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2012年8月 2日 (木)

なでしこジャパンの先駆者・人見絹枝と8月2日

 

昭和三年(1928年)8月2日、昭和六年(1931年)8月2日、
そして、
平成四年(1992年)8月2日・・・

本日は、この3度の8月2日にまつわる人見絹枝さんのお話です。

・・・・・・・・・・・

4年に一度のアスリートの祭典・・・ロンドンオリンピックに沸く今日この頃で、オリンピックにまつわるエピソードがあちらこちらで話題になってる事もあり、ひょっとしたら、この方のお名前を、最近聞かれた方も多いかも知れませんが、この人見絹枝(ひとみきぬえ)さんは、昭和三年(1928年)に開かれたアムステルダムオリンピックに出場し、日本人女性で初めてのメダリストとなった人です。

明治四十年(1907年)に岡山県の農家の次女として生まれた絹枝は、初め、テニスの選手として、ごく普通の高等女学校生活を送っていましたが、もともと運動神経が良くて運動全般に才能を発揮していた事から、大正十二年(1923年)に開かれた岡山県の女子体育大会に陸上競技の選手として出場し、なんと、走り幅跳びで、非公認ながら当時の日本新記録を出して優勝したのです。

翌年、二階堂体操塾(日本女子体育大学)に入学し、塾長の二階堂トクヨから、本格的に体育の指導を受ける事になります。

塾生時代にも三段跳びやらやり投げやらの記録を残した絹枝は、翌年、塾を卒業し、体操教師として指導者になるかたわら、現役選手として三段跳びやら50m走の記録を塗り替えていきます。

大正十五年(1926年)には、大阪毎日新聞社に入社し、スポーツ関連の記者として仕事する一方で、関東陸上競技選手権大会女子体育大会などなど、出る大会、出る大会で、優勝&新記録達成のオンパレード・・・

そんな中で、いよいよ昭和三年(1928年)、21歳の絹枝は、この年に開催されるアムステルダムオリンピックに出場する事となります。

と、今なら、「なんて順調で、見事なアスリート人生なんだ!」って思いますが、実際には、この時代ならではの苦悩が絹枝には圧し掛かっていたのです。

そうです。
おしとやかで楚々とした振る舞いが日本女性の理想とされていた時代・・・太ももを露わにして、大股広げて走る事だけで、「なんてはしたない!」と軽蔑のまなざしで見られていたのです。

彼女のところにも、誹謗中傷の手紙が何通も送られて来ていました。

今回のオリンピックにおいても、実は、彼女にはたのもしい後輩が二人いたのです。

寺尾正(きみ)寺尾文(ふみ)という双子の姉妹・・・その実力は世界クラスで、特に、妹の文は、2年前の大会で100mの世界新記録を出していたほどでした。

しかし、美人姉妹であった彼女らは、好奇な目にさらされるばかりか、彼女らをモデルにした小説まで発表され、これが、彼女たちの父の目に触れて激怒・・・

「このままでは、嫁に行けなくなる」
として、オリンピックの出場を辞退させられたどころか、陸上を続ける事も反対され、尾姉妹は、わずか17歳で選手人生を終えてしまったのです。

結局、アムステルダムオリンピックに出場する女子選手は絹枝1人になってしまいました。

しかも、「出る限りは勝たねばならない」・・・彼女はその重圧とともに、アムステルダムに向かいました。

そして、自身の目標を100m1本に絞ります。

・・・というのも、未だ女子選手への門が開かれたばかりの今回のオリンピックでは、女子選手の陸上競技の種目は、100m800m400mリレー走り高跳び円盤投げの5種目のみ・・・彼女が世界記録を持つ、走り幅跳びは採用されていなかったので、事実上、100mに賭けるしか無かったのです。

しかし、7月30日に行われた100mでは、予選こそ1着で通過したものの、準決勝は4着で敗退・・・決勝進出すら逃してしまいました。

「このままでは、日本へ帰れない・・・」
落ち込みつつも闘志を燃やす絹枝は、なんと、その翌々日に行われる800mの予選に、急きょ、出場する事を決めたのです。

もちろん、未だかつて800mなんて、彼女は正式な競技で走った事はありません。

彼女は思います。
「最初の700mまでだと思って走ろう、最後の100mは体が覚えているはずだ」
と・・・

そう、この時の彼女は、100mの世界記録保持者です。
最後の100mまで行けば、あとはいつも通りに走れば良い、体が勝手に動いてくれるはずだ・・・と自分に言い聞かせて、心を高めました。

