長州動乱…周布政之助の自殺
元治元年(1864年)9月26日、長州藩士の周布政之助が喉を掻き切って自殺しました。
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まさに幕末の動乱ですね・・・
昨日、ご紹介させていただいた井上聞多(いのうえぶんた=志道聞多・後の井上馨)の襲撃事件(9月25日参照>>)の、その翌日・・・いや、0時を過ぎて日づけが変わっただけの同じ夜の出来事です。
そもそも、江戸幕府の体制にもグラつきが出始めていた事で、様々なテコ入れが行われた天保の改革(1841年~1843年)・・・
この時、長州藩でも天保の改革が行われますが、それは、農村支配の強化を主張する村田清風(むらたせいふう)派と、商業を重点に置いた政策を主張する坪井九右衛門(つぼいくえもん)派という二つの派閥を生む事になりました。
一方の坪井派には祐筆(ゆうひつ=秘書役)の椋梨藤太(むくなしとうた)(5月28日参照>>)がいましたが、そんな中、弘化四年(1847年)に藤太の添え役として抜擢されたのが政之助です。
これは対立している派閥同志が協力してやって行こうという融和政策・・・つまりは連立与党みたいな感じかな??
しかし、この派閥は、嘉永六年(1853年)に、あのペリー来航があってからは、ソックリそのまま、村田派=幕府上等!尊王攘夷まっしぐらの革新派と、坪井派=幕府に従っておとなしくの保守派に分かれ、この両者がバランスを取りながら、幕末の長州藩を運営していく事になります。
(実際にはこんなに単純ではありませんが、あまりややこしくなっても、お話し難いので…ご了承ください)
とは言え、もともと正反対の考えを持つ派閥同志ですから、しだいに人脈を通じての政策も対立するばかりで、やがてはお互いを憎しみ合うまでになり、両派の間で政権が交代するたびに長州藩の姿勢も変わり、中心になる人物も入れ換わるという状況になるのです。
椋梨藤太さんのページにも書かせていただきましたが、もともと上記の通り、あくまで藤太の添え役だった政之助だったのが、安政二年(1855年)には藤太が罷免され、代わりに政之助が政務の筆頭となりますが、吉田松陰(しょういん)が密航に失敗して捕まった翌年の安政二年(1855年)には政之助が罷免され、藤太が祐筆に返り咲き・・・しかし、安政五年(1858年)には、また政之助が政務役に復活し・・・とめまぐるしく変わる中、
文久元年(1861年)に、長州藩内で知弁第一の秀才とうたわれた長井雅楽(うた)が『航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)』を発表した事で、世が公武合体(朝廷と幕府が協力)に傾く中で、長州藩の方針も保守派中心となるのですが、それに反対する革新派によって雅楽が自刃に追い込まれた(2月6日参照>>)文久三年(1863年)、ご存じの長州藩による下関の砲撃事件(5月10日参照>>)によって、またまた、長州藩は革新派が仕切る事になります。
ところが、その3ヶ月後に八月十八日の政変(8月18日参照>>)が起きて長州藩は中央政界から追い出され、その不満をぶちまけるべく発進した禁門(きんもん・蛤御門)の変(7月19日参照>>)で、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家の敵)となる・・・と、まるで、昨日と同じ事を書いてしまいましたが、同じ背景なのでお許しを・・・
とにかく、昨日もお話したように、こうして長州は、国家を相手に戦わねばならない立場となったわけですが・・・
その幕府の長州征伐を受けて立つのか?
それとも、恭順な態度を見せて戦いを回避するのか?
が話し合われた9月25日の御前会議の席で、革新派の井上聞多が気勢を挙げ、一旦、藩の方針は「幕府との抗戦」となるのですが、その帰り道に、聞多が保守派の刺客に襲撃される・・・
この時、山口矢原(山口県山口市幸町)の大庄屋・吉富藤兵衛(よしとみとうべえ・簡一)の屋敷を仮住まいとしていた政之助・・・実は、本来なら、彼も会議に出席せねばならない立場なのですが、なぜか会議をサボり、屋敷でふさぎ込んでいたと言います。
そんな時に飛び込んできたのが、「聞多・襲撃さる」のニュース・・・
聞多とも親交があった藤兵衛はあわててお見舞いに駆けつけるのですが、藤兵衛が目を離したその間に事件は起こります。
もちろん、ここのところの様子に、何となく、そんな雰囲気を感じていた藤兵衛は、家人にも、彼をしっかり見張るように申しつけており、本人の刀も取り上げて隠していました。
そう、実は政之助は、あまりの政変の激しさ、革新派の先頭として行った攘夷行動が招いた藩の危機への責任感、保守派が強くなる中の身の置き所の無さ、などなど・・・それらが重く圧し掛かっていて、ノイローゼ気味になり、ここ何日間か、うわごとのように死を口にしていたというのです。
重臣でありながら、その日の会議に出席しなかったのもそのため・・・
しかし、藤兵衛が出かけてからしばらくして、政之助が
「外の空気を吸いたい」
と言ったので、藤兵衛の奥さんが付き添って庭に出たところ、
その目の前で立ったまま、懐に持っていた短刀で首を掻き切って自殺したのです。
藤兵衛が戻って来たのは、その直後でした。
元治元年(1864年)9月26日・・・享年42歳。
まだまだやれる、惜しまれる人材でした。
ただ一つ救いがあるとすれば、政之助の訃報を聞いた高杉晋作(たかすぎしんさく)が、潜伏先の福岡から急いで帰国した事・・・もしかして、この政之助の死が、高杉を奮いたたせて、あの功山寺のクーデター(12月16日参照>>)につながるのだとしたら、彼の死も無駄では無かった事になります。
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コメント
幕末からの長州藩の混乱は、ずっと続くんですね。今の世の中は平和すぎます。
投稿: やぶひび | 2012年10月 1日 (月) 13時36分
やぶひびさん、こんばんは~
幕末は毎日のように、何かが起こりますね。
本当に、この時代の人々には感謝です。
投稿: 茶々 | 2012年10月 1日 (月) 22時18分