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2012年9月30日 (日)

関東支配をめぐって…古河公方・足利成氏の波乱万丈

 

明応六年(1497年)9月30日、第4代鎌倉公方・足利持氏の遺児で、初代・古河公方を名乗る足利成氏が64歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じ、初代・室町幕府将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)は、自らの地元が関東であるにも関わらず、南北朝動乱(10月27日参照>>)の不安定さもあって、京都の室町にて幕府を開く事になります(8月11日参照>>)

つまり、将軍は地元を離れて、京都にて政務をとらねばならないわけで・・・

って事で、将軍職は、尊氏の嫡男の足利義詮(よしあきら)が2代将軍となって、その後は、その義詮の血筋が代々将軍職を継ぐ事とし、関東の支配には、鎌倉公方という役職を設けて、尊氏の四男(義詮の弟)である足利基氏(もとうじ)を配置して、その支配に当たらせ、以後、この役職は基氏の血筋が代々継いでいくわけです(9月19日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

ところが、お察しの通り・・・徒歩&馬以外の交通手段の無いこの時代では、京都と関東は意外に遠く、徐々に、関東では公方こそトップ・・・中央の将軍とは距離を置く独立国家のような雰囲気になって来ます。

それが頂点に達したのが、第4代鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)でした。

持氏は、第5代将軍・足利義量(よしかず)が病死した時に、次の将軍の候補にもなった人でしたが(1月18日参照>>)、その時には、例のくじ引きで第6代将軍は足利義教(よしのり)に決まったという経緯もあり、また、その義教が、けっこう強引な恐怖政治をやった人だった事もあり・・・で不満を募らせていったようで・・・

結局、中央政府で元号が変わっても、そのまま以前の元号を使い続けたり、鎌倉五山の住職も、中央への相談無しに勝手に決めるなど・・・強引であからさまな反発をしはじめます。

さらに、もともと鎌倉公方を補佐するために置かれておた役職=関東管領(かんとうかんれい)とも対立します。

この時に関東管領を務めていたのは上杉憲実(うえすぎのりざね)という人物ですが、彼が持氏の行動を諫めたところ、聞く耳持たないどころか、逆に暗殺計画があるなどの噂がたち、恐ろしくなった憲実は関東管領を辞職したりなんぞしてます。

てな事で、もはや誰も止める事ができなくなった強引と強引のぶつかり合い・・・

義教は、朝廷から持氏追討の綸旨(りんじ=天皇の意を受けて朝廷が発給する命令書)を受けて朝敵(ちょうてき=国家の敵)となった持氏を攻め永享十一年(1439年)2月10日持氏は自害(2018年2月10日参照>>)・・・嫡子の義久(よしひさ)も死に、さらに持氏の遺児である春王安王も殺害されました(2007年2月10日参照>>)

長~い前置きになってしまいましたが、この持氏の息子足利成氏(あしかがしげうじ)です。

Asikagasigeuzi500 ・・・と言っても、その幼少期は謎に包まれています。

なんせ、上記の通り、戦乱の中で父が自害し、春王&安王という二人の兄が処刑されてますし、長兄の義久に至っては、自害したのか討死したのかも複数の説があるくらい混乱してますから・・・なので、冒頭で「64歳の生涯を…」と書かせていただきましたが、これも一般的に言われている年齢で、実際、その年齢だったかどうかは不明なのです。

一説には、春王&安王とともに、さらに下の、当時4歳だった弟が捕縛され、京都に運ばれる予定だったのが、例の嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)で将軍・義教が暗殺された事で、処刑が実行されなかった・・・その子が成氏という話・・・

また、信濃(長野県)大井氏にかくまわれて育ったという話もありますが、もともと、春王&安王の下には男子が二人いたという話が定説となっていますので、どちらかが成氏で、どちらかが、その(若宮別当蓮華光院の尊敒という人らしい)であろうという見解は一致していて、成氏が持氏の遺児という事は、間違いがないようです。

とにかく、こうして、1度は滅亡した鎌倉公方ですが、先に書いた嘉吉の乱で、ちょっと状況が変わってきます。

周囲から見れば
「まぁ、義教はんも強引過ぎたよって持氏はんが反発するのもワカランでもない」
てな感じだったのでしょうか・・・義教が亡くなってまもなく、鎌倉公方復活の気運が高まって来るのです。

やがて成氏は、信濃から呼び戻されて第5代・鎌倉公方となり、その補佐役の関東管領には上杉憲忠(のりただ=憲実の嫡男)が就任します。

そうです、この頃、成氏は未だ10歳前後の少年・・・憲忠をはじめとする周囲のとりまきの武将にとって、自分たちが自由に操れる鎌倉公方がいてくれた方が都合が良いワケです。

しかし、事は、そう簡単にいきません。

こういう背景を持って成長した成氏が、父の遺志を心に秘めて大きくなる事は明らかで、何となく緊張感の解けない再スタート・・・

案の定、公方復活から数年経った宝徳二年(1450年)、上杉家の家宰(かさい=江戸時代の家老みたいな役職)である長尾景仲(かげかね)太田資清(すけきよ=道心)成氏を襲撃するという事件が起きます。

この時、江の島に避難して大事に至らなかった成氏ですが、当然の事ながら、上杉との距離感はますます離れる事となり、とうとう、享徳三年(1454年)、成氏は、自らの御所に憲忠を呼び寄せて殺害・・・さらに景仲&資清を追って、鎌倉を進発します。

一方、このニュースを聞いた中央の幕府が、杉側を支援する事を決定し、朝廷から成氏追討の綸旨を得た事で、成氏は朝敵となってしまいます。

そのため、もはや鎌倉に戻る事ができなくなってしまい、鎌倉を放棄して、これ以降は、下総古河(こが=茨城県古河市)を本拠地とする事となり、ここから、成氏は初代・古河公方となって各地を転戦するのですが、

当然、この古河公方は、幕府の認める正式な公方では無いため、幕府は、時の将軍=第8代足利義政(よしまさ)の異母兄=足利政知(まさとも)を、新たな鎌倉公方といて派遣しますが、もはや戦場と化してグッチャングッチャンになってる状態で、その政知も鎌倉に入れず、伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まったので、コチラは堀越公方(ほりこしくぼう・ほりごえくぼう)と呼ばれます。

こうして、
下野(しもつけ=栃木県)常陸(ひたち=茨城県)下総(しもうさ=千葉県北部)上総(かずさ=千葉県中部)安房(あわ=千葉県南部)を勢力範囲とする古河公方と、
上野(こうずけ=群馬県)武蔵(むさし=東京都・埼玉県・神奈川県の一部)相模(さがみ=神奈川県の南西部)伊豆(いず=静岡県の伊豆半島部分)を勢力範囲とする堀越公方・・・
と、関東を東西に2分する勢力が、それぞれに味方する豪族たちとともに戦いを繰り広げていきます。

しばらくの間、一進一退の合戦を続けてした両者ですが、やがて文明九年(1477年)、長尾景春の乱(4月13日参照>>)が勃発します。

これ、先ほどの、上杉家の家宰の家系であった長尾家の景春(かげはる)上杉家に対して行った反乱・・・そう、この頃になると、関東管領の上杉家の、同族同志のモメ事が表面化して、ソッチのほうが深刻になりかけていたのです。

この流れで、幕府とのモメ事に終止符を撃つ事になった成氏は、幕府と和睦し、その地位も承認され、晴れて正式な公方に返り咲いたのですが、そうなると、本来の正式な公方だった堀越公方は???

幕府の認める正式な公方が関東に並立・・・
しかも、それを補佐する上杉家はモメてる・・・

結局、関東の、この不安定な状態が改善されるのは、あの北条早雲(ほうじょうそううん)が登場(伊豆討ち入り10月11日参照>>)して・・・いや、この不安定な状態が、早雲ののし上がるチャンスを作ったと言えるかも知れません。

成氏自身は、結局、生涯鎌倉に戻る事はなく、早雲の堀越公方への討ち入りから6年後の明応六年(1497年)9月30日古河にて、その生涯を閉じました。

・‥…━━━☆

本日は、ご命日という事で、成氏さんの生涯について書かせていただきましたが、あまりに波乱万丈すぎて、ものすごく大まかな感じになってしまいました。

ある意味、真っ先に戦国に突入した感のある関東支配の争奪戦・・・成氏さんの個々の戦での活躍については、また、いずれ、イロイロと調べ直しなどしつつ、ご紹介させていただけたらと思いますので、よろしくお願いします。
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2012年9月28日 (金)

元弘の変~笠置山の戦い

 

元弘元年(1331年)9月28日、第96代後醍醐天皇が笠置山に籠って挙兵した事を知った鎌倉幕府軍が攻撃・・・笠置城が陥落しました。

・・・・・・・・

源頼朝(みなもとのよりとも)の血筋がわずか3代で絶え、もはやお飾りの将軍のもと、鎌倉幕府の実権を握っていたのは、頼朝の奥さん=北条政子(ほうじょうまさこ)の実家の北条得宗家(とくそう=北条氏嫡流の当主)・・・

一方の天皇家は、第89代後深草天皇の系統である持明院統(じみょういんとう)と、その弟で第90代亀山天皇の系統である大覚寺統(だいかくじとう)に分かれながらも、幕府の仲介によって、持明院統と大覚寺統から交代々々で天皇につく両党迭立(りょうとうてつりつ)の約束が守られていましたが(9月3日参照>>)、そんな中で次に天皇を継ぐべき邦良(くによし・くになが)親王が未だ幼かった事で、その叔父の後醍醐(ごだいご)天皇が、「親王が成長するまでの10年間だけ」という期限付きのピンチヒッターで天皇の座についたのは、文保二年(1318年)の事でした。

しかし、このままの親政(天皇自ら政治をする)を、どうしても続けて行きたい後醍醐天皇は、正中元年(1324年)、仲間と組んで正中の変(9月19日参照>>)を起こしますが、あえなく失敗・・・

仲間が逮捕されながらも、何とか処罰を逃れた後醍醐天皇は、ますます討幕の思いを募らせて水面下で画策する中、元弘元年(1331年)8月27日、密かに宮中を脱出して笠置山に籠り楠木正成(くすのきまさしげ)という強い味方を得る事になります(8月27日参照>>)

・‥…━━━☆

天皇に招かれ、武士の誉れと感激する正成に、天皇は討幕の戦略を問います。

すると、正成は・・・
『…天下草創(さうさう)の功は、武略と智謀との二つにて候(そふろ)ふ。
(も)し勢を合はせて戦はば、六十余州の兵(つはもの)を集めて、武蔵(むさし)・相模(さがみ)の両国に対すとも、勝つ事得がたし。
若し、謀
(はかりごと)を以って争はば…恐るるに足らぬところなり。
合戦の習ひに候へば、一旦の勝負をば、必ずしも御覧ぜらるべからず。
正成一人
(いちにん)未だ生きて有りと聞こし召され候らへば、聖運遂に開かるべしと、思(おぼ)し召され候へ』 
太平記より:…部分は略してします)

「天下を統一するためには武力と計略の二つが必要です。
もし、武力だけで正面からぶつかったとしたら、日本全国の兵を集めても、武蔵と相模
(幕府軍)に勝つ事はできませんやろ。
けど、計略を貼りめぐらして戦うんやったら…恐れる事はありません。
合戦の勝敗は時の運ですさかいに、1回の合戦を見ただけで、すべてを判断せんとってください。
つまり、この正成一人が生き残っている限り、帝の御運は、必ず開かれるものと、信じといていただきたい

と答えます。

僧兵を集めたとは言え、未だ武力に乏しい後醍醐天皇にとって、なんとも、心強い言葉です。

しかし、後醍醐天皇が笠置山に籠って、そこに続々と援軍が集結している事は、間もなく幕府の知るところとなり、早速、京の六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)は、7万5000余騎の大軍勢を率いて、攻撃へと向かいます。

元弘の変の勃発です。

元弘元年(1331年)9月3日朝・・・天皇の籠る笠置の城を東西南北に囲んだ幕府軍は、大地を奮わさんばかりの鬨(とき)の声を一斉に挙げて攻めかかります。

しかし、意外に城内は静か・・・まるで誰もいないかのように静まり返る中、「敵は、先に逃げてしまったのかも知れない」と考え、「それならば…」と、より近くに寄って攻めようとしたところ、いきなり現われた3000余の鎧武者・・・

「あっ」と思った瞬間に、城内から矢が放たれ、それが合図であったかのように、城内の軍勢が幕府軍に攻めかかり、あれよあれよと言う間に撃ち負かしました。

以来、幕府軍の兵は、笠置城を遠目に取り囲むだけで、なかなか中へ攻め入る事ができません。

そんな中、
「楠木正成なる者が、天皇側につき、赤坂城に立て籠った」
というニュースが幕府に到着・・・

さらに、「備後の桜井四郎入道も天皇側につき、兵を挙げた」など、次々と報告が入って来ます。

たまらず、六波羅探題は、鎌倉の北条高時(ほうじょうたかとき=第14代執権)援軍を要請・・・それを受けた高時は、9月20日20万7600騎(多っ!!(゚ロ゚屮)屮)の軍勢を鎌倉から出発させたのでした。

その大軍が、「そろそろ近江(滋賀県)までやって来た」という知らせが、笠置山を囲む幕府軍に届いた頃、その包囲軍の中にいた備中の国の住人・陶山義高(すやまよしたか)小見山某(こみやまなにがし)という二人の者が、一族郎党を集めて、コッソリ話し合います。

「こないだからの合戦で、死んだ者はよーけおるけど、皆、コレっちゅー功名も挙げんと死んでいったやないか?
同じ死ぬんでも、目覚ましい活躍をして死んだら、その名誉は長く残って、子孫も繁栄するやろ。
まして、日本中の武士が集まっても攻め落とせんこの城を、俺らが攻め落としてみぃ・・・どえらい事になるで!
どや、今夜は幸いな雨や・・・風雨にまぎれて城に忍び込んで夜襲をかけて、周囲を驚かしてみたろやないかい!」

かくして元弘元年(1331年)9月28日・・・義高ら50余人の決死隊は、それぞれに大太刀を背中に背負い、後ろに刀を指し、ガケをよじ登って城内に忍び込みます。

木の根にしがみつき、岩肌をすり抜けながら、4時間ほどかけてやっと堀の近くに行き、うまく堀を越えたは良いが、どこに何があるのやら・・・

ウロウロしていたところで、ふと番人に見とがめられますが、義高が「方々も御用心を…」と、自分も番人のフリをして、何とかやり過ごし、とりあえず、本堂を目指します。

やがて見つけた本堂には、何となく、周囲とは一線を画す雰囲気が・・・「ここが天皇のおわす皇居に違いない」と確信した義高は、そばにあった無人の堂舎に火をつけて、一斉に鬨の声を挙げました。

四方を取り囲んでいた幕府軍の軍勢は、これを、城内で裏切り者が出たと判断し、彼らも一斉に鬨の声を挙げます。

さらに、義高らは、次々と、別の建物に火を放っては鬨の声を挙げ・・・これを繰り返すうち、要所々々で守りを固めてした城兵は、城内に大量の幕府軍が入って来たと勘違いして、鎧を脱ぎ捨て、弓矢をほり投げて、次々と逃走していくのです。

これを見た討幕軍の錦織(にしこり)判官代
「お前ら!見苦しいぞ!
天皇の味方をしよという者が、戦わんと逃げるとは!
今、命惜しんで、いつ命捨てるんや!」

子ともども13人余りの家来とともに奮戦しますが、ほどなく射るべき矢もつきてしまい、全員で自刃して果てました。

こうして、火攻めに遭った笠置城は落城・・・後醍醐天皇は農民に姿を変えて城を脱出し、正成の籠る赤坂城を目指しますが、天皇につき従うのは、わずかに二人・・・

Kasagigodaigo1000
逃走中の後醍醐天皇…「太平記絵巻」(埼玉県立歴史民俗博物館蔵)

なれぬ歩行のうえに、闇夜の山中・・・どこをどう歩いたかもわからぬまま、三日三晩山中をさまよい歩き山城国多賀郡にある有王山の麓まで逃げ延びましたが、もはや空腹と疲れで、その場で眠ってしまいます。

やがて、そんなところを幕府軍が発見・・・捕えられた後醍醐天皇は、10月2日、宇治へと移されました。

その宇治には、鎌倉からの使者=大仏貞直(おさらぎさだなお・北条貞直)金澤貞将(かねさわさだゆき・北条貞将)がやって来て、天皇に拝謁して三種の神器を譲渡するように迫ります。

実は、すでに9月20日の段階で、後醍醐天皇が笠置山に籠った事を受けて、幕府は、皇太子だった量仁(かずひと)親王三種の神器が無いまま践祚(せんそ=天子の位を受け継ぐ事)させ光厳(こうごん)天皇(7月7日参照>>)としていたのです。

しかし、後醍醐天皇は
「三種の神器とは、古来より、天皇自らが新帝に授ける物・・・それを臣下の分際で勝手に新帝に渡すやなんて!」
断固拒否・・・

結局、この後、後醍醐天皇自ら六波羅へと行幸し、自身の手で、光厳天皇に渡したのです。

かくして笠置山の戦いは終わり、翌年の3月には、後醍醐天皇は隠岐へ流される事になるのです(3月7日参照>>)が・・・その前に、

そう、赤坂城の楠木正成です・・・笠置山陥落後も、もうチョイ踏ん張るそのお話は10月21日のページでどうぞ>>
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2012年9月26日 (水)

長州動乱…周布政之助の自殺

 

元治元年(1864年)9月26日、長州藩士の周布政之助が喉を掻き切って自殺しました。

・・・・・・・・・・

まさに幕末の動乱ですね・・・

昨日、ご紹介させていただいた井上聞多(いのうえぶんた=志道聞多・後の井上馨)の襲撃事件(9月25日参照>>)の、その翌日・・・いや、0時を過ぎて日づけが変わっただけの同じ夜の出来事です。

そもそも、江戸幕府の体制にもグラつきが出始めていた事で、様々なテコ入れが行われた天保の改革(1841年~1843年)・・・

この時、長州藩でも天保の改革が行われますが、それは、農村支配の強化を主張する村田清風(むらたせいふう)派と、商業を重点に置いた政策を主張する坪井九右衛門(つぼいくえもん)派という二つの派閥を生む事になりました。

Sufumasanosuke500 本日の主役の周布政之助(すふまさのすけ)村田派・・・

一方の坪井派には祐筆(ゆうひつ=秘書役)椋梨藤太(むくなしとうた)(5月28日参照>>)がいましたが、そんな中、弘化四年(1847年)に藤太の添え役として抜擢されたのが政之助です。

これは対立している派閥同志が協力してやって行こうという融和政策・・・つまりは連立与党みたいな感じかな??