8月1日・・・予選は無事通過しました。

そして運命の昭和三年(1928年)8月2日・・・最初の1周めは6位で回った彼女・・・

2週目は、第1コーナーを回った所から徐々にスピードを上げ、5位・4位とどんどん、前の選手を抜いていきます。

あとゴールまで200mという所で、絹枝は先頭を走るドイツリナ・ラトケを捉え、にも追い抜かんが勢いで迫ります。

Hitomikinueatm600 誰もが拳を握りしめ、誰もが固唾をのむ、あと100m・・・しかし、これまで、前者を抜きそうな勢いだったのが、少し弱まり、先頭のラトケと、ほぼ同じスピードを維持したままゴール・・・

残念ながら1位は逃しましたが、堂々の銀メダル・・・絹枝は、日本女性初のオリンピックメダリストとなったのでした。

しかし、ゴールと同時に倒れ込む絹枝・・・なんと、少しスピードが落ちた最後の100m、彼女は失神し、気を失ったまま走っていたのです。

実は1位になったラトケ選手も、この時失神・・・このため、「女子800mは過酷過ぎる」として、しばらくの間、オリンピック種目から外される事になりました。

こうして、メダリストとなった絹枝ですが、オリンピック後も、休む間もなくドイツの国際大会に出場したり、帰国後も、様々な大会に出場して記録を残す中、後輩の育成にも尽力しました。

各地で講演を行って、女子選手の遠征費用をねん出するための寄付金を募ったり、もちろん、手取り足取りの後輩選手の指導も・・・

そんな中でも、未だ修まらない誹謗中傷に対して
「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける しかし私の後から生まれてくる若い選手や日本女子競技会には指一つ触れさせない」
と、堂々の記事を新聞に掲載しています。

オリンピックの翌年の昭和四年(1929年)、そして昭和五年(1930年)と、国内大会はもとより、日本チームを率いての国際大会にも果敢に挑戦していた絹枝・・・

しかし、昭和六年(1931年)の正月頃から、少し、体調を崩すようになります。

ここのところ、わずか半月の間に5大会もの競技大会をこなしており、肉体的にも負担がかかったのか?・・・しかし、実家で休養をとったのは、わずか1日で、またすぐに新聞社に復帰して記事を書いたり、後援者へのお礼に回ったりと、大会が無くても、休む間のない毎日が続きました。

そんなこんなの3月25日・・・彼女は吐血してしまうのです。
胸膜炎(きょうまくえん)でした。

すぐに阪大病院に入院する絹枝ですが、この病気は単独で起こる事は少なく・・・案の定、まもなく肺炎を併発します。

そして昭和六年(1931年)8月2日・・・奇しくも、あの銀メダルを獲得した3年後の同じ8月2日に絹枝は24歳の若さでこの世を去ったのです。

それから35年・・・
昭和四十一年(1966年)の暮れに、絹枝と同じ岡山県に女の子が生まれます。

彼女の祖母が、絹枝と同じ女学校の1年後輩だった事で、女は、小さい頃から、絹枝の話を聞きながら大きくなります。

その時、祖母から聞いていた絹枝の言葉は
「今は、こんなだけど、やがていつか、スポーツで女子選手が活躍する日が来る」
という言葉でした。

やがて、絹枝と同じ陸上選手の道を歩み始めた彼女・・・

訪れた平成四年(1992年)・・・バルセロナで開催されたオリンピックで、彼女は絹枝以来、64年ぶりの女子陸上競技での銀メダリストとなります。

それは、絹枝が銀メダルを取ってから64年後、亡くなってから61年後の平成四年(1992年)8月2日の事でした。

皆さんご存じ、マラソンの有森裕子さんです。

もちろん、バルセロナから帰国した有森さんは、真っ先に、絹枝の墓前に報告・・・その胸に輝く銀メダルは、陸上競技で女子選手が活躍する時代が来た事を象徴する物でした。
 .

