>)、もはや、信雄が講和してしまった以上、家康だって合戦を続ける大義名分は無いわけで、答えは当然「NO」・・・
訴えが聞き入れられず、寂しく越中へと戻る成政ですが、その翌年の天正十三年(1585年)8月・・・やって来ました秀吉っさん!!!
それも10万の大軍を要して、富山城を囲みます。
信雄と講和して家康を降伏させた秀吉が、あの小牧長久手に信雄&家康側で参戦した武将たちに行った征伐の一環・・・すでに、紀州を征伐し(3月21日参照>>)、四国も手に入れて(7月25日参照>>)、さらに関白に就任しての、満を持しての富山攻め・・・
迎え撃つ成政は、すべての支城、すべての砦の兵を撤退させ、それら全部を富山城に集結させて籠城戦に挑みますが、これをチャンスと見た上杉景勝(かげかつ=謙信の養子)は動きはじめるわ、数少ない同盟者も、秀吉の別働隊に討たれるわ・・・
当時の富山城は、神通川の水を引き込んだ鉄壁の環濠で護られた要塞だったそうですが、さすがの成政も、10万に囲まれて孤立無援では、万事休す・・・
8月29日、やむなく降伏し、自ら剃髪(2回目かい?)して、秀吉の前に参上(8月29日参照>>)・・・これが、潔かったのか、秀吉は成政の命を取る事はありませんでした。
(まぁ、長宗我部も生きてるしね)
その代わり・・・
天正十三年(1585年)閏8月6日、成政の新川郡以外の領地をすべて没収して利家に与える事を決定し、成政自身は、妻子とともに大坂城で暮らす事に・・・
これより、成政は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう=殿様の話相手)となります。
この時の成政・・・生年が諸説あって様々なのですが、少なくとも50歳は越えていたと思われる年齢・・・
もはや武将人生も最後か・・・と思いきや、
さすがは、信長をもうならせた迅速で勇猛で果敢な負けず嫌い・・・
このままでは終わらず、この次の秀吉の九州征伐で武功を挙げ、再び、肥後(熊本県)一国の大名に返り咲くのですが、残念ながら、その肥後一国が、彼の運命を大きく変えてしまいます。
そのお話は、7月10日のページでどうぞ>>
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コメント
佐々淳行さん(元内閣安全保障室長)は 成政さんの子孫だそうですね。
後藤田官房長官は 淳行さんのことを 血刀を下げて、一人裸馬に乗って敵陣に突入するような奴だと評してました。カミソリ後藤田の喩えが凄いですが、腹がすわっていると言うことでしょうね。
さすがは戦国武将のお血筋です。
投稿: レッドバロン | 2012年8月 7日 (火) 12時41分
レッドバロンさん、こんばんは~
へぇ、そうなんですか~
やはり、血筋ですね~
投稿: 茶々 | 2012年8月 7日 (火) 22時09分