しかし、この派閥は、嘉永六年(1853年)に、あのペリー来航があってからは、ソックリそのまま、村田派=幕府上等!尊王攘夷まっしぐらの革新派と、坪井派=幕府に従っておとなしくの保守派に分かれ、この両者がバランスを取りながら、幕末の長州藩を運営していく事になります。
(実際にはこんなに単純ではありませんが、あまりややこしくなっても、お話し難いので…ご了承ください)

とは言え、もともと正反対の考えを持つ派閥同志ですから、しだいに人脈を通じての政策も対立するばかりで、やがてはお互いを憎しみ合うまでになり、両派の間で政権が交代するたびに長州藩の姿勢も変わり、中心になる人物も入れ換わるという状況になるのです。

椋梨藤太さんのページにも書かせていただきましたが、もともと上記の通り、あくまで藤太の添え役だった政之助だったのが、安政二年(1855年)には藤太が罷免され、代わりに政之助が政務の筆頭となりますが、吉田松陰(しょういん)が密航に失敗して捕まった翌年の安政二年(1855年)には政之助が罷免され、藤太が祐筆に返り咲き・・・しかし、安政五年(1858年)には、また政之助が政務役に復活し・・・とめまぐるしく変わる中、

文久元年(1861年)に、長州藩内で知弁第一の秀才とうたわれた長井雅楽(うた)『航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)を発表した事で、世が公武合体(朝廷と幕府が協力)に傾く中で、長州藩の方針も保守派中心となるのですが、それに反対する革新派によって雅楽が自刃に追い込まれた(2月6日参照>>)文久三年(1863年)、ご存じの長州藩による下関の砲撃事件(5月10日参照>>)によって、またまた、長州藩は革新派が仕切る事になります。

ところが、その3ヶ月後に八月十八日の政変(8月18日参照>>)が起きて長州藩は中央政界から追い出され、その不満をぶちまけるべく発進した禁門(きんもん・蛤御門)の変(7月19日参照>>)で、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家の敵)となる・・・と、まるで、昨日と同じ事を書いてしまいましたが、同じ背景なのでお許しを・・・

とにかく、昨日もお話したように、こうして長州は、国家を相手に戦わねばならない立場となったわけですが・・・
その幕府の長州征伐を受けて立つのか?
それとも、恭順な態度を見せて戦いを回避するのか?
が話し合われた9月25日の御前会議の席で、革新派の井上聞多が気勢を挙げ、一旦、藩の方針は「幕府との抗戦」となるのですが、その帰り道に、聞多が保守派の刺客に襲撃される・・・

この時、山口矢原(山口県山口市幸町)の大庄屋・吉富藤兵衛(よしとみとうべえ・簡一)の屋敷を仮住まいとしていた政之助・・・実は、本来なら、彼も会議に出席せねばならない立場なのですが、なぜか会議をサボり、屋敷でふさぎ込んでいたと言います。

そんな時に飛び込んできたのが、「聞多・襲撃さる」のニュース・・・

聞多とも親交があった藤兵衛はあわててお見舞いに駆けつけるのですが、藤兵衛が目を離したその間に事件は起こります。

もちろん、ここのところの様子に、何となく、そんな雰囲気を感じていた藤兵衛は、家人にも、彼をしっかり見張るように申しつけており、本人の刀も取り上げて隠していました。

そう、実は政之助は、あまりの政変の激しさ、革新派の先頭として行った攘夷行動が招いた藩の危機への責任感、保守派が強くなる中の身の置き所の無さ、などなど・・・それらが重く圧し掛かっていて、ノイローゼ気味になり、ここ何日間か、うわごとのように死を口にしていたというのです。

重臣でありながら、その日の会議に出席しなかったのもそのため・・・

しかし、藤兵衛が出かけてからしばらくして、政之助が
「外の空気を吸いたい」
と言ったので、藤兵衛の奥さんが付き添って庭に出たところ、

その目の前で立ったまま、懐に持っていた短刀で首を掻き切って自殺したのです。

藤兵衛が戻って来たのは、その直後でした。

元治元年(1864年)9月26日・・・享年42歳。

まだまだやれる、惜しまれる人材でした。

ただ一つ救いがあるとすれば、政之助の訃報を聞いた高杉晋作(たかすぎしんさく)が、潜伏先の福岡から急いで帰国した事・・・もしかして、この政之助の死が、高杉を奮いたたせて、あの功山寺のクーデター(12月16日参照>>)につながるのだとしたら、彼の死も無駄では無かった事になります。
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2012年9月25日 (火)

九死に一生…井上聞多の「母の力」

 

元治元年(1864年)9月25日、長州藩での御前会議を終えた井上聞多が、反対派に襲撃され重傷を負いました。

・・・・・・・・・・

井上聞多(いのうえぶんた=志道聞多)・・・後の井上馨(かおる)さんですが、江藤新平(えとうしんぺい)がらみの汚職事件(4月13日の真ん中へん参照>>)と言い、鹿鳴館(ろくめいかん)の贅沢三昧(11月28日参照>>)と言い・・・なんとなく良い印象の無い人なのですが、それこそ、伊藤博文(いとうひろぶみ)らとともに長州藩の一翼を担い、幕末の動乱を乗り越えて維新に貢献した1人でもありますし、維新後は、先の汚職事件で辞職した後も、また政府に呼び戻されるのですから、やはり、大した人なのでしょう。

Inouekaoru600 財閥と密接な関係を持ち、賄賂と利権で私腹を肥やしたという話がある一方で、友情に篤く、恩ある人から頼まれると断る事ができずに、後に悪評となる事を承知で引き受けた・・・なんて噂もあります。

仕事においても、テンションが長続きしないぶん、やるとなったら電光石火の早さで難問を一発で片づけるタイプだったとも言われます。

そんな井上聞多さん・・・若き頃は、あの高杉晋作(たかすぎしんさく)らとともに、イギリス公使館を焼き打ち(12月12日参照>>)するほどのガチガチの攘夷派(じょういは=外国を排除したい派)でした。

しかし、その事件の翌年の文久三年(1863年)に、伊藤博文(内閣の父)山尾庸三(やまおようぞう=工学の父)井上勝(いのうえまさる=鉄道の父)遠藤謹助(えんどうきんすけ=造幣の父)ら、後に聞多を含めて長州五傑(ちょうしゅうごけつ)と呼ばれる人たちとともにイギリスへ密航するのですが(ちなみに井上さんは「外交の父」と言われます)、その時に目の当たりにした外国の現状に驚愕・・・

「とてもじゃないが攘夷なんてできっこない・・・いや、攘夷より、早く開国して、外国の最先端を学ばなければ!!」
と、一発で開国派となって帰国・・・同じ思いを抱いた伊藤とともに、あの下関砲撃事件(5月11日参照>>)での和平交渉に尽力したと言います。

しかし、その翌年・・・政局が大きく動きます。

文久三年(1863年)8月18日・・・当時、尊王攘夷派の中心だった長州藩が、公武合体(朝廷と幕府が協力)で幕府と仲良くなった派に牛耳られた朝廷から、その名も八月十八日の政変(8月18日参照>>)で除外され、

その翌年の元治元年(1864年)6月5日には水面下で行動する藩士が池田屋騒動(6月5日参照>>)で倒れ・・・

この朝廷と幕府の仕打ちに、白黒つけるために武装して大挙京都へ押し寄せた事で禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)となり、長州藩は朝敵(国家の敵)となってしまい、孝明天皇からも「長州討伐」の命令まで出てしまうのです。

このままでは、国家を相手に一長州藩が戦う事になるわけで・・・当然の事ながら、この先、
「これまでの姿勢を貫いて、幕府の行う長州征伐を受けて立つのか」
「とにかく平謝りで幕府への恭順姿勢を見せて長州征伐を回避するのか」
藩内の意見が真っ二つに分かれる事になるわけですが・・・

かくして元治元年(1864年)9月25日藩主出席のもと行われた御前会議で、聞多は、幕府恭順派相手に一歩も退く事無く激論を交わし、相手を言い負かした末、聞多が主張する「幕府と抗戦」に決定して、会議を終了させたのです。

その夜の事・・・
帰宅途中の聞多は、3人の刺客に襲われます

ちなみに、この刺客を放ったのは椋梨藤太(むくなしとうた)(5月28日参照>>)だとされていますが・・・

深手を負い、大量の出血・・・

意識もうろうとしながらも、近くの農夫によって発見され、自宅に運ばれますが、当然、虫の息・・・

もはや、しゃべる事もできない中、わずかに意識の残る聞多は手招きして、兄に介錯を頼みます。

そう
「いっその事、ひと思いに首を落としてくれ」
と・・・

兄の胸中も複雑ですが、弟の苦痛にゆがむ姿を見るのもツライ・・・涙を流しながらも意を決した兄が、刀を振り上げた時!!

突然、そばにいた母親が、聞多の体に覆いかぶさり、
「斬るなら、この母、もろとも斬ってくだされ~~」
と言って、血まみれの息子の体を抱きしめたのです。

もちろん、この母の姿に、兄は、振り上げた刀を納めます。

すると、この母の思いが奇跡を呼んだのでしょうか・・・そこに、偶然、友人だった漢方医の所郁太郎(ところいくたろう)が駆けつけた事で、その命、助けるための手術が行われるのです。

結果的に、50針も縫う大手術・・・その後、数十日に渡る献身的な母の看護によって、彼は一命を取りとめたのです。

結局、その後の藩内は恭順派で占められる事になり、福原越後(ふくはらえちご)をはじめとする3家老の首を差し出す(11月12日参照>>)事で長州征伐を回避する方向に進むのですが・・・

果たして、この日からわずか3ヶ月後の12月16日・・・高杉が功山寺で挙兵(12月16日参照>>)し、再び、長州藩は尊王の先頭に立つ事となります。

その前に・・・
生きた聞多とは対照的に、この同じ夜に亡くなる周布政之助(すふまさのすけ)については明日=9月26日のページでどうぞ>>

ちなみに、今回の井上聞多のお話は、「母の力」という題名で戦前の国語の教科書に載っていた話だそうですが、なかなかに感動するお話ではありませんか?

本人ですら諦めても、母は息子を諦めない・・・母とは、そういうものです。。。
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2012年9月24日 (月)

織田VS上杉の越中争奪戦~月岡野の戦い

 

天正六年(1578年)9月24日、織田と上杉との越中争奪戦において、信長の命を受けた斎藤新五郎が出陣しました。

・・・・・・・・・

幾度となく戦った永遠のライバル=武田信玄(たけだしんげん)の死と、その間に室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した後、天正元年(1573年)の8月に浅井・朝倉を倒して(8月27日参照>>)北近江(滋賀県北部)から越前(福井県)まで制した織田信長(おだのぶなが)の存在に、ひとまず関東の北条や甲斐(山梨県)の武田を置いといて、勢いのある信長との抗戦に路線変更した越後(新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)・・・

天正四年(1576年)には、長年敵対していた一向一揆とも和睦し(5月18日参照>>)、その矛先を西へと向け、翌・天正五年(1577年)9月15日には能登七尾城(石川県七尾市)を落城させ(9月13日参照>>)さらに西へと進みます。

Odanobunaga400a 一方、謙信の動きを知った信長は、配下の柴田勝家羽柴(後の豊臣)秀吉北陸へ派遣して、謙信攻略に当たらせます

・・・で、天正五年(1577年)9月18日もしくは23日に両者がぶつかったのが加賀手取川の戦いですが、先日、その手取川のページ(9月18日参照>>)で書かせていただいたように、戦いの規模も、あったのか?無かったのか?すらよくわからない戦いであります。

しかも、ご存じのように、ここからさらに西に進んで、信長と戦う気満々だったと思われる謙信が、冬場の雪を理由に一旦越後に戻った後、次の春の出兵を待たずに、翌・天正六年(1578年)3月13日に亡くなってしまうのです(3月13日参照>>)

実子のいなかった上杉家では、謙信の後継者を巡って、養子の景勝(かげかつ)景虎(かげとら)の間で御館(おたて)の乱(2007年3月17日参照>>)が勃発・・・信長との抗戦どころではなくなってしまいます。

もちろん、これをチャンスと見た信長は、かつては、越中の守護代家でありながら謙信の進攻によって領地を奪われたために信長の配下に加わっていた神保長住(じんぼうながずみ)飛騨経由で越中に送り込みます。

命を受けて、早速、出陣した長住らは、4月~5月にかけて・・・と言いますから、謙信の死後から、わずか1~2ヶ月の間に、越中の南部を制します。

とは言え、いくら本拠の越後でドンパチやっているものの、ここらあたりの武将たちは上杉配下なわけで、その先の支城は、なかなかうまく落とせず、9月に入っても、まだ富山には進出できていませんでした。

この頃の上杉方の南の最前線の城は津毛城(つけじょう=富山県富山市東福沢)・・・ここに椎名小四郎(しいなこしろう=長尾景直)河田長親(かわだながちか)が軍勢を集結させていました。

そんな中の天正六年(1578年)9月24日、信長が斎藤新五郎(利治・新五とも=道三の末子)援軍に派遣した事で戦局は動きます。

『信長公記』によれば・・・

この尾張(愛知県西部)美濃(岐阜県)の織田軍勢を率いた新五郎の来襲を知った上杉方は、戦う事なく津毛城を放棄し、3里(約12km)ほど北にある今泉城(富山県戸富山市今泉)へ撤退して、そこで籠城作戦に出ます。

その後、織田軍は、この津毛城に長住の兵を入れて本拠とし、今泉城の南東に位置する太田本郷に布陣して今泉城の上杉勢と対陣します。

しばらくの間のにらみ合いの後の10月4日、織田勢は、今泉城下に放火するだけして、その夜に、すぐさま陣を撤退させました。

実は、これは、籠城戦において城攻めが難しいと判断した新五郎のおびき出し作戦・・・

これが見事的中し、撤退する織田勢を追撃すべく、城を出た上杉勢は、月岡野(富山市上栄周辺)にて織田軍と一戦を交える事になりました。


大きな地図で見る

★地図の説明・・・左上の「南富山駅」のあたりに今泉城、まん中あたりの「浮田家住宅」のあたりが太田本郷、さらに地図をまっすぐ南へスクロールした「開発駅」のあたりが月岡野で、さらに南の「富山CC]と「カメリアCC」というゴルフ場が二つ並ぶ所の東側に津毛城がありました。