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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

待ってました!と言いたいのですが、人見絹枝のことは、陸上の選手だった、ということさえ存じませんでした。先日の『歴史秘話ヒストリア』では、アムステルダムで彼女の活躍が長く語り継がれていることが紹介されました。案外そっちで有名なのかもしれません。
この時代女子のスポーツに偏見を持っていたのは日本人だけではなく、クーベルタン男爵も「女子の競技なんかに価値はない」と決め付けていたそうです。絹枝の新聞社での上司は偉いなと思いました。
それにしてもすごい活躍ぶりですね。体調管理に気をつけてくれる人はいなかったのか、といった妄想にかられます。先駆者として競技場以外での戦いが不可避だったとはいえ、そこまでがんばらなくても、とつい考えてしまいます。

投稿: りくにす | 2012年8月 3日 (金) 21時55分

りくにすさん、こんばんは~

そうですね。
オリンピック自体に、ようやく女性が参加できるようになった頃ですから、ヨーロッパでも、まだまだ偏見はあったでしょうね。

選手の体調管理は、それこそ、絹枝が初めて、その重要性を訴えて、事を起こし始めていたばかりでしたから、まずは後輩で、自分自身の事は後回しにされていたんじゃないでしょうか?
つくづく、スゴイ人です。

投稿: 茶々 | 2012年8月 3日 (金) 23時21分

失礼します。私は電子出版をしている者(69歳)ですが、戦前の東京オリンピック開催決定の頃、という題で最近出しました。
kazaguruma.wook.jp で 山田武司<wook
とあるところをクリックしていただけると読めます(無料です)が、そこに人見絹枝さんの手記を掲載しました。このページに書かれていることと変わりありませんが、本人の手記ですので、また真実味が加わります。
よろしければ読んでみてください。織田さんや南部さんや、相澤さんのことも出てきて、涙が出そうになりました。

投稿: 山田武司 | 2013年6月15日 (土) 21時35分

山田武司さん、こんばんは~

コメントありがとうございます。
人見絹枝さんって、つくづくスゴイ人だと…感動しますね。

投稿: 茶々 | 2013年6月16日 (日) 03時15分

上記の件の続きですが、人見絹枝さんの手記を読みますと、織田選手と南部選手のことが出てくるのですが、このアムステルダムオリンピックで金メダルをいただいたのは織田選手ですが、彼女は南部選手、織田選手として、必ず南部選手を先に書いています。
私は思うのです、そうだーーきっと、人見絹枝嬢は南部選手に恋していたんだと。或いは、4年後のロスアンゼルス大会で、この人が金メダルをとることを見抜いていたのだと。
私は恋していたのではないかと思いますが、人見さんと南部選手が結婚していたら、どんなアスリートが生まれたことでしょう。

投稿: 山田武司 | 2013年6月19日 (水) 22時00分

山田武司さん、こんばんは~

様々な状況を踏まえ、イロイロと想像していくのは歴史の醍醐味ですね。

投稿: 茶々 | 2013年6月20日 (木) 02時13分

はじめまして。
門真市民劇団“いっぽ”濱中と申します。
8月10日に、「体育の時間」という芝居を
上演いたします。人見絹枝さんのお話をもとに書いたものです。人見絹枝さんのことがとてもよくわかるように書かれていましたので
勝手なお願いですが、パンフレットの挟み込みにこれを使用させていただくわけにはまいりませんでしょうか?
 突然ですが、ご検討いただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

   門真市民劇団“いっぽ” 濱中早苗

投稿: 団長 | 2014年8月 4日 (月) 16時18分

団長さん、こんにちは~

ご一報、ありがとうございます。
こんなので良ければ、どうぞ、ご使用くださいませ。

できれば、ブログ名やアドレスなど、端っこの方に記載していただければウレシイのですが…o(_ _)oペコッ

投稿: 茶々 | 2014年8月 4日 (月) 16時36分

はい ありがとうございます。
ちゃんと記載させていただきます。

“いっぽ”のHPもご覧下さい。
           濱中 早苗

投稿: 団長 | 2014年8月 5日 (火) 14時10分

団長さん、こんばんは~

精力的に活動なさっておられるようで…ステキですね。
陰ながらではありますが、お芝居の成功を祈っております。

投稿: 茶々 | 2014年8月 6日 (水) 01時59分

こんにちは
高校野球の歴史から興味のおもむくままアレコレ次々と検索しているうちにこちらのページに参りました。
人見絹枝さん、素晴らしい方ですね。日本の女子スポーツの先駆者として道を切り開いたそのご活躍を、恥ずかしながら殆ど存じ上げませんでした。
競技者としても、またスポーツ振興そのものに関わる中心人物としてもその先が広がっていたでしょうに、若すぎる…もったいない。
気が付けばなんと今日は8月2日!
偶然来て通り過ぎるのではなく心に留めておきたいと思い、書き込ませていただきしました。

投稿: yako | 2015年8月 2日 (日) 15時54分

yakoさん、こんばんは~

たまたま検索に当たって、たまたま来られた日が8月2日だったのですか?
それは…なんだか「偶然」って言いきれない感動ですね。

投稿: 茶々 | 2015年8月 3日 (月) 02時20分

再来年の大河ドラマは五輪がテーマで、全部の回が20世紀になってからの出来事なので、このブログの記事作成に苦労しそうだと思いますが、調べてみるとまだ1964年の東京五輪に関する記事がないですね。
64年の東京五輪の出場者がまだ一定数健在であるので、最終盤の回では当事者の証言などを織り込むと思います。

投稿: えびすこ | 2017年12月20日 (水) 09時47分

えびすこさん、こんばんは~

近代史は苦手なので、大好きな戦国の話題がついつい多くなってしまいます(*´v゚*)ゞ
しかも東京オリンピックをナマで見、東洋の魔女の影響でバレー部に入ったくらいなので、なかなか「歴史」という感覚も持てなくて…
でも、近代の事もイロイロやっていかねばなりませんね~と、ちょっと反省(゚ー゚;

投稿: 茶々 | 2017年12月21日 (木) 02時31分

NHKオンデマンドでいだてんを見ていたら日本初の金メダルを取る織田さん達男の選手が走っている人見さんにアドバイスをしていてメダルが取れたのですが、本当に選手全員で取ったメダルですね。
茶々さんの方がお詳しいと思いますが、日本初のメダルはテニス、日本初の金メダルは陸上、日本女子初のメダルが陸上の人見さん、日本女子初の金メダルが水泳の前畑さんと戦前世界的に強かったスポーツは陸上、水泳、テニスという今でもオリンピックの基礎ともいえる種目だったので戦前のオリンピック熱は凄まじいと思いました。おまけに今と違い圧倒的な不利な条件でも勝ったのは凄いと思います。いだてんを見てもそう感じました。来年のオリンピックでも熊谷さん、織田さん、人見さん、前畑さんの気持ちが後輩に伝わっていると思います。

投稿: non | 2019年9月28日 (土) 14時23分

nonさん、こんばんは~

来年のオリンピック、楽しみですね~

投稿: 茶々 | 2019年9月29日 (日) 01時46分

私は長年陸上競技をしていたのに何故か人見さんの話は聞かなかったのです。
織田、南部、田島の三段跳び三連覇、南部、田島の幅跳びのメダル、朝鮮半島の孫、南両氏のメダルは聞くのに何故か同郷の後輩の有森裕子さんの銀メダルまで誰も話さなかったし、話題にならなかったです。
何故か陸上は久しぶりのメダルで先駆者の偉業が思い出されるという何故かそういうのが繰り返しています。
それだけ人々の記憶はすぐに薄れるのだと思いました。
お恥ずかしいことはもう一つありまして戦中の幻の甲子園で地元の徳島商業が優勝したのも実は平成になるまで知らなかったのです。本当に恥ずかしいことばかりです。
茶々さんは如何ですか?
最後にこういうことは記録に残して欲しいと思いました。
追伸:人見さんの記録は世界記録だったそうです。多分国際大会初の日本人の世界記録でしょう。

投稿: non | 2019年9月29日 (日) 20時39分

nonさん、こんばんは~

そうですね~
忘れてしまう事は多々あります。
晩御飯に何を食べたかもあやしい今日この頃ですから…

投稿: 茶々 | 2019年9月30日 (月) 03時19分

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