世に、月岡野の戦いと呼ばれるこの合戦で、織田勢は、上杉の首級360を討ち取るという大勝利をおさめます。

この勝利の知らせを聞いた信長は大いに喜び、この戦果を広く宣伝して回るのです。

たとえば、信長の近臣=大津長昌(おおつながまさ)が、伊達輝宗(だててるむね)の近臣=遠藤基信(えんどうもとのぶ)(10月21日参照>>)宛てに・・・
「今回、越中に進出した織田軍が上杉軍:数千人を討ち取りましてん。
この機会に、ぜひ、越後へと攻勢をかけておくなはれ」

てな手紙を送っています。

360が数千人になってるとこがミソですが、こうやって、越中争奪戦において織田軍が優位に立っている事を宣伝し、多くの武将を味方につけようとしたわけですね。

これによって越中国内の勢力図が大きく塗り替えられるうえ、上杉が家内での後継者争いに夢中になってくれていたおかげで、その後の織田軍は、ほとんど戦いらしい戦いをする事なく、越中の大半を手中に収めてしまうのです。

天正七年(1579年)3月に、上杉の御館の乱は終結しますが(2010年3月27日参照>>)、その翌年には、柴田勝家が加賀一向一揆を平定します(3月9日参照>>)

やがて天正九年(1581年)には、御館の乱に勝利した上杉景勝(かげかつ)が義父の後を継いで越中に侵攻するも失敗(3月24日参照>>)・・・翌、天正十年(1582年)6月3日には、かの勝家が、見事、魚津城(富山県魚津市)を落とし(6月3日参照>>)いよいよ織田方が越中を制圧・・・となるのですが、

ご存じのように、その前日に起こっていたのが、あの本能寺の変(2015年6月2日参照>>)・・・世はまさに、戦国ですね
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2012年9月23日 (日)

「鞭声粛々…」~革命の思想家・頼山陽の死

 

天保三年(1832年)9月23日、歴史・文学・美術などの分野で活躍した江戸時代後期の漢学者=頼山陽が53歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・

Raisanyou500 ♪鞭声粛々 夜 河を渡る
 暁に見る 千兵の大牙を擁するを
 遺恨十年 一剣を磨き
 流星光底 長蛇を逸す♪

上杉謙信と武田信玄による川中島の合戦(9月10日参照>>)を詠んだ有名な歌・・・

これを作った人が頼山陽(らいさんよう)です。

詩や書にその才能の発揮し、朱子学の研究を進めながら、大坂江戸堀北(大阪市西区)にて私塾・青山社を開いていた頼春水(らいしゅんすい)の長男として生まれた山陽にとって、自らも学問の道に進む事になるのは、ごくごく自然の事でした。

父の転勤に伴い、6歳から広島で暮らす事になった山陽は、その多感な時期に様々な学問を吸収し、やがて文学から歴史に興味を示し始めます。

14歳にして、すでに
「何とかして、永遠に歴史に残るような人物になりたい!」
と思うようになった山陽・・・

その後、父が江戸在勤になった事もあってか、18歳で江戸に出て昌平坂(しょうへいざか)学問所昌平黌)に1年間遊学しますが、そこで、心にグッと来る何かがあったんでしょうね~

帰国してまもなく、広島藩医・御園道英(みそのどうえい)の娘・淳子と結婚しますが、わずか1年後に突如として脱藩・・・家出して京都へと向かいます。

しかし、2ヶ月後に連れ戻され・・・脱藩の罪により奥さんとは離縁し、山陽自身も廃嫡(はいちゃく=後継ぎから排除される)され、自宅で幽閉の身となります。

ところが、これが彼にとっては、逆に学問に専念するチャンスとなり、この期間に一気に、彼の代表作となる『日本外史(にほんがいし)を書きあげます。

この時書かれた『日本外史』は、その後、20年かけて改訂され、山陽47歳の時に本格的な完成となって、老中の松平定信に献上された後、2年後の文政十二年(1829年)に発刊されて大ベストセラーとなるのですが・・・

この『日本外史』・・・平安末期の源平の争いに始まって、同時期の第10代江戸幕府将軍の徳川家治の治世までを扱う、武家の歴史を書いた物ですが、その歴史に山陽の思想が絡めてあって、どちらかと言うと歴史物語みたいな感じで、歴史書ととしては、当時から評価が低かったのですが、これが、幕末の勤皇思想の志士たちのバイブルとなり尊王攘夷運動の際に多大な影響を与える事になったわけです。

とは言え、それはまだ先の話で・・・
26歳で幽閉が解かれた山陽は、以前から彼の優秀さをかってくれていた父の友人・菅茶山(かんちゃざん・かんさざん)が広島で開いていた私塾・廉塾(れんじゅく)塾頭として招かれますが、やはり、学者として更なる高みに登りたい彼は、32歳で、再び京都に出奔・・・

この時も、藩に無届けの脱藩同然の京都行きだったために、再び罪に問われるところでしたが、周りが奔走してくれたおかげで、何とか「茶山の意向による京都行き」という大義名分を獲得してくれて、晴れて、堂々と、念願の京都に落ち着ける事になりました。

上洛から10年後の文政五年(1822年)、43歳になっていた山陽は、京都の三本木(上京区)に屋敷を構え水西荘と名づけ、先ほどの『日本外史』の改訂などをはじめとする様々な書物を著す事に没頭するのです。

もちろん、その間に、彼の、学者&文人としての評価も高まり,京都文壇において確固たる地位を築いていく事になるのですが、それと同時に、姿なき敵が、足音をたてずに忍び寄って来ていたのです。

天保三年(1832年)6月12日、自宅にて山陽は、初めて吐血しました。

どうやら、彼自身は、すでに、自らの肺が病に冒されている事を密かに感じていたようですが、その事を知らなかった家人は大いに驚き、慌てて、知り合いの医師を呼んだと言います。

しかし、知らせを聞いた複数の医師たちが駆けつけると、山陽は平然と机に向かい何かを執筆中・・・そう、この時、山陽は『日本政記(にほんせいき)というのを、書いている真っ最中だったのです。

医師の一人で友人でもあった小石元瑞(こいしげんずい=檉園)が診察し、その診断を正直に伝えます・・・
「この病は死病である」「もう、助からない」
と・・・

すると山陽は、
「死ぬのは寿命やねんからしゃぁないけど、やりかけの仕事が残ってるから、それは仕上げたいなぁ」
と、1ミリとて慌てふためく事無く、静かに話したとか・・・

以来、いくつかの著書の完成に向かって奮闘するその姿は「鬼気迫るもの」があったと言います。

中でも、先の『日本政記』については・・・
他の紀行文などは、同行した弟子たちに引き継がせたものの、これだけは自身の手で書く事に重きを置き、猛然と追い込みをかけます。

しかし、その後も度々吐血し、病はどんどん重くなっていきます。

そんな中でも、9月9日に、転勤の挨拶に訪れた友人の儒学者・猪飼敬所(いがいけいしょ)には、病である事をまったく悟らせず、南朝と北朝の系統の正統性について論議を交わし合ったと言います。

ただ、その時
「今の朝廷は北朝の系統やから、君みたいに南朝が正統やてな事言うたら、今の天子様に失礼なんちゃうん?」
という敬所の質問に
「今の朝廷は、神武より正統の譲りを受けた大一統の朝廷やないかい」
てな感じで反論したとか・・・

ただ、やはり病気のために、この時は、未だ納得のいく論議では無かったようで、敬所が帰った後に自らの論点をまとめあげ、その思いを、かの『日本政記』につけ加えたのです。

こうして、天保三年(1832年)9月23日頼山陽は53歳の生涯を閉じますが、その日、かの『日本政記』は、見事、完成に漕ぎつけていたのです。

死の少し前、山陽は自らの肖像画に自賛文を書いた事があったのですが、
そこには
「貧困ではあったけれど、いつも政治の事を考え、人民の幸福と国家の繁栄を願い、権力に屈する事無く自立して頑張り、人民の寒さや飢えを救う事だけ考えて、この手を動かして来たんや」
と、自らの人生を記しました。

そして、その最後に
「この一幅は20年間、人に見せてはならぬ」
との但し書きを付け加えたとか・・・

果たして、山陽の死から21年後嘉永六年(1853年)6月3日浦賀沖に、あのペリーの黒船が姿を現す(6月3日参照>>)・・・革命の思想家=頼山陽は、死してなお、光り輝く事になります。
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2012年9月21日 (金)

物議をかもしだした北条早雲の手紙

 

永正三年(1506年)9月21日、北条早雲が小笠原定基宛てに手紙を書きました。

・・・・・・・・・・

神奈川県足柄下郡箱根湯本にある早雲寺に現存するその書状は、越前勝山(福井県勝山市)の藩主だった小笠原家に代々保管されていた北条早雲(ほうじょうそううん)直筆の手紙と言われています。

内容は、小笠原の家臣であった関右馬充春光(せきうまのじょうはるみつ)と自分が、その出自が同じである事を語り、
「なので、これから仲良くしてくれたらウレシイな(≧∇≦)」
と、プレゼントの太刀とともに、信濃の小笠原定基(おがさわらさだもと)にお願いしているというものです。

手紙には、「九月廿一日」という日づけだけで年紀は入っていませんが、手紙の後半部分に・・・
「今橋の要害を陥落させようと、本城の間際まで来てます…こないだの19日には端城を攻めて乗っ取ったったよって、こっちも、もうすぐですわ」
てな事が書かれてあります。

これは、三河田原(愛知県田原市)城主の戸田憲光(とだのりみつ=田原弾正)が、三河の国人領主であった松平長親(まつだいらながちか・徳川家康の高祖父=爺ちゃんの爺ちゃん)に攻め込まれた時に、駿河(静岡県)今川氏親(いまがわうじちか)援軍を要請した事から、

その氏親の配下(氏親の母が早雲の妹)である早雲が、1万とも言われる大軍を率いて東三河に出陣して、永正三年(1506年)の8月の終わり頃から、松平方の牧野古白(まきのこはく)が守る今橋城を攻めているので、おそらく、手紙のこの部分は、その事を言っているのだろうという事で、この書状も永正三年(1506年)9月21日付けであろうとされているのです。

Souun0921a1000c 北条早雲書状(早雲寺蔵)…画像クリックすると大きくなります

・・・で、実は、この書状が、後世に物議をかもしだす事になるのです。

それは、手紙の前半部分の記述・・・

ここに、
『関右馬充の事、我等と一躰(いったい)に候(そうろう)。伊勢国関と申す所に在国に依(よ)って、関と名乗り候。根本は兄弟従(よ)り相分かるる名字に候』(画像の線を引いた部分です)
とあります。

この部分を、国史学者で東京帝大の教授であった田中義成(たなかよしなり)先生が、大正時代に、
「これは、伊勢の関氏と同族、兄弟から枝分かれした家柄であるという意味であろう」との解釈のもと「北条早雲素浪人説」を唱えたのです。

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この説は、長らく支持され、北条早雲は氏素性を持たない戦国大名で、一介の浪人から国盗りで出世を果たした、戦国下剋上の申し子のように思われていたのです。

しかし、ご存じのように、最近では、早雲は備中高越山(岡山県井原市)城主・伊勢盛定(いせもりさだ)の息子で、はじめは新九郎盛時(しんくろうもりとき)と名乗り、室町幕府第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の弟である義視(よしみ)(1月7日参照>>)近士(きんじ)として仕えた事もあったと人だったと言われています。

もちろん、その後、義視が京に戻った時に、早雲は義視と分かれて伊勢に留まるので、その時点で、主君を持たない浪人の身になった事は確かですが、それでも、まったくどこの馬の骨かわからないというのではないわけですし、すでに、この時点で京都の地や将軍家に太いパイプを持っていた事になりますからね~

・・・で、そのあとに、妹が駿河の今川義忠(よしただ・氏親の父)の奥さんになっていた縁で、駿河に招かれるというわけですが・・・

・・・で、では、いつから、その「北条早雲素浪人説」から、今のように変わり始めたのか??

それは、先ほどの手紙の引用部分・・・ここの後半の青い線のところ・・・

『根本は兄弟従り相分かるる名字に候』の部分・・・

歴史学者で、現在、静岡大学名誉教授小和田哲男(おわだてつお)先生らが、この部分を
「単に、同じ伊勢平氏というような軽い意味だ」
と解釈された事から、現在では、コチラの見方が定説となっています。

とは言え、これも、いち時は歴史学界を二分する大論争になっていたとか・・・

歴史において、答えが二転三転するのはよくある事・・・もちろん、今の定説だって100%ではありませんからね~(そこがオモシロイ)

専門家の方でも論争になるのですから、素人には判断できる物ではありませんが、もしかしてドラマになるのであれば、一介の素浪人からのし上がるパターンがワクワク感満載でイイかも・・・です。

*北条早雲についてのなんやかんやについては【北条・五代の年表】>>でどうぞm(_ _)m
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2012年9月20日 (木)

勲功1番の戦いぶり~京極高次の関ヶ原

 

慶長五年(1600年)9月20日、関ヶ原の合戦を勝利で終えた徳川家康が大津城に入城しました。

・・・・・・・・

ご存じ、関ヶ原の戦い・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に起こった豊臣家内の内紛に乗じて東軍の大将となった徳川家康(とくがわいえやす)と、西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)西軍総大将に掲げながらも、実質的に指揮をとっていた石田三成(いしだみつなり)の戦いは、おおかたの予想に反して、わずか半日で東軍の勝利となりました。

とは言え、関ヶ原の戦いは、関ヶ原で行われた本チャンの戦いのみではなく、その前後、あるいは同時進行で、様々な戦いが行われていたわけで・・・くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>

そんな中で、初めは西軍にくみし、三成から、「北陸で東軍として暴れまわっている加賀(石川県)前田利長(まえだとしなが)を討つべし」の要請を受けて、琵琶湖の東岸を北陸へ向かっていたはずが、途中で、「決戦間近の美濃(岐阜県)へ向かえ」の指示を受けた事をキッカケに、東軍へと寝返る事を決意し、居城の大津城へと戻ってしまったのが京極高次(きょうごくたかつく)でした(9月3日参照>>)

高次の奥さんは、あの浅井長政(あさいながまさ)お市の方(織田信長の妹もすくは姪)の間に生まれた浅井三姉妹の次女=・・・

この時、姉の淀殿(茶々・秀吉の側室)は息子の秀頼(ひでより)とともに大坂城にいて、妹の(ごう・江与)徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)の正室として江戸城にいるという微妙な立場・・

この時の初の思いが、どのような物であったかは記録に残っていませんが、これまで、秀吉に見染められた龍子(高次の姉もしくは妹)とええとこのお嬢さん嫁=初のおかげで出世した「ホタル大名」と嘲笑われて来た夫が、初めて自ら決断した一世一代の寝返り・・・この後の態度を見る限りでは、そんな決断をした夫とともに、死を覚悟しての籠城戦に挑んだものと思われます。

そうです・・・この寝返りは西軍にとって許し難き事・・・

西軍は、主将の毛利元康(もうりもとやす=毛利輝元の陣代)と、その弟の小早川秀包(こばやかわひでかね)、さらに西国第一のキレ者とうたわれる立花宗茂(たちばなむねしげ)をはじめとする精鋭を派遣して高次らが籠る大津城を取り囲み、総攻撃を開始したのです。

これが慶長五年(1600年)9月7日の事・・・

その後、淀殿や北政所(きたのまんどころ=秀吉の正室・おね)が、開城するように説得したりもしますが、高次も初も、ガンとして受け入れず・・・

しかし、1日、また1日と過ぎる中、西軍精鋭の猛攻撃に大津城は、もはやキズだらけ・・・

一説には、この時の高次には
「ワシがそっちへ行くまで、何とか持ちこたえておってくれ!」
という家康からの手紙が届いていたとも言われますが、本チャンの関ヶ原がまだ、始まっていない状況では、その「家康が来る」のが、いつの事だかもわからないわけですし・・・

やがて、本丸以外の場所をすべて落とされた大津城は、万事休す・・・万策尽きた高次は、9月14日西軍の降伏勧告を受け入れ、翌・9月15日の朝に、大津城を開け渡したのです(9月7日参照>>)

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大津城の天守閣を移築した現在の彦根城天守閣

9月15日・・・そう、まさに、この日の朝・・・美濃関ヶ原で、あの合戦が開始されたのです。

同時中継&生放送ライブで見ている身としては、
「あと何時間か、頑張ってたら…」
なんて、思っちゃいますが、

とにもかくにも、降伏=負け組の将となった高次は、すぐさま高野山へと入り、頭を丸めます。

しかし、その後の状況に最も驚いたのは、ここ大津城で奮戦していた西軍の将たちです。

そう、かの関ヶ原が、わずか半日で決着・・・3万8000(諸説あり)という大軍を任された精鋭部隊が、本チャンの関ヶ原に間に合わなかったのです。

東軍の大勝利・・・しかも、西軍の主だった将のすべてが、討死するか逃走して行方不明となった以上、もはや大津城籠城戦に勝った彼らとて、なす術はなく、とっとと領国に帰って、むしろ、今後の身の振り方を思案せねばならないわけで・・・

かくして、天下分け目の戦いから5日後の慶長五年(1600年)9月20日家康は大津城に入城します。

高次が、どのあたりで、この関ヶ原の結果を聞いたのか??
ひょっとしたら、勝利の知らせを聞いて、内心では、祝賀の挨拶にでも出向きたかったかも知れませんが、本来なら、その家康を出迎えるはずだった城を、ある意味捨ててしまったのですから、ノコノコと顔を出せるはずもなく・・・

もしかしたら、「あと半日…!!」と身震いするほどのくやしさを味わっていたかも知れませんが・・・

家康は、この後、数日間大津城に滞在し、ここを本営として戦後処理に当たります

そう、実は、三成をはじめ、このあたりで捕縛される小西行長(こにしゆきなが)(9月19日参照>>)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月28日参照>>)らも、次々と、この大津城へ護送されて来ていたのですね。

そんな中、家康は、「自分に会いに来るように」高次へと使者を出します。

しかし、あと少しだったとは言え、敵に屈してしまった事を恥じとする高次は、それに応じず、高野山での蟄居(ちっきょ=一定の場所で謹慎して引き籠る事)を続けました。

何度も何度も使者を出す家康・・・

やがて、断わり続ける事もできず、覚悟を決め、ようやく、家康の前に姿を現した高次・・・

すると、その家康が発した言葉は・・・

周りの状況や、この前後の事知っている後世の私たちからみれば、ごくごく当然のことですが、当の高次から見れば、考えてもみなかった意外な言葉が帰って来たのです。

そう、家康は、高次を大絶賛!!
「よくぞ、あの大軍を、大津に足止めしてくれた」
と・・・

「むしろ、勲功1番の戦いぶりである」
として、高次を、若狭(京都府北部)1国=8万5000石の後瀬山(のちせやま)城主(後に小浜城に移転)としたのです。

さらに、弟の高知(たかとも)も、丹波(兵庫県)宮津城主に・・・家康っさん大盤振る舞いです。

もはや、命無い・・・と思った籠城戦。
名門京極家も終わったか・・・と思った開城。

ホタル大名と罵られた高次にとって、8万石の領地より何より、あの時、琵琶湖のほとりで決めた決断が、間違っていなかった事を確信したその瞬間が、人生、最高の時だったかも知れませんね。

よく頑張りました◎
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2012年9月18日 (火)

上杉謙信VS織田信長~1度きりの手取川の戦い

 

天正五年(1577年)9月18日、信長の命を受けた柴田勝家率いる織田軍と、謙信率いる上杉軍が、加賀手取川にて対峙しました。

・・・・・・・・・・・・・

上杉謙信と言えば、あの武田信玄と、合計5回に渡って繰り広げられた川中島の戦い(8月3日参照>>)ですが、二人が戦ってる間に戦国乱世の勢力図は大きく変わっていきます。

あの織田信長桶狭間(5月19日参照>>)今川義元を倒して名を挙げた後、徳川家康と同盟を結んで(5月27日参照>>)美濃攻略に勤しみ(8月15日参照>>)・・・

川中島で死闘を繰り広げた信玄も、義元亡き後の駿河へ進攻(12月12日参照>>)し始めた事から、謙信は関東では北条氏(6月26日参照>>)、北陸では一向一揆と戦う事になります。

ただ、この時点での謙信のライバルは未だ信玄・・・関東の北条氏にも北陸の一向一揆にも、信玄の影があり、逆に、信長はあの手この手のプレゼント攻撃で、謙信にすり寄って来ていた愛い奴だったわけですが、そんな信長が、亡き将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛(9月28日参照>>)・・・

しかし、その信長は、まもなく将軍・義昭と対立し、その後、大きな柱だった信玄が亡くなる・・・この事が、謙信の方向転換を決定的にします。

そう、反・信玄から反・信長へ・・・ターゲットを切り変えたのです。

天正四年(1576年)、反信長の姿勢で暗躍する義昭の仲裁によって、謙信は、本願寺第11代・顕如(けんにょ)と和睦を結び、長年に渡って敵対していた一向一揆との抗争を終わらせたのです(5月18日参照>>)

Uesugikensin500 これより、謙信の顔は西へ向く事に・・・

早速、能登(石川県)へと進攻する謙信・・・その年の10月に能登七尾城を包囲した謙信は、途中、北条氏へのけん制もありつつも、翌・天正五年(1577年)9月13日、七尾城の攻略を確信するのでした(9月13日参照>>)

一方、すでに浅井・朝倉を倒して(8月28日参照>>)越前(福井県)までを手中に治めていた信長ですが、ご存じのように、石山本願寺との石山合戦もすでに勃発・・・しかも、謙信が能登に進攻したこの頃は、大坂湾で本願寺と戦い(7月13日参照>>)伊勢で北畠を倒し(11月25日参照>>)と、もう、アッチャコッチャでドンパチやりまくり・・・

Sibatakatuiekitanosyou500 ・・・で、そんな中での謙信の能登進攻を知った信長は、柴田勝家羽柴(後の豊臣)秀吉北陸へ派遣して、謙信攻略に当たらせるのです。

かくして天正五年(1577年)9月18日織田軍と上杉軍が、加賀手取川にて対峙し、手取川の戦い・・・と言いたいところですが、

ご存じのように、この手取川の戦いについては、史料が少なすぎて、専門家の間でもあったのか?無かったのか? あったとしても、その規模は?的な事で論争が繰り返されているのです。

日づけも、この9月18日というのもあれば、5日後の9月23日とも言われます(23日のほうが一般的ですが…)

大きな合戦があったとする場合の一般的な戦いの流れは・・・

この18日の対峙の後、対岸にて、騎馬隊だけを引き連れていた謙信が、未だ到着していない歩兵を待っていたところ、上杉軍が間近に来ている事に気づいていなかった織田軍が手取川を渡って対岸に布陣・・・

その光景を見た謙信が、その夜、歩兵の到着を待たずに騎馬隊だけで奇襲をかけて、織田軍に大勝したとされます。

織田軍の敗因としては、勝家とともに北陸にやって来たはずの秀吉が、合戦が始まる以前に、なぜか勝手に戦線を離脱して帰ってしまっていて、すでに織田軍の和が乱れているところに、後ろが川という背水の陣を敷いてしまった事で、上杉の攻撃に押されて後退する兵が、次々と川の流れの呑みこまれて、多くの死者を出してしまったのだと言われます。

一方、戦いはあったけれども、小競り合い程度だったとする見方では・・・

さすがの猛将=勝家ですから、旦は手取川を渡ったものの、すぐに、謙信の軍に気づき、しかも、謙信本人の馬印を確認した事でその本気度を察し、一旦撤退して態勢を整え直す事とし、そのまま、夜のうちに撤退を開始したのを、それに気づいた上杉軍が追撃した程度で、大きな戦いとはならなかったとされます。

もちろん、上記に書いた通り、お互いに対峙しただけで、合戦には至らなかったという見方もあります。

もし、ここで、謙信が大勝していたのなら、当然、この時点では、上杉が加賀をも制した事になりますが、そういった史料でも、「加賀を制していた」とする物もあれば、「能登すら制していない」とする記録もあり、今のところ、まったく以って決め手が無い状況となっています。

ただ、一般的には、この手取川の後、9月24日に上杉家臣の長沢光国(ながさわみつくに)が能登畠山の庶流=松波義親(まつなみよしちか)の籠る松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)を落とし(9月24日参照>>)、これまで能登を仕切っていた能登畠山氏が滅亡した=謙信が能登を平定したとの見方が強いようです。

しかし、この後、冬が近いという事で、一旦、越後(新潟県)へと戻った謙信が、そのまま、春の出兵を待たずに亡くなってしまい(3月13日参照>>)、その後の上杉家は、謙信の後継者争い(3月17日参照>>)となって、対・信長どころじゃなくなってしまい、その間に織田軍が、ほとんど戦わずして越中(富山)まで進み(9月24日参照>>)、加賀一向一揆も倒してしまう(3月9日参照>>)ので、よけいに、手取川の戦いがあったのか?無かったのか?をややこしくしてしまっているのです。

とにもかくにも、更なる史料の発見に期待したい手取川ですが、信長が現地に行かなかったとは言え、謙信VS信長の、歴史上唯一の戦いとなれば、歴史好きとしては、ちょっとワクワクしちゃいますね。
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2012年9月17日 (月)

700万アクセス御礼!と大河ドラマ「平清盛」の見どころ

 

いつも「今日は何の日?徒然日記」をお読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

管理人の羽柴茶々です。

私ごとで恐縮ですが、昨日、このブログのアクセス数が700万HITを越えました。

単純で脳天気な私としては、はじめは夢にも思っていなかった1000万アクセスに手が届きそうな気分になって、今頃からワクワクドキドキしています。

・・・と書くと、「お前は、そんなにアクセス数が気になるのか?」と眉をひそめられる方もおられるかと思いますが、そういう意味ではなく、一つの節目、あるいは、一つの目標クリアというような意味で、毎回、キリの良いアクセス数を越えた時と、ブログを開設した日には、こうして、ご報告とごあいさつをさせていただいております。

自己満足かも知れませんが、こういう時に、こういうごあいさつをさせていただくと、なにやら、気分転換&心機一転=新たなスタート地点に立ったような気分になり、
まだまだ、やるゾ~~」
という気持ちが湧いてくるわけで・・・

とは言え、ごあいさつだけというのもなんですので、久々に大河ドラマ「平清盛」の感想など・・・

と行きたいですが、ここ何年か、このブログに定期的に来ていただいている皆様なら、お解りの通り、ツッコミどころが多い大河ほど、その感想を書く頻度が多いわけでして・・・

ここ3年間のアレとアレとアレは、「何じゃ?ソラ!」のツッコミのテンションそのままに、思うところを書かせていただいておりましたが(特に昨年は多かったなぁ(゚ー゚;)、今回の「平清盛」は、そういう点では、落ち着いて見ていられ、久々に、大河らしい大河と言える作品なのではないかと、そのストーリーを堪能して見ております。

なので、あんまり感想を書いていません(*´v゚*)ゞ

もちろん、歴史から見て??な場面もありますが、それこそ、今解明されている歴史が100%正しいとは限りませんし、そこを、あえて違うように持っていって、ストーリーをより面白くするのも、作家さん&スタッフさんの腕の見せどころ・・・なんせ、ドラマは創作物なのですから

3ヶ月前、「600万アクセス」の時のページにも書かせていただきましたが(6月18日参照>>)、そもそも、源氏と平家をライバルのように描く事すら、歴史としては??ですが、ストーリーとしては、断線その方がオモシロイですからね。

それこそ、むしろ「変えるなら、変えるだけの意味があるのだろう」と、今後の展開に期待を持って楽しみにしております。

たとえば、最近では、8月26日に放送された第33回「清盛、五十の宴」でのワンシーン・・・

50歳の誕生日を盛大に祝ってもらった清盛が、宴の最後に、
「この楽しい1日を終わらせたくない~!!」
てな雰囲気で、夕陽に向かって扇を仰ぐと、沈みかけていた太陽が再び顔を出し、清盛が日輪まで操る奇跡を目の当たりにする・・・というエピソード・・・

これは、実際に残る伝説・・・もちろん、本当に太陽を動かせるはずはなく、あくまで伝説として伝わっているという事ですが・・・

実際の伝説では、音戸の瀬戸の開削工事の際のお話として伝わっているのですが、確か、ドラマでは、昨日の放送で、兎丸たちに工事の指示をしていたようなので、ドラマ上では、もうちょっと先の事になるのでしょうか?

それは、数か月に渡る難工事となった音戸の瀬戸開削工事・・・完成予定の日づけになっても、まだ工事が終わらず、もはや日も暮れかけて皆が諦めかけた時、清盛が沈みかけた夕陽を扇で仰いで呼び戻し、無事、工事を終えさせたという物で、現在、広島県呉市高烏台公園に、有名な清盛の銅像がありますが、この銅像が、その時の扇で仰ぐポーズをとっています。

でも、まぁ、盛り上がりまくった宴の最後にやった方がカッコイイかも知れませんし、ひょっとしたら、ドラマ内では、もっかいあるのかも知れません。

また、第3部になって、これまた清盛のキャラが変わった気がしますが、これも、ドラマの中で「あの頃の自分ならこうだった」とか、「殿もお変りになりました(by盛国)てなセリフがあるので、主人公が成長して、大人になったという事のキャラ変更という事で納得できます。

・・・で、来週は、いよいよ「殿下乗合事件」ですね~
これが、また、どのように描かれるのか、楽しみです。

ネタバレになるので、あまりくわしくはお話しませんが
:予備知識ゼロで見たいので「まったく聞きたくない」とおっしゃる方は、この先、チョイとスルーしてください)

この事件は、嘉応二年(1170年)7月3日に、摂政・松殿基房(まつどのもとふさ)車列と、ある女車とが鉢合わせになった時、基房の従者が「無礼だ!」と言って、その女車をボッコンボッコンにするのですが、実は、その車に乗っていたのは、平重盛(たいらのしげもり=清盛の長男)の次男=資盛(すけもり)・・・

それを知った基房は、すぐに謝罪の使者を派遣して、実行犯の身柄を差し出すのですが、怒り心頭の重盛は、これを突き返す・・・

こうなると、事件の報復が怖くて外に出れない基房ですが、そんな中で高倉天皇の儀式があるため、摂政として、どうしても儀式に出席せねばならない・・・やむなく、出かけますが、案の定、途中で重盛の軍勢が待ち構えており、ボッコボコにされて儀式に欠席・・・

てな事件なのですが、今週のドラマで、清盛が、ほとんど福原にいた事でもお解りのように、この事件の時も、清盛は、おそらく福原にいたわけで、仕返しの指示をしたのは重盛であろうというのが一般的な見方となっています。

しかし、清盛を悪のカリスマ、重盛を父に対抗する温情溢れる人として描いている『平家物語』では、この仕返しを指示したのは清盛とし、重盛は、むしろ、報復行動に参加した者を諫めて処分し、資盛自身をも謹慎処分にした事になっていて、これまでの時代劇ドラマでは、ほとんど、この平家物語のパターンで描かれて来ました。

今回の大河・・・巨人の清盛に、未だ一門を統轄する自信の無い重盛・・・というキャラクター設定で、この事件をどのように描いてくださるのか???

来週は、そこが見どころだと思います。

・‥…━━━☆

・・・と、なんやかんや言いつつ迎えた700万アクセス・・・

これも、いつも、ブログを見に来ていただいている皆様のおかげと感謝しつつ、これを励みに、今後も末永く続けていけたら・・・と思っております。

よろしくお願いしますo(_ _)oペコッ
 .

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2012年9月16日 (日)

マッチ王…清水誠と瀧川辧三~マッチの日にちなんで

 

昭和二十三年(1948年)9月16日、戦時中は配給制だったマッチに自由販売が許された事を記念して、今日=9月16日は「マッチの日」という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・

その昔、おそらくはサルから進化したであろう人類が、他の動物に比べて1歩先行く存在となったのは「火を扱う事」ではないか?と思います。

木切れなどを道具として扱う事までは、賢いサルならできますが、そのままだと危険な火を安全に扱う事ができるのは、やはり人間だけかと・・・

人は、その火によって、暗い夜に灯りをともせる事や寒い冬に暖をとれる事に気づき、やがて固い肉を焼いて食べるとオイシイ事や固い木の実を煮て食べるとオイシイ事を知ったその日から、本来、危険な物をいかに安全に使うかを工夫しながら生きて来たように思います。

電気もガスも、車も飛行機も・・・一歩間違えれば危険な物を、いかにして安全に便利に使用するか?
これが、文明の発展につながったのではないか?とすら思えます。

その原点がという物・・・

とは言え、人の歴史の中で、長きに渡って「火をおこす」という作業は手間のかかる物でした。

それを、ほとんど手間をかけずに瞬時に行うという画期的な発明が「マッチ」・・・これを発明したのは、1827年(文政十年)のイギリスの科学者ジョン・ウォーカーという人でした。

火の付き具合が、あまり良く無かったと言いますが、形態的には、ほぼ、現在の物と変わりない物・・・ただし、初期の頃のマッチは、先端についている薬品が有毒で危険な物でした。

それを改良して安全なマッチの製造に成功したのがスウェーデン・・・以来、スウェーデンは世界市場のシェアを握っていたのです。

明治維新を迎えた日本でも、やはりスウェーデンからの輸入・・・

その頃には、イキな男が、馴染の芸者を呼んで、船宿でシッポリしようと企み、ムードを盛り上げるために灯りを消してマッチを擦ったところ、突然、懐から出て来た火に驚いた芸者が、「化け物!!」と叫んで失神した・・・なんて笑えるエピソードも・・・

Simizumakoto600 そんな中、旧金沢藩士だった清水誠(しみずまこと)が、明治三年(1870年)に藩命を受けてフランスに留学した際、たまたま、その留学先で、宮内庁の役人=吉井友実よしいともざね)に出会います。

その友実がポツリ・・・
「我が日本は木の国なのに、こんな小さなマッチまで輸入に頼らなならんとは…」

その姿を見た誠・・・
「やってやれない事は無いはずです!帰国したらやりましょう!」
と、やる気満々なところを見せつけます。

帰国後すぐに、本業の造船技師を営むかたわら、仮工場にてマッチの製造を開始しますが、その翌年の明治九年(1876年)には、彼の意気込みに感銘を受けた大久保利通(としみち)のアドバイスを受けて辞職し、東京本所柳原に新工場を設立して、本格的に、その経営に乗り出しました。

当時は、あの廃藩置県のおかげで、無職となった人も多く、非常に安い賃金で労働力を確保できた事から、誠の事業はまたたく間に軌道に乗り明治十三年(1880年)には海外に輸出できるほどになります。

さらに、研究熱心な彼は、本場=スウェーデンまで出かけて研究し、様々な改良を加えた新製品を次々と製造・・・品質有料で低価格なマッチが市場に溢れる事になります。

しかし、商品がヒットすればするほど、それを真似た粗悪な商品が登場するのは世の常・・・

そうなると日本製のマッチへの信用は失われ・・・さらに、同時期に続いた不況のあおりを受け、ついに、明治二十一年(1888年)、誠はマッチ業界を去る事になります。

Takigawabenzou600 そんな誠と交代するように表舞台に登場するのが、瀧川辧三(たきがわべんぞう)でした。

長府藩士の子として、現在の下関に生まれた辨三は、大阪の開成校で学んだ後、工部省電信学校を卒業・・・その後、神戸のイギリス商館に務める中、明治十三年(1880年)、仲間と共同で清燧社(せいすいしゃ)という会社を設立し、マッチの製造に着手します。

そう、誠の活躍で、マッチ業界がノリに乗ってた頃ですね。

ところが、上記の通り・・・ノリに乗ってた頃に次々と誕生した同業者が、粗悪なマッチを売ってくれたおかげで、信用がガタ落ちのうえに不況のダブルパンチ・・・

次々と同業者が潰れていく中で、辨三の会社も、ご多分に漏れず、もはや虫の息・・・共同出資者も去る中で、ただ一人残った辨三は、食事さえも節約しながら夜明けから日没まで、休みなく働きます。

そんな中でも、辨三の信念は、「品質第一」・・・とにかく、良いマッチを造る事でした。

そんなこんなの明治二十九年(1896年)、創業者の社長が亡くなった良燧社(りょうすいしゃ)という会社の商標と良燧社そのものを買い取ったのです。

もはや虫の息の辨三ですから、この高価な買い物は、おそらく一大決心・・・ある意味、その命賭けた一世一代の懸けであったかも知れません。

実は、この良燧社は、輸出先の中国市場で絶大な人気を誇る「尾長猿印」という商標を持っていたのです。

さらに辨三は、それとは別の「馬首印」や「ツバメ印」「筍印」などの人気商標も受け継ぎます。

そうです・・・いくら品質の良い製品を造っても、マッチの場合、使ってみないと、本当に良い物かどうかわかりません。

「良い品物には、この商標がついている」
「これが、ついていれば安心だ」

という、品質を保証する商標に目をつけたのです。

これが見事に大ヒット!・・・海外への輸出にも成功し、辨三の会社は、国内向けのシェア70%を誇る大会社に成長していきます。

Takigawam800
大正時代の頃の商標
Takigawamomo3 .
辨三の代表的商標「桃印」は現在も発売中です

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いくつかの合併を経て、大正六年(1917年)には社名を東洋燐寸(マッチ)株式会社と改名した頃には、もはや業界では揺るぎない地位を築き「マッチ王」と呼ばれるようになった辨三は、翌・大正七年に、マッチ事業のすべてを婿養子に譲り、社長を引退しました。

その後は、災害被害者の援助や瀧川中学校設立など、社会貢献に尽力する辨三ですが、その根底にあるのは、やはり、「今の自分があるのも、社会の皆さまに育ててもらったおかげ」という、これまでもこのブログに度々登場していただいている、昔懐かしい商人&実業家の精神を持っていたからこそ・・・

マッチ王となった後も、自分の事にお金を使う事はなかったという辨三・・・彼が亡くなった時には、高価な私物という物はほとんど無かったとか・・・

ホント、頭が下がります。
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2012年9月14日 (金)

勤皇の志士のカリスマ~梅田雲浜・獄中死

 

安政六年(1859年)9月14日、安政の大獄の2人目の逮捕者となった梅田雲浜が、獄中で病死しました。

・・・・・・・・・

梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)は、若狭小浜藩(福井県小浜市)の藩士の子として生まれ、藩校で学んだ後、山崎闇斎(あんさい)の提唱した崎門学(きもんがく・闇斎学とも…朱子学に闇斎の思想をプラスした学問)を学んだ崎門学派の儒学者です。

Umedaunbin600 その知識を活かして大津にて塾を開いたり、京都にある藩塾の講師をしたりしていましたが、度々の建言での歯に衣着せぬ物言いが藩主の酒井忠義(ただあき)にうっとぉしがられ、嘉永五年(1852年)=38歳の時に、藩士の籍をはく奪されてしまいます。

しかし、その翌年に、あのペリーの黒船来航です(6月3日参照>>)

にわかに盛り上がる尊王攘夷論(そんのうじょうい=天皇を敬い外国を排除する思想)の中で、彼の、自信たっぷりで歯に衣着せぬ物言いが共感を呼び、論客として頭角をあらわしていくのです。

「僕之如き天下之事情に通じ、至る処として天下之人心を動かす者、世に幾人ぞや」・・・
これは、安政元年(1854年)にロシア艦隊が大阪湾にやって来た時の雲浜の言葉だそうですが、ものすンごい自信たっぷりw(゚o゚)w・・・

しかも、雲浜は、尊王攘夷論を先頭にたって論ずるものの、具体的に何をするという細かな事は語らない・・・

実際に攘夷を決行するとしたら、どこそこで何をするという一つ一つの目標を立て、仲間とともにそれらを実現しながら、最終的な大きな目標達成に向かって動く必要があり、その間は、何が何でもその身を守り、幕府に逮捕される事ないよう行動せねばならないわけですが、雲浜には、そういうところが、あまり見られないのです。

同志とともに反幕府活動をしていく中で、雲浜は、梁川星巌(やながわせいがん)頼三樹三郎(らいみきさぶろう)池内大学とともに、「悪謀四天王(あくぼうしてんのう)と称されて、幕府から手配される事になりますが、安政五年(1858年)の9月6日には、
「もうすぐ、捕まるかも知れへんので、お別れの挨拶に来たで~」
と、日頃から、何かとお世話になっている長州藩の京屋敷にやって来たと言います。

果たして、その翌日の9月7日の夜(8日とも)に、伏見奉行所の役人によって、雲浜は逮捕されるのですが、その場所も、逃げも隠れもしない自宅・・・

しかも、逮捕時に、篭に乗せようとした役人に向かって
「僕は、国家のために尽力してんのであって、天地に誓って恥ずかしい事はして無いんで、このままの姿で夜露死苦!」
と言って、縄を打たれたままの姿でひっ立てられて行ったのだとか・・・

また、取り調べの際にも、役人の質問にはまったく答えず、ニコニコ笑いながら、尊王攘夷論を説き、獄中でも、向かいの牢に入っている者に向かって大声で
「なぁ、なぁ、話しようや!」
と言って、自らの大義名分を高らかに語っていたと言います。

なにやら、尊王攘夷を実現する事よりも、精神世界を貫く事を目標にしていたかに見える雲浜・・・しかし、これが、彼をカリスマ的存在に推しあげるのです。

これらの雲浜の話は、後々の志士たちに語り継がれていく話なので、どこまでが、本当の事かは証明し難いですが、捕らわれる事を恐れず、いずれ死刑になる身でありながらも自論を展開する姿が、それを伝え聞いた勤皇の志士たちには神の如く映ったに違いなかったのです。

やがて、取り調べのために江戸に護送された雲浜は、小笠原忠嘉(ただひろ=小倉藩主)邸の預かりとなりますが、翌・安政六年(1859年)の8月半ば頃から、体調を崩しはじめます。

最初、普通の風邪と思われていたのが、徐々に足がむくみはじめ、足のむくみが腰まで達し、脚気(かっけ)と診断されます。

「足部之腫気少々相減じ候得共、胸膈(きょうかく=胸と腹の間・胸)之水気 兎角(とかく)相減ぜず」
と、8月26日の幕府の記録にあり、かなり悪くなっていた事が伺えます。

やがて11日に「元気衰え」、12日には「危篤状態」となり・・・

その2日後の安政六年(1859年)9月14日雲浜は、処分未定のまま、45歳の生涯を閉じたのです。

♪君が代を おもふ心の 一筋に
  我が身ありとも 思はざりけり ♪
  雲浜:辞世

捕まろうが死のうが、その精神を貫く事こそ理想としたとおぼしき雲浜・・・おそらくは、捕縛された時に、すでに死を覚悟していたはず・・・

彼としては、最後の最後に、刑場で死ねなかった事こそが、1番の心残りだったかも知れません。

ちなみに雲浜とともに安政の大獄での逮捕者・第1号となった赤禰武人(あかねたけと=赤根武人)は、この後、奇兵隊の第3代総監として活躍するのですが、そのお話は【幕末に散った奇兵隊・第3代総監…赤禰武人の無念】でどうぞ>>
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2012年9月12日 (水)

石山合戦・勃発~信長VS顕如の野田福島の戦い

 

元亀元年(1570年)9月12日、石山本願寺が、野田・福島の砦に攻撃を加えた織田信長に対して挙兵・・・信長の砦に鉄炮を撃ちかけ、第1次石山合戦となりました。

・・・・・・・・・

本日=9月12日は、奇しくも、元亀二年(1571年)に、あの織田信長比叡山焼き討ち(2006年9月12日参照>>)を行ったと同じ日づけ・・・

この信長の比叡山焼き討ちは、信長の殺戮の代表格のように言われ、一般的には神仏をも恐れぬ魔王のごとき所業・・・と称されますが、このブログでも度々お話していますように、信長がやったのは、宗教を政治に介入させない=政教分離であって、宗教弾圧ではありません。

逆を言えば、信長がやる前の宗教勢力は、その武力で以って、ものすご~~く政治に介入していたわけですね。

ここのところの大河ドラマ「平清盛」で、
「賀茂川の水の流れと山法師とサイコロの目」
という、かの白河法皇でも思い通りにならなかった物を挙げたこの言葉が強調されていますので、すでに、皆さまもご承知かと思いますが、この「山法師」というのが宗教勢力です。

ただし、この平安の頃の仏教勢力の力は、主に武装した僧=僧兵・・・やがて室町時代になって、徐々にその勢力をつけて来た一向一揆などの中心となっていたのは、武装した信者=宗徒でした。

もちろん、そこには、宗教が政治に・・・という一方で、時の権力者や武将が、彼らの集団的な武力をアテにしたという背景もありますが・・・

そもそも、親鸞(しんらん)(11月28日参照>>)が開いた浄土真宗は、第8代法主=蓮如(れんにょ)の時代に大きく羽ばたき(2月25日参照>>)、信者によって寺を中心にした寺町が各寺の周りに出来上がり、彼らが、自らの信仰を守るために武装しはじめ、果ては、あの加賀一向一揆(7月26日のページ>>)のように、そこに守護大名の介入さえ排除して、自らの国のように、その町を運営していくようになるのです。

そうなると、そこを統治する武将にとっても、その勢力がうっとぉしいわけで・・・特に、それが天子様のおわす都となるとなおさら・・・

・・・で、天文元年(1532年)当時、山科(京都市山科区)にあった山科本願寺を本拠とする畿内の一向一揆勢力を恐れた細川晴元(はるもと)は、日蓮宗徒を中心とする法華一揆の力を借りて山科本願寺を焼き打ちしたのです(8月23日参照>>)

こうして京都追われた第10代法主の証如(しょうにょ)は、かつて蓮如が隠居所としていた大坂御坊(3月25日の後半部分参照>>)に本拠を移し、ここを石山本願寺としました。

その後、やはり石山本願寺の勢力を恐れる晴元は、度々潰そうと試みますが、それこそ、武将の中には、彼らの勢力をアテにする者も多くいて、石山本願寺はさらに大きくなって行き、中央権力との深いつながりも持つようになっていきます。

やがて第11代法主=顕如(けんにょ)の代になると、もはや戦国大名に匹敵するほどの大きな勢力となっていたわけですが、そこに立ちはだかったのが信長です。

永禄十一年(1568年)9月、第15代室町幕府将軍=足利義昭を奉じて上洛した信長は、三好三人衆を撃ち果たし(9月29日参照>>)、またたく間に畿内を制圧します。

・・・で、制圧すると、その後に待ってるのは矢銭(やせん=軍資金)の徴収・・・これは、(新しくやって来た)統治者に対して「反抗する意思はありませんよ」って事を示す意味もあるわけですが、顕如はあっさりと5000貫もの大金を支払い、石山本願寺が武力だけでなく財力もあるところを見せつけています。

しかし、間もなく、ともに上洛した義昭と信長の関係がギクシャクし始める(1月23日参照>>)、義昭は、かつてお世話になった越前朝倉義景(よしかげ)(9月24日参照>>)をはじめとする各地の武将に打倒・信長を呼びかけはじめ、同時に、信長の上洛で追放されていた三好三人衆も動きはじめます。

そんなこんなの元亀元年(1570年)、信長は、顕如に対し、
「石山本願寺を破却して退去してちょ」
と言って来たのです。

それこそ、信長さんの本心はご本人に聞くしかありませんが、おそらくは、本願寺の勢力が・・・というよりは、信長にとって、この石山本願寺の建ってる場所が、ものすごく魅力的だった事にあるでしょう。

ここは、大阪湾大和川淀川を臨む上町台地にあり、摂津(大阪府北部)播磨(兵庫県)河内(大阪府南部)と接し、紀州(和歌山県)とも容易に行き来できるうえ、海運を使えば、瀬戸内から四国へも通じる交通の要所・・・もはや畿内を制した信長にとって、さらに勢力を西に伸ばすには、これほど良い拠点となる場所はありません。

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石山本願寺・推定地の説明看板付近(大阪城・六番櫓)

そうです・・・皆様、ご存じのように、現在、大阪城が建ってる、あの場所ですから・・・

とは言え、「退去してちょ」って言われた側にとっちゃぁ、「はい、そうですか」と言って、簡単に出て行くわけにはいかないわけで・・・

いや、むしろ、ここで顕如は、いよいよ立ちあがり、かの義昭が呼びかけた打倒・信長の包囲網の一翼を担う事を決意したのです。

「信長が上洛してから、こっちはエラい迷惑かけられとんねん!
せやのに、さらに“破却せぇ”やと…
もう、おとなしゅーしてられへん!
今こそ、開山・親鸞聖人の恩誼
(おんぎ)に報いる時や!
その命惜しまず忠節を見せてくれ!
けぇーへん者は破門にすんぞ!」

全国の宗徒に向けて檄文を発したのです。

そんな石山本願寺の挙兵を知ってか知らずか・・・この時の信長は、ここ来て反旗ののろしを挙げたあの三好三人衆が野田・福島(大阪市福島区)に築いた砦に対して、信長も砦を築いて応戦中・・・(8月26日参照>>)

すでに8月下旬に始まっていたこの戦いでは、信長軍の勢いに押された三好軍が、もはや風前の灯となっていたところに・・・

元亀元年(1570年)9月12日夜・・・突然、鐘が響き渡ったかと思うと、またたく間に数え切れぬほどの人数が集まり、驚く信長軍の砦に対して鉄砲を撃ちかけ、一気に襲いかかったのです。

なんと、この時、顕如自ら鎧を着て、信長の本陣に迫る場面もあったとか・・・

そう・・・ここに、この後、約10年に渡る石山合戦の幕が上がったのでした。

その後、信長VS石山本願寺の激戦となる天王寺合戦については5月3日のページでどうぞ>>
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2012年9月11日 (火)

市聖~空也上人の伝説

 

天禄三年(972年)9月11日、市聖と呼ばれた天台宗の僧・空也が70歳で亡くなりました。

・・・・・・・・

未だ仏教が、一部の高貴な人々の物であった平安時代中期に、その信仰を庶民に広げる先駆者のような役割を果たした空也(くうや)は、後に様々な伝説が語られる事となるものの、史実と呼べるような物はほとんど残っていませんので、今回のお話も、伝説の域を出ないお話ではありますが・・・

空也11歳の時・・・

病に倒れ、もはや死の近い事を悟った母は、彼をそばに呼んで、
「あなたの父親は高貴なお方・・・ワケあって名は言えないけれど、天子様だと思っておいてね。
その天子様が、いつも、この国と国民の幸せを願っておられるように、あなたも、大きくなったら、民衆の平安を祈り、民のために尽くす仕事につきなさい。
それが、この母の菩提を弔う事になるのですよ」

と・・・その手をしっかりと握りしめながら言いました。

果たして、しばらくして無くなった母・・・葬儀を済ませた空也は、母の遺言通り、仏門に入る事を決意して家を出たのでした。

空也上人には、当時から、第60代醍醐(だいご)天皇、あるいは第54代仁明(にんみょう)天皇ご落胤では?という噂があったものの、ご本人は、その出自を一切語らなかったそうで、ひょっとしたら、ご本人も、自分の父親が誰かは、知らなかった可能性が高いと言われています。

Kuuya600 こうして、母の死後、すぐに優婆塞(うばそく=正式な僧ではない在家の仏教行者)となった空也は、京都や大阪を中心に各地を行脚ながら苦行を続け、やがて尾張(愛知県西部)国分寺で出家し、そこから空也と名乗ります。

その後も、名山を訪ねながら諸国行脚の修行を続けますが、その道すがら、悪路では自ら鍬を持って路を平にし、橋の無い川には、自ら橋を架ける作業を始める・・・

すると、どこからともなく、地元の人たちが集まって来て、彼の作業を手伝う・・・そうこうしているうちに、やがて、彼の行くとこ行くとこについて回る者も現われ、いつしか、彼の周りには人が絶えなくなり、誰ともなく「市聖(いちのひじり)と空也を呼ぶようになっていったのです。

そんなこんなのある時、当時、京都にいた空也は、御所の南にある神泉苑のそばに住んでいた老婆のもとに、度々通っていました。

その老婆は身寄りもなく病んでいて、いかにもみすぼらしい・・・しかし、その姿があまりに哀れで、気になってしかたがない空也は、朝夕、彼女のもとに食事運んで行っていたのです。

おかげで、老婆は少しずつ元気を取り戻して行くのですが、そんなある日、いつものように食事を持って行くと、なんだか老婆の様子がおかしい・・・

ソワソワと挙動不審、火照っているようで顔が赤い・・・
「どないしたんですか?熱でも??」
と声をかけますが、老婆はなかなか答えません。

でも、年齢が年齢なだけに、心配な空也が何度も問いただすと・・・
「体が火照ってなりませんのや~
お情けでございます…どうか、この老婆を、1度だけ、抱いてやっておくなはれ~」

と・・・

「へっ??(@Д@;」
この時、空也19歳の春・・・

しかし、さすがは空也・・・心で驚いても、その様子は表情には見せず、
「よっしゃ!抱いたる!」(←ええんかい!)
と即答・・・

すると老婆は
「ワテは、この神泉苑に住む老狐…あんたはんは正真正銘の聖者どす~~」
と言って、その場で忽然と姿を消したのだとか・・・

まぁ。これは、正真正銘の伝説ですが・・・

やがて40歳を過ぎた天暦二年(948年)には、比叡山の第15世座主の延昌(えんしょう・延勝)より大乗戒(だいじょうかい)を授かり光勝の法号も得ました。

空也自身は、各宗派を越えた独自の立場でしたが、ただ単に「自称」して布教活動するのと、おおもとの天台宗に認められたうえで、自らの教えを広めるのとは、雲泥の差があるわけで・・・

ですから、そのうちには、大きな供養会を仕切る立場となり、貴族などとも交流を持つようになりますが、空也はそうなっても、森羅万象・生きとし生ける物を愛し、今日ある事を喜び感謝するという一般民衆の立場に立った信仰を曲げる事はありませんでした。

ある時、空也が、朝に夕なに、その鳴き声を聞いて親しんでいた鹿を、定盛なる猟師が射殺してしまいました。

悲しんだ空也は、その鹿の皮と角を貰い受け、皮は衣にして、角は杖の先の飾りとし、肌身離さず持っていたのだとか・・・

すると、その様子を伝え聞いた定盛は、生業にしていたとは言え、自らの殺生を悔いて、すぐに空也上人の弟子になったという事です。

Dscn3091a800
六波羅蜜寺

天禄三年(972年)9月11日・・・かつて、京都にまん延した疫病を鎮めるために、自ら刻んだ十一面観音像を安置した道場にて、空也は70歳の生涯を終えました。

この道場は、現在の六波羅蜜寺・・・
(行き方は本家HP:京都歴史散歩「四条から五条へ…祇園の路地歩き」でどうぞ>>

その後、空也の遺志を汲んだ定盛らが、瓢を叩いて法曲を唱えながら京都市中巡行して、空也の教えを広めるようになるのですが、これが、その子孫たちに受け継がれ、現在、京都のお盆を彩る伝統芸能=六斎念仏になったと言われています。

なんだか、庶民を愛してやまなかった空也とともに生きた人々と、今もそこに住む京都の人々との間に、脈々と続く歴史を感じますね。
六斎念仏の例年の日程・場所については本家HPの京都の年中行事のページ>>で…記載されている日程はあくまで毎年の予定ですのでご注意ください)
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2012年9月10日 (月)

三木城・籠城戦・逸話~秀吉と谷大膳の話

 

天正六年(1578年)9月10日、織田信長に反旗を翻した別所長治の居城・三木城を、配下の羽柴秀吉が攻撃した三木城・籠城戦で、谷大膳が討死しました。

・・・・・・・・

三木城の攻防戦の流れについては、一応書かせていただいております2012年3月29日のページ>>でご覧いただくとして・・・

本日は、その三木城攻防戦の中で、『常山紀談』『武将感状記』に語られる羽柴(豊臣)秀吉谷大膳衛好(だいぜんもりよし)のお話・・・

・‥…━━━☆

大膳は、この三木城の攻防戦の時に、織田信長がら秀吉につけられた与力・・・つまり、秀吉の直属の家臣では無いわけですが、この時は、平井山に陣を敷き、三木城への兵糧補給路を断つという任務を預かっておりました。

Mikizyoukozu600
三木城包囲之図…白い部分が三木城主郭で、川を挟んだ右の大きいピンクが秀吉の本陣

この大膳は、なかなかの武勇の持ち主で、かねてから、そのウデに惚れ込んでいた秀吉は、
「どや、いっちょ、あの三木城の出丸を攻め落としてくれへんか」
と頼みます。

出丸とは、城から張り出した形になっている最前の防衛線・・・

「いや、あの出丸は守りが固くて。ちょっとやそっとで落とせるもんやおまへん」
と大膳・・・

すると秀吉は・・・
「なんや、日頃、武勇に優れた猛者やと評判のお前が、出丸一つ落とせんのか?」
と、ちょっとバカにしたような口調・・・

この言い方にカチンと来た大膳・・・

一方の秀吉も、その怒り心頭の大膳を見て、刀に手を掛け、まさに一触即発の状況となります。

そこに慌てて入って来たのが、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)蜂須賀小六(はちすかころく)・・・

「もう、二人とも何やってはりますねん!」
「武将たる者、戦場でこそ武勇を誇るべき・・・こんなとこで、刀振るて、どないしますねん」
と、なんとか二人をなだめすかして、事無きをえました。

その夜、落ち着いてから、昼間の言動を深く反省した秀吉・・・

自ら、大膳の陣に酒の肴を持って現われ、
「さっきは、ゴメンな・・・
あれは、ホンマ俺の失言やし、めっちゃ、反省してるよってに…」

と、本人に向かって、本気の謝罪をしました。

この時は、秀吉を許したかに見えた大膳・・・

しかし、翌朝・・・天正六年(1578年)9月10日大膳は、その出丸を攻めるのです。

やはり、大膳にとって、昨日の秀吉の発言は許し難く、ひどくプライドを傷つけられたと感じていたのかも知れません。

案の定・・・大膳の予想通り、出丸の守りは固く、城の者たちの決死の抵抗に遭い、戦いは激戦となります。

さすがの大膳は、その中を幾度となく押し進むのですが、またたく間に数か所の傷を負い、やがて、その動きも鈍って来る・・・

ますます敵味方入り乱れた戦場で、大膳とともに、この戦いに参加していた息子が父の姿を目に留めて近寄りますが、その時は、すでに、大膳は、息をひきとっていたのです。

壮絶な討死でした。

その一報を聞いて
「惜しい人物を亡くしてしもた」

と涙にくれる秀吉は、

「例え遺骸であろうとも、もう1度大膳に会いたい」
と、その日、再び、大膳の陣を訪れたのだとか・・・

やはり、戦国武将たる者・・・その死を以ってでも守りたい名誉という物があるのかも知れません。
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2012年9月 8日 (土)

壮絶な夫婦ゲンカで改易処分…安中藩主・水野元知

 

延宝八年(1680年)9月8日、上野国安中藩の第2代藩主・水野元知が38歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

上野(こうずけ=群馬県)安中(あんなか)の初代藩主=水野元綱(もとつな)の次男として生まれた水野元知(みずのもととも)が、父の隠居にともなって家督を相続したのは寛文四年(1664年)の22歳の時でした。

その時、すでに結婚していた元知・・・彼の悩みは、この奥さんにありました。

30ilal03b100 この奥さん、出羽山形(山形県山形市)の水野氏の一族である野監物忠善(けんもちただよし)の娘なのですが、元知と同族と言えど、格式では嫁さんの家が上位・・・父・忠善の威光をそのまま婚家に持ち込み、事あるごとに夫を見下すような態度で、とにかくキツイ・・・

そんな中で、藩主となれば、当然、妻子は江戸屋敷に住み、藩主は江戸と領国を行ったり来たりの生活になるわけですので、元知としては、江戸での生活がうっとぉしくてたまらない・・・

そんな元知の気持ちを癒してくれたのが、安中城(群馬県安中市)の奥女中だった八重という女性でした。

何事も包み込むようなやさしさと包容力と穏やかなな物腰・・・当然のなりゆきと言え、元知は八重に夢中に・・・

この先、「領国に帰れば八重がいる」と思うと、重苦しい江戸での生活も、嫌な政務も、なんとかこなせそうな気になる元知でした。

しかし、二人の関係は、間もなく、江戸上屋敷にいる奥さんの知るところとなります。

もともと例のごとく、上から目線の高飛車奥さんですから、八重の事を知った後は、ますます嫉妬深くなっていました。

やがて、元知が江戸に戻る時がやって来ます。

憂鬱な気持ちを背負ったまま、江戸に向かう元知・・・しかし、どうしても、奥さんのいる上屋敷には行きたくない!!!

そのため元知は、まずは、奥さんのいない下屋敷へと向かいました。

この態度に奥さんは激怒!!
「江戸に戻ったのに挨拶が無い!」
「正室をないがしろにしとるんか!」
「バカにすな~~い」

と怒り爆発です。

もう、怖くて上屋敷には行けない元知・・・もちろんそうなると仕事にも支障をきたすわけで・・・

やむなく、元知は気鬱(気分の落ち込み)を理由に幕府に届け出を出し、100日間の有給休暇をもらい、そのまま、安中へと帰国しました。

・・・と、またこれが奥さんの気持ちにさらに火をつける事に・・・

「何、勝手に帰っとんねん!」
という怒りとともに、
「帰ったら、また、あの女とイチャつくんちゃうんかい!」
という嫉妬が絡み・・・

とうとう奥さんは、八重の殺害を計画するのです。

藩お抱えの医師と親しかった彼女は、医師に命じて八重を拉致させ、昼夜をいとわぬ折檻を繰り返したあげく、縫い針を夫の布団に仕込み、
「八重が、藩主・元知を殺傷しようとしている」話をでっちあげます。

そして、その殺傷疑惑を理由に、八重を生きたまま箱詰めし、九十九川に沈めて殺してしまうのです。

やがて、100日経って、休暇明けの夫の江戸出仕を待っていた奥さん・・・

江戸に戻った元知を見るなり、
「わかってるやろ!」
と言いながら、懐に持っていた守り刀を抜き、元知に斬りかかったのです。

さすがに、元知は武士ですから、とっさに身をかわし応戦しますが、もみ合ううちにお互いがお互いを傷つけ、ともに重傷を負うという壮絶な夫婦ゲンカとなってしまいました。

その事件の1カ月後・・・
「もはや耐えられない」
と感じた元知は、自ら刀を取って自害を図るのですが、失敗・・・

夫婦ゲンカで刃傷沙汰となったうえに、武士とあろう者が自刃を失敗・・・こんな話が、幕府に知れるのは時間の問題だと判断した藩の重鎮は、自ら
「藩主の発狂」
として幕府に届けます。

寛文七年(1667年)5月28日領地没収の改易処分・・・元知の身柄は、信濃松本藩(長野県松本市)水野忠職(ただもと)の預かりとなり、奥さんも実家に戻されます。

速やかに届け出たおかげか、息子の元朝には、少しばかりの禄が許され、子孫も旗本として存続する事になった事が、せめてもの救い・・・

しかし、当の元知さんは、そのまま心身ともに病んでしまい、延宝八年(1680年)9月8日、配所にて、38歳という若さで、この世を去りました。

とは言え、この事件・・・
「藩主の乱心を理由に改易となった」事は、記録として残っていますが、実際には、その理由も諸説あり、細かな事は、あくまで噂の域を出ない物でありますので、そこのところは、ご理解いくださいませm(_ _)m
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2012年9月 7日 (金)

大津城攻防戦~京極高次の関ヶ原

 

慶長五年(1600年)9月7日、京極高次の籠る大津城を囲んだ西軍諸将により、大津城への攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)、間もなく始まる関ヶ原・・・

9月1日に江戸を発った徳川家康が西上する中、東西両軍の諸将らが続々を美濃(岐阜県)に集まって来る頃・・・
(くわしい経緯は【関ヶ原の合戦の年表】>>で)

Kyougokutakatugu400 先日、お話させていただいたように、西軍の石田三成(みつなり)の要請で、琵琶湖畔の北国街道を北に向かっていた京極高次(きょうごくたかつぐ)は、美濃への転戦を要請された事をキッカケに、東軍=家康側に寝返る事を決意・・・

琵琶湖を縦断し、9月3日に、居城の大津城へと帰還しました(9月3日参照>>)

早速、籠城のための作戦を練る高次ですが、おそらくは、この裏切りをヨシとせぬ西軍は、選りすぐられた精鋭を、この大津城への攻撃に派遣して来るに違い無く、わずか3000ほどの兵力と300挺ほどの鉄砲で、どれだけ抵抗できるものか・・・

もはや、城内は決死の覚悟の空気が流れていた事でしょう。

とは言え、以前から書かせていただいているように、高次の京極家は鎌倉の昔より、その名を馳せた名門・・・おそらくは、長年京極家に仕えた直属の家臣たちには、彼らなりの誇りが高く高くあったはず・・・

しかし、近頃は、おちぶれた名門(8月7日参照>>)として、どこの馬の骨ともわからぬ新参者にいいように翻弄され続けて来た中で、思えば、今回の籠城戦は、我が殿さまが自ら決断した、自分のための大いくさ・・・むしろ、この大一番で死ねる事は本望だと思っていたかも知れません。

9月6日、高次は、大津の城下町に住む住民を速やかに立ち退かせた後、城下に火をかけます。

これは、町を焼け野原にして、見晴らしを良くするため・・・敵の囲みが、どのような状況になっているかを城内から見渡せるようにするための苦汁の選択でした。

果たして、その翌日の慶長五年(1600年)9月7日・・・大津城下に現われたのは、主将の毛利元康(もうりもとやす=毛利輝元の陣代)と、その弟の小早川秀包(こばやかわひでかね)、さらに西国第一のキレ者とうたわれる立花宗茂(たちばなむねしげ)をはじめとする総勢3万8000余り(諸説あり)の大軍でした。

まもなく、攻撃が開始されます。

もちろん、一方では水面下での交渉の動きもありました。

高次籠城の一報を聞いて、まず、動いたのは、大坂城にいた淀殿・・・そう、彼女は、かつて北近江(滋賀県北部)を支配した浅井長政の遺児=浅井三姉妹の長女茶々です。

籠る高次の嫁となっているのは、彼女の妹のですから、このまま、おとなしく戦況を見守る事なんて到底できません。

早速、北政所(きたのまんどころ=秀吉の正妻のおねさんです)に相談し、北政所付きの孝蔵主(こうぞうす)饗庭局(あいばのつぼね)侍女たちを、交渉人として派遣するのです。

その名目は、大津城にいる松丸殿(まつのまるどの)の救出・・・松丸殿とは、高次の姉(もしくは妹)で、豊臣秀吉の側室となっていた京極龍子(たつこ)の事です。

この籠城戦には無関係の龍子を・・・という事ですが、その根底には大津城の開城と講和の意が含まれている事は明らかです。

しかし、使者たちがいくら説得しようとも、高次の決意は固く・・・というよりも、ここですんなり開城するんだったら、はなから籠城なんてしません。

それだけ確かな決意があるからこそ、北国街道をUターンして大津に戻って来たのですから・・・

もちろん、その決意は初も同じでした。

とは言え、もはや大軍に囲まれた大津城・・・しかも、徐々に攻撃は激烈さを極めていきます。

9月9日には大筒が登場して、西軍の本営である三井寺から大津城めがけて砲撃を開始・・・地震のごとく揺れ、響き渡る轟音に、かの松丸殿が気絶するという場面もありながら、やがて堅固な石垣に守られた城郭も、三の丸が崩れ二の丸が崩れ・・・見るも無残な姿に追い込まれていきます。

それでも、高次は降伏しないどころか、敵の攻撃を幾度も押し返し、毎夜のごとくゲリラ的夜襲を決行して大軍を翻弄します。

しかし、数の上では到底勝ち目の無い籠城戦・・・13日には、もはや本丸を残すのみの状況となってしまいました。

さらに14日には、再び、北政所からの使者が・・・ここに来て、高次はようやく開城を決意します。

Dscn8333a800 彦根城・天守閣…実は、この彦根城の天守閣は、今回の大津城の天守を、関ヶ原後に移築したものなのです。

かくして、高次らが大津城を退去したのは、15日未明・・・そう、間もなく、かの関ヶ原では、天下分け目の戦いの幕が上がるのです。

開城後の高次は、それこそ、負け戦となった武将の責任を自らの一身に受ける覚悟を決めるのですが・・・

戦後処理も含めた、その後の高次さんのお話は9月20日のページで>>
本チャンの関ヶ原については9月15日のページで>>どうぞm(_ _)m
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2012年9月 6日 (木)

応仁の乱の影響…地方に伝わる京文化~一条教房の土佐下向

 

応仁二年(1468年)9月6日、前関白の一条教房が領地の土佐へと旅立ちました。

・・・・・・・・・・

つい先日も、10年にも及ぶダルダルの戦いのために、将軍家や管領家の権威が失墜したうえに、守護大名たちが長期京都に滞在するうちに留守を預かる守護代や土豪(どごう=地元に根付いた武士)が力をつけて・・・と、応仁の乱が及ぼした影響についてお話させていただきましたが(9月4日参照>>)

Nisizincc もちろん、この大乱は、武士だけではなく、公家にも、長年に渡るその生活を変えねばならないほどの影響を与えます。

当時のお公家さんは、名目上の荘園という物を持っていますが、当然、戦乱となれば、実質的な実入りはほとんど無いわけで、公卿と言えど困窮を極めていましたが、今回の応仁の乱では、都=京都の市街戦となった事で、その命まで脅かされる事になります。

そんな中の一人が、前関白を務めていた一条教房(のりふさ)・・・

彼は、今回の応仁の乱で、屋敷は焼かれ、膨大な蔵書も焼失・・・命からがら、当時、興福寺大乗院門跡だった弟の尋尊(じんそん)(4月1日参照>>)を頼って、奈良へと避難していたのです。

ところが、間もなくそこに、父の一条兼良(かねよし・かねら)一家も避難して来て、なんとなく居づらい・・・

・・・で、一念発起した教房は、一条家領のあった土佐国(高知県)幡多荘(はたのしょう)中村(現在の四万十市)に下向するのです。

避難の意味とともに横領されっぱなしの荘園を取り戻すための土佐行きでしたが、それこそ、関白経験者のようなものスゴイ上位の人が地方に下るなんて事は、ほとんど無いわけで、京都の人々は大いに驚き、
「鬼が住むか蛇が住むかわからないような土地へ行くなんて!」
と、反対した貴族も多かったようですが・・・

しかし、男・教房・・・応仁二年(1468年)9月6日一路、土佐へと向かいます。

彼らの一行が土佐に着いたのは9月下旬・・・現在の一條(条)神社(四万十市中村本町)のあるあたりに館を構えたと言いますが、予想外だったのが、地元の土豪たちに、意外に暖かく迎え入れられた事・・・

どうやら、当時の土佐には、未だ突出した大名もおらず、誰も彼もが似たり寄ったりな状況・・・そんな中で、我が町には、力と財は無けれども、中央にも顔の効くエライ人がやって来たわけで、地元としては大いに盛り上がり、教房を担ぎあげたのです。

ところで・・・
教房ほどの身分では無いにしろ、応仁の乱の時、避難の為に地方へ下った文化人は多くいて・・・

そう、実は、これが、もう一つの応仁の乱の影響・・・

連歌師の飯尾宗祗(いいおそうぎ・いのおそうぎ)(7月30日参照>>)諸国を巡っていたのもこの頃で、それまでは、都の上層階級が独占していた『源氏物語』『古今集』地方に伝える役割を果たしたと言われていますし、応仁の乱終結を最後までゴネまくっていた大内政弘(まさひろ)(11月11日参照>>)も、乱を避けて下向する多くの文化人や知識人を受け入れていたとの事・・・

ご存じのように、大内氏の領国である周防(すおう=山口県)は、西の京都と呼ばれるほどの雅な文化を育んだ土地ですが、その最初こそ南北朝時代ですが、この応仁の乱の時にも、多くの都人を迎えた事で、その文化水準は、本場の京都以上になったとも言われています。

つまり、応仁の乱をキッカケに、多くの地方都市で「小京都」と呼ばれる場所が生まれたのです。

ただ、そんな文化人たちのうち、ほとんどが乱の終結とともに、再び都に戻るのですが・・・

よほど居心地が良かったのか?
教房は応仁の乱が終わっても都に帰る事なく、この地に住みつきます。

まぁ、彼にとっては、息子が応仁の乱の兵庫津(ひょうごのつ=神戸港)の戦いで(10月22日参照>>)、ただ港で船を待っていただけで巻き込まれて戦死してしまったという悲しい出来事も大きかったのでしょうが・・・とにかく、この地に骨を埋める覚悟を決めた教房は、この都とはかけ離れた土地に、見事、京都を再現するのです。

中村の町に碁盤の目のような道を整備し、四万十川の支流の(うしろ)を鴨川に見立て、京都から祇園社や八幡宮もお迎えして・・・

さらに、港の整備も行って貿易を推奨し、用水路や農地の整備も行った事で、この地は大いに発展し、まさに、本物の京都をしのぐ勢いだったとか・・・

おかげで一条家は、土佐随一の家柄になり、その屋敷も「中村御所」と呼ばれました。

当地では、今も、
毎年春には、教房入府の姿を再現した葵祭りを彷彿させる「土佐一條公家行列
夏には京都五山を彷彿させる大文字の送り火が行われているそうです。

そんな一条氏も、やがては、戦国大名と化していくのですが、そこに立ちはだかるのは、ご存じ長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・・・と、そのお話は7月16日のページでどうぞ>>
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2012年9月 5日 (水)

清盛・秀吉の夢を実現させた田辺朔郎

 

昭和十九年(1944年)9月5日、琵琶湖疏水北海道の鉄道建設に尽力した土木工学者・田辺朔郎が83歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・

すでに5年前の4月7日のページで、本日主役の田辺朔郎(たなべさくろう)が手がけた最も有名な事業である琵琶湖疏水の完成について書いておりますので(4月7日参照>>)、内容が重複する箇所が複数あると思いますが、どうかおつきあいくださいm(_ _)m

・‥…━━━☆

Dscn5760a600 文久元年(1861年)に江戸で生まれた朔郎は、様式砲術家だった父の影響を受けて、理工系の学問に興味津々の少年となり、できたばかりの工部大学校(現在の東京大学工学部)に入学しました。

明治十六年(1883年)に、無事、その学校を卒業するわけですが、その時の卒業論文が『隧道(ずいどう=トンネル)建築=琵琶湖疏水工事計画』だったのです。

琵琶湖と京都を水路で結ぶ・・・その水は京都から伏見へ流れ、さらに淀川を経て大阪へ・・・

これは、古くはあの平清盛が構想し、豊臣秀吉も夢見た一大プロジェクト!

つい先日の京極高次(きょうごくたかつぐ)さんのページで(9月3日参照>>)「交通の要所である大津を任された」てな事を書かせていただきましたが、大型トラックという物が無い時代、大量の物資をいち早く、少ない労力で運べるのは、何たって船です。

若狭湾の豊富な海の幸や米どころ北陸の農産物など、琵琶湖の北岸から船で運び、大津で荷揚げする・・・これが、そのまま京都まで運べたら、こんなにすばらしい事は無いわけで・・・

とは言え、清盛も秀吉も考えていたのなら、おそらくは、この明治の頃までに、何人もの人物が、その構想を練ったはず・・・しかし、これまでは、いずれも実現不可能となっていた・・・

現に、この時も、何人かのお雇い外国人技師は、「日本の今の技術水準では無理だ」と言っていたのです。

しかし、時の京都府知事北垣国道(きたがきくにみち)が、前代未聞の人材登用をはかったのです。

それが朔郎・・・想像ですが、朔郎の卒業論文を読んだ国道が、この21歳の若き工学士に、清盛以来の夢を託そうと思えるほど、具体的かつ実現可能なプランだったという事なのかも知れません。

とにもかくにも、こうして一大プロジェクトはスタート・・・

果たして朔郎は、国道の期待に応える・・・いや、その期待以上の働きをします。

琵琶湖側の浜大津で水を取り入れた水路は、山に向かって流れ、複数のトンネルを越えて京都東山の蹴上(けあげ)に到着しますが、この間の水の高低差は、わずかに4mと言いますから、見事な設計です。

Dscn5751a600 ただし、その蹴上から、鴨川経由で京都市街の中心に船が出るためには、高さ35mの急こう配を越えなければならず、そのために工夫されたのがインクライン(傾斜鉄道)・・・滑車とワイヤーを使って、船を乗せた台車を引っ張るという、言わばケーブルカーなわけですが、朔郎が国道の期待以上の働きというのココです。

この疏水工事の最中に、アメリカの鉱山を視察した朔郎は、もともとは、水力利用のつもりだったインクラインを、蹴上に水力発電所を設けて、電力で作動する事に計画変更したのです。

日本初の水力発電、日本初の電車(電力ケーブルカー)・・・この見事なプロジェクトは明治二十三年(1890年)4月7日、ついに完成しました。

Dscn5700a800
南禅寺の境内を突っ切る水路閣…この上を疏水が走っています

●琵琶湖疏水の場所については、本家HP:京都歴史散歩「疏水沿いの哲学の道を銀閣寺から南禅寺へ…」でどうぞ>>(インクラインのしくみ図や疏水の地図もあります)

さらに明治二十七年(1894年)には、疏水が伏見にまで延長され、琵琶湖と淀川が結ばれて滋賀から大阪が舟によって直結・・・事実上、北陸から大阪への夢のラインが完成したのです。

その後、一大プロジェクトを終えた朔郎は、帝国大学の教授という職についていましたが、またもや国道から声がかかります。

明治二十九年(1896年)、北海道庁長官に転任していた国道が、道庁が直接、鉄道の建設&運営をする事を決意して、その技術者として朔郎を呼んだのです。

すぐさま大学教授の座を辞職して北海道に向かう朔郎・・・机上で物を考える学者より、現場に立つ事を優先するその姿に、朔郎の心意気を感じます。

やがて、彼の手によって、函館本線宗谷本線根室本線など、今も残る北海道の主要幹線の原型ができあがるのです。

その後、50歳に差し掛かろうという頃には、京都帝国大学工科大学長に就任・・・大正七年(1918年)に大学を退官した後も、大阪市営地下鉄などの鉄道建設に携わったと言いますから、そのエネルギーたるや、底知れぬものが・・・

明治の人の大きさを感じます。
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2012年9月 4日 (火)

戦国の幕開け…山名VS赤松・戦いの構図

 

文明十一年(1479年)閏9月4日、応仁の乱後に京都に滞在中だった山名政豊が、領国の但馬へと戻りました。

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山名政豊(やまなまさとよ)は、あの応仁の乱での西軍の大将だった山名宗全(そうぜん=持豊)の孫(一説には息子)で、その宗全と東軍の大将=細川勝元(かつもと)亡き後に(3月18日参照>>)、勝元の息子である細川政元(まさもと)と和睦交渉し、応仁の乱を終わらせた人です。

ご存じのように、応仁の乱は、応仁元年(1467年)から約10年に渡って、日本全国の大名を巻き込みつつ、東西真っ二つに分けて行われた日本史上屈指の大戦です。

この応仁の乱を「戦国の幕開け」と位置づける場合もありますが、すでに皆様お解りのように、戦国なる動乱は、一つの出来事から幕が上がるわけではなく、様々な事が複雑に絡み合い、お互いに影響を与えながらそうなって行く物・・・

また、それぞれの出来事の中で、何に重きを置き、何が1番と考えるかは、人それぞれで、それこそ、何年経っても100%の正解は出ない物ではありますが、私個人的には、やはり、この応仁の乱・・・いや応仁の乱そのものというよりも、応仁の乱が与えた影響が最も大きいような気がします。

というのも、この応仁の乱が始まってまもなくの頃は、東西両者が活発に合戦しあいながらも、将軍家の下に管領家があり、さらに守護大名が・・・という序列の構図が、まだ残っていたように思うのです。

ところが、なかなか収拾がつかない戦いを繰り返す中で(3月21日参照>>)、東西両軍の頂く将軍が入れ替わったりして、最初の目的自体がウヤムヤなり、落とし所を失くしたダルダルの戦いがただ長引く中、そんな戦いを終わらせる事すらできない上層部の権威は失墜・・・

なんせ・・・
東西の大将だった勝元と宗全が、ともに亡くなるのが文明五年(1473年)・・・
その息子の政元と孫の政豊の間で和睦が成立したのが文明六年(1474年)・・・

しかし、それでも戦いを止めない畠山氏を、将軍・足利義政の妻・日野富子がお金で説き伏せ、最後までゴネまくった周防(山口県)の守護大名・大内政弘に官位を与えて、やっとこさ・・・その政弘が領国に帰国する文明九年(1477年)11月11日を以って、応仁の乱の終結となるのです(11月11日参照>>)

上が刀を収めようとしても、いっこうに収まらない・・・この経過を見るだけで、もはや将軍家の権威もへったくれも無くなってしまった事がわかります。

さらに、そんな守護大名にまで影響が・・・

これまでは、守護大名は将軍のお膝元である京都に行ったり来たりしながら、留守の間の領国経営は守護代がしっかりこなすというのが普通だったのが、この応仁の乱で守護大名が長期間京都に滞在してる間に力をつけた守護代や土豪(どごう=地元に根付いた武士)が、領主に取って代わろうとする動きが出始めて来る・・・まさに戦国の世に突入するわけです。

Dscn6406a800
京都西陣にある山名邸跡…くわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「応仁の乱ゆかりの地を訪ねて」でどうぞ>>

・・・で、今回の山名政豊・・・文明十一年(1479年)閏9月4日に、領国である但馬(兵庫県北部)へ戻るべく、京都を発つわけですが、彼の帰国理由が、まさにソレでした。

それこそ、時の将軍・足利義尚(よしひさ=義政と富子の息子)
「今、京都を留守にされては困るんやけど…」
と、彼の京都滞在を懇願するのですが、それを振り切っての帰国・・・

実は、その時、一族の山名豊時(とよとき)の治める因幡(鳥取県東部)反乱が起きていたのです。

その反乱をウラで扇動していたのが赤松政則(あかまつまさのり)・・・

実は、山名と赤松には深い因縁があります。

それは嘉吉元年(1441年)6月24日に起こった嘉吉(かきつ)の乱(6月24日参照>>)・・・

当時、播磨(はりま=兵庫県南西部)備前(びぜん=岡山県東部)美作(みまさか=岡山県東北部)の守護だった赤松満祐(あかまつみつすけ)が、独裁的な恐怖政治を行う第6代室町幕府将軍=足利義教(よしのり)に、まさしく恐怖を抱き、自宅に招いて、酒宴の最中に殺害してしまうという暴挙に出てしまうのです。

当然ですが、明かなる謀反なので、諸大名による討伐軍が組織され、追い詰められた満祐は自害・・・その討伐軍の1人だったのが、かの山名宗全で、その領地の多くが山名氏の物となったのです。

今回の政則は、満祐の弟の孫・・・しかも、この頃には細川勝元の娘を継室(けいしつ=正室が亡くなった後に正室となった人)に迎えています。

嘉吉の乱で、事実上、滅亡していた赤松氏でしたが、事件後に生まれた政則が、管領の細川家に巧みに近づき、さらに、以前に、後南朝側(後南朝については後亀山天皇のページ参照>>)に持ち去られていた三種の神器の一つ=八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を、長禄二年(1458年)に奪い返した功績により赤松氏の再興を許され加賀(石川県)北半国の守護大名として復帰していたのです。

そんな赤松政則が、応仁の乱後、旧領の播磨をはじめ山陽地方一帯に勢力を回復しつつ、積年の恨みのある山名をターゲットに・・・因幡の反乱も画策していたというワケです。

山名VS赤松・・・この両者の戦いは、この後、玉松城(別名:金川城=岡山県岡山市)城主の松田元成(もとなり)を巻き込んで、激烈を極める事になりますが、そのうちの一つである福岡合戦については12月13日【会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦】>>でご覧いただく事にして・・・

専門家の方の中には、この山名VS赤松の戦いが、「日本で最も早く出現した戦国時代」と称される方もおられ、やはり、戦国の幕開けという感じがします。
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2012年9月 3日 (月)

ホタル大名・京極高次の関ヶ原…一世一代の決断

 

慶長五年(1600年)9月3日、反転した京極高次が居城の大津城へと帰還しました。

・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)と言えば、もうお解り・・・関ヶ原ですね。

くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で全体像を把握していただくとして、ちょうどここらあたりの重要な出来事をつまんでみますと・・・

会津征伐に向かった徳川家康の留守を見計らって挙兵した石田三成が、伏見城の攻撃を開始したのが7月19日・・・(7月19日参照>>)

その三成の攻撃を知った家康が、小山の陣にて上杉の討伐を取りやめて西へと戻る事にしたのが7月25日・・・(7月25日参照>>)

そして、その小山評定で家康=東軍に属する事を決定した諸大名の先発隊が、東海道を進み・・・8月11日には岡崎城に入り(8月11日参照>>)8月22日には岐阜城を陥落させ(8月22日参照>>)ました。

一方の三成=西軍は、8月1日に伏見城を落城させ(8月1日参照>>)た後、8月10日には三成らが大垣城に着陣(8月10日参照>>)8月25日には、別働隊が伊勢安濃津城を開城させました(8月25日参照>>)

また、家康の別働隊として東山道を西に向かった徳川秀忠隊は、9月2日から、真田昌幸(まさゆき)の籠る上田城攻防戦に入っています(9月2日参照>>)

そんな中で、本日の主役=京極高次(きょうごくたかつぐ)さん・・・すでにブログにも何度か登場していますが、

そもそもは、鎌倉時代の昔より近江(滋賀県)周辺の守護を務める名門だった京極家が、戦国下剋上の世の中で浅井家に取って変わられ(3月9日参照>>)、高次が家を継ぐ頃には、すっかり没落街道まっしぐら・・・

しかも、運が悪いのか見極める能力が無いのか・・・あの本能寺の変ではキッチリ明智光秀に味方してしまった事で、やむなく、織田家の重臣である柴田勝家のところに身を寄せますが、これまたご存じのように賤ヶ岳の戦いで勝家が敗北(4月23日参照>>)・・・

行くとこ行くとこが負けてピンチの連続の高次さんですが・・・いや、思えば、これだけのピンチを、無事にくぐりぬけられるのは、逆に運が強いのか???

その運の強さの最大が、姉(もしくは妹)京極龍子メッチャ美人だった事・・・この美人の姉ちゃんを見染めたスケベ・・・いや、豊臣秀吉が、彼女を側室に迎えた事で、命助かるどころか、近江(滋賀県)の地に25000石もの領地まで・・・

しかも、この時期に秀吉の庇護のもとにあった浅井三姉妹の1人=結婚する事に・・・

昨年の大河でもご存じのように、この初さんの姉は秀吉の側室で秀頼の母=淀殿(茶々)で、妹は徳川秀忠の奥さん=(ごう・江与)です。

豊臣政権下では、まさにVIP・・・おかげで、姉と嫁の七光で出世する=ホタル大名なんてニックネームも付けられちゃいますが、琵琶湖で陸揚げされた物資が一手に集まる交通の要所=大津の城を任されるという大役もいただいちゃいました。

・・・で、そんな中での今回の関ヶ原に向けての出来事の数々・・・

この時の高次は、挙兵した三成の要請を受けて、北国街道を北に向かっていました。

それは、三成とともに西軍の主力となっている大谷吉継(おおたによしつぐ)(7月11日参照>>)・・・以前、書かせていただいたように、三成から最初に挙兵の相談を受けた吉継は、すぐに居城の敦賀城に帰還して北陸の諸将を西軍に勧誘すべく動いていたわけですが(7月14日参照>>)、その前に立ちはだかったのが、あの加賀(石川県)前田利長(としなが)・・・

8月8日加賀浅井畷(あさいなわて)の戦いでのかろうじての勝利も含め(8月8日参照>>)北陸の西軍に対抗する形となっている利長を攻める要員として、高次は、北国街道を北へ向かっていたのです。

そんな中、今度は吉継からの要請が飛び込んできます。

Sizugatake21bcc それは・・・(ちょうど昨日ご紹介した)余呉湖の北東に差し掛かった東野山のあたり・・・(昨日もご紹介した賤ヶ岳の合戦の図が、位置関係の参考になると思います→)

その内容は・・・
「これから、僕は美濃(岐阜県)に向かうので、君も来てネ!」

そう、先にご紹介した8月22日の岐阜城の陥落です。

このニュースを受けた西軍・・・意外に早く家康の先発隊が西に戻って来ている事に驚き、「これ以上近づけてはならぬ」とばかりに、吉継や高次を、美濃の関ヶ原のあたりに向かわせようとしたわけです。

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・・・・
・・・・っと、ここで余白を開けたのは、おそらく、高次自身が、この決断をするのに、少々の時間がかかったのではないか?と思い・・・

そうなんです。
ここで、高次は、今まで西軍=三成の要請で北国街道を北へ向かっていた軍を反転させ、家康=東軍につく決意をしたのです。

Dscf1640a900 余呉湖…南側から北方向です。。。
高次も、この景色を見ながら決断したのかなぁ(*^.^*)

思えば、周囲のゴタゴタに翻弄され、姉と嫁の七光でここまで生きて来た男が、おそらくは姉にも嫁にも相談せずに決めた一世一代の決断・・・

とは言え、ただ逆戻りすれば良いというものではありません。

なんせ、岐阜城までやって来た東軍を、「これ以上近づけてはならぬ」なわけですから、逆に今いる場所は西軍だらけ・・・なので、誰にも気づかれず、誰にも追いつかれず、居城の大津まで戻らねばなりません。

考えに考え抜いたた高次・・・琵琶湖の北岸に位置する塩津へと向かい、そこから船にて大津を目指しました。

琵琶湖を渡る風をはらみながら、時に大きく、時に小さく揺れる船の中で、高次は何を思いながら大津に向かったのか・・・おそらく、その胸中には、大きな不安と大きな希望と大きな闘志が渦巻いていた事でしょう。

なんか、今日はカッコイイぞ!ホタル高次!

かくして慶長五年(1600年)9月3日大津城に帰還した高次・・・

この先、彼の寝返りを聞きつけた西軍の誰かが、その刃を向けて来るに違いありません。

大いなる籠城戦が始まろうとしていますが、そのお話は9月7日のページでどうぞ>>
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2012年9月 2日 (日)

余呉の羽衣伝説

 

実は旅に出ておりました~~ って事で、本日は、撮って来た写真とともに、湖北は余呉湖に伝わる羽衣伝説をご紹介します。

Dscf1695a800 賤ヶ岳山頂から見下ろした余呉湖

余呉湖は、滋賀県長浜市にある湖で、日本一大きな琵琶湖の北東に位置しています。

正式には余呉湖と書いて「よごのうみ」と読みます。

天正十一年(1583年)4月21日には、亡き織田信長の後継をめぐって、羽柴(後の豊臣)秀吉柴田勝家が雌雄を決した賤ヶ岳の戦い(4月21日参照>>)の舞台となったところ・・・
Sizugatake21bcc 以前upした賤ヶ岳の合戦のページの図→をご覧いただければ一目瞭然ですが、この合戦は、まさに余呉湖の周りを囲むように展開されました

そんな血生臭い戦国とはうらはらに、一方で残る羽衣伝説は、やはり、その余呉湖の美しさに魅せられた天女が舞い降りるというもの・・・

内容は、全国に残る羽衣伝説と良く似た王道を行くものですが、実は、この余呉湖の羽衣伝説が日本最古(近江風土記に登場)の伝説なのです。

・‥…━━━☆

昔、余呉湖のそばの川並という村に伊香刀美(いかとみ)もしくは桐畑太夫という漁師が住んでしました。

もともと、腕の良い漁師でしたが、その日は、ことのほか大きな魚を網に捕えて大喜び・・・しかし、大漁に喜んで、とりあえず休憩しようと、舟を岸に近づけて気を許したすきに、魚はピョンっとはねて、再び湖の中へ・・・

「なんや、ついてないなぁ」
と、苦笑いしながら、そばにあった柳の木を見上げると、枝の先の方に五色に光輝く、美しい羽衣が掛けてある・・・

あまりの美しさに、ちょっとした出来ごころで、その羽衣を手に取り、網に巻きつけて持って帰ろうとする男・・・

しばらく歩いて行くと、道端で美しい娘がしくしく泣いています。

「どないしはったんですか?」
と、男が聞くと

「私は天に住まう者ですが、余呉湖の美しさに魅せられて、毎年、年に一度だけ天から降りて来て水浴びをしているんですが、さっき、柳の木に掛けておいたはずの羽衣が、いつの間にかなくなってますのや。
日が西に傾けば天へ帰らねばなりませんが、あれが無いと帰れませんねや。
どうか、網の中の羽衣をお返しください」

「知ってたんかい!」
と思いつつ、まだ、出来ごころ止まぬ男・・・

「帰られへんねやったら、俺の嫁さんになってぇや」
と、鬼畜のごとき発言をのたまう彼・・・

「天の者が地上で夫婦などなれませぬ~~お返しください」
と、強引に取ろうとしますが、男の太い腕に阻まれ、天女は泣く泣く、嫁になる事を承諾・・・(って、昔話とは言え、DVはなはだしい内容やな(# ゚Д゚) )

やがて、二人の間には玉のような男の子が生まれますが、そんなこんなのある日・・・天女が子供に添い寝をしながら、うつらうつらしていると、どこからともなく子守唄が聞こえて来ます。

♪いましの母は天女様 お星の国の天女様 ♪
♪いましの母の羽衣は 千束千把の藁
(ワラ)の下♪

ハッと気づいた天女は、裏庭に積んであるワラの下を手で探ります。

すると・・・
「あったわ!やれうれしや、わが羽衣!!」

んで羽衣を身にまとった天女は、空高く舞い上がり、天へと帰っていきました。

・‥…━━━☆

・・・で、余呉湖の羽衣伝説では、主人公の伊香刀美が、近くにある伊香具(いかぐ・いかご)神社(長浜市木之本町)の祭神である伊香津臣命(いかつおみのみこと)の事とされ、生まれた子供が、後に、この地方の有力豪族となる伊香氏の祖先であるというのが一般的ですが、

一方で、昔話として口伝えで残っている物語では、主人公の男は桐畑太夫という名前で、残された子供が母恋しさに毎日泣いていたところ、その泣き声が法華経に似ているとして近くの菅山寺の僧に引き取られた後、その優秀さを見込んだ貴族・菅原是善(すがわらのこれよし)に養子として引き取られ、なんと、あの菅原道真になったという話になっています。

Dscf1628pa1000 現在は人口の導水路が造られた余呉湖ですが、もともとは3万年前に閉鎖となった独立湖…ゆえに波がほとんど立たず、別名:鏡湖とも呼ばれます

ところで、羽衣伝説のほとんどがそうですが・・・
天女をムリヤリ嫁さんにする男も男ですが、生まれた子供という存在があるにも関わらず、ちゅうちょせず天女が帰ってしまうところが、個人的にはちょっと悲しいんですが・・・

実は、これには一つの説があります。

余呉湖の周辺は、古代より大陸とのつながりが強く、多くの渡来人が住んだと言われ、近くには新羅崎神社(現在は跡のみ)という名前の神社があったり、今も長浜市にある鉛練比古(えれひこ)神社の祭神の天日槍神(あめのひぼこのかみ)垂仁天皇の時代に渡来した新羅の王子だとされています。

もちろん、全国的によく知られている羽衣伝説の舞台=三保松原のあたりも、渡来人との関係が深い土地とされ、そのような土地に羽衣伝説が伝わっている事が多いのです。

つまり、遠く異国からやって来た渡来人の女性たち・・・姿や立ち居振る舞いが少し違う彼女たちを、地元の男たちは天女のごとく愛し、ともに暮らしていたものの、何らかの事情で、幼い子供を残して帰国しなければならなかった・・・あるいは、故郷に行ったまま、日本に戻れなくなったというような出来事があったのではないか?
という事・・・

それが、いつしか、羽衣伝説として語り継がれるようになったのではないでしょうか。

慣れない異国で、体調を崩して亡くなってしまう女性も多くいたのかも知れません。

でないと、例え天女と言えど、母たる者、自分の意思で可愛い子供を残して去って行ってしまうという事は無い気がしますね。

羽衣伝説は、美しいというよりは、悲しいお話だったのかも知れません。
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