勤皇の志士のカリスマ~梅田雲浜・獄中死
安政六年(1859年)9月14日、安政の大獄の2人目の逮捕者となった梅田雲浜が、獄中で病死しました。
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梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)は、若狭小浜藩(福井県小浜市)の藩士の子として生まれ、藩校で学んだ後、山崎闇斎(あんさい)の提唱した崎門学(きもんがく・闇斎学とも…朱子学に闇斎の思想をプラスした学問)を学んだ崎門学派の儒学者です。
その知識を活かして大津にて塾を開いたり、京都にある藩塾の講師をしたりしていましたが、度々の建言での歯に衣着せぬ物言いが藩主の酒井忠義(ただあき)にうっとぉしがられ、嘉永五年(1852年)=38歳の時に、藩士の籍をはく奪されてしまいます。
しかし、その翌年に、あのペリーの黒船来航です(6月3日参照>>)。
にわかに盛り上がる尊王攘夷論(そんのうじょうい=天皇を敬い外国を排除する思想)の中で、彼の、自信たっぷりで歯に衣着せぬ物言いが共感を呼び、論客として頭角をあらわしていくのです。
「僕之如き天下之事情に通じ、至る処として天下之人心を動かす者、世に幾人ぞや」・・・
これは、安政元年(1854年)にロシア艦隊が大阪湾にやって来た時の雲浜の言葉だそうですが、ものすンごい自信たっぷりw(゚o゚)w・・・
しかも、雲浜は、尊王攘夷論を先頭にたって論ずるものの、具体的に何をするという細かな事は語らない・・・
実際に攘夷を決行するとしたら、どこそこで何をするという一つ一つの目標を立て、仲間とともにそれらを実現しながら、最終的な大きな目標達成に向かって動く必要があり、その間は、何が何でもその身を守り、幕府に逮捕される事ないよう行動せねばならないわけですが、雲浜には、そういうところが、あまり見られないのです。
同志とともに反幕府活動をしていく中で、雲浜は、梁川星巌(やながわせいがん)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)・池内大学とともに、「悪謀四天王(あくぼうしてんのう)」と称されて、幕府から手配される事になりますが、安政五年(1858年)の9月6日には、
「もうすぐ、捕まるかも知れへんので、お別れの挨拶に来たで~」
と、日頃から、何かとお世話になっている長州藩の京屋敷にやって来たと言います。
果たして、その翌日の9月7日の夜(8日とも)に、伏見奉行所の役人によって、雲浜は逮捕されるのですが、その場所も、逃げも隠れもしない自宅・・・
しかも、逮捕時に、篭に乗せようとした役人に向かって
「僕は、国家のために尽力してんのであって、天地に誓って恥ずかしい事はして無いんで、このままの姿で夜露死苦!」
と言って、縄を打たれたままの姿でひっ立てられて行ったのだとか・・・
また、取り調べの際にも、役人の質問にはまったく答えず、ニコニコ笑いながら、尊王攘夷論を説き、獄中でも、向かいの牢に入っている者に向かって大声で
「なぁ、なぁ、話しようや!」
と言って、自らの大義名分を高らかに語っていたと言います。
なにやら、尊王攘夷を実現する事よりも、精神世界を貫く事を目標にしていたかに見える雲浜・・・しかし、これが、彼をカリスマ的存在に推しあげるのです。
これらの雲浜の話は、後々の志士たちに語り継がれていく話なので、どこまでが、本当の事かは証明し難いですが、捕らわれる事を恐れず、いずれ死刑になる身でありながらも自論を展開する姿が、それを伝え聞いた勤皇の志士たちには神の如く映ったに違いなかったのです。
やがて、取り調べのために江戸に護送された雲浜は、小笠原忠嘉(ただひろ=小倉藩主)邸の預かりとなりますが、翌・安政六年(1859年)の8月半ば頃から、体調を崩しはじめます。
最初、普通の風邪と思われていたのが、徐々に足がむくみはじめ、足のむくみが腰まで達し、脚気(かっけ)と診断されます。
「足部之腫気少々相減じ候得共、胸膈(きょうかく=胸と腹の間・胸)之水気 兎角(とかく)相減ぜず」
と、8月26日の幕府の記録にあり、かなり悪くなっていた事が伺えます。
やがて11日に「元気衰え」、12日には「危篤状態」となり・・・
その2日後の安政六年(1859年)9月14日、雲浜は、処分未定のまま、45歳の生涯を閉じたのです。
♪君が代を おもふ心の 一筋に
我が身ありとも 思はざりけり ♪ 雲浜:辞世
捕まろうが死のうが、その精神を貫く事こそ理想としたとおぼしき雲浜・・・おそらくは、捕縛された時に、すでに死を覚悟していたはず・・・
彼としては、最後の最後に、刑場で死ねなかった事こそが、1番の心残りだったかも知れません。
ちなみに雲浜とともに安政の大獄での逮捕者・第1号となった赤禰武人(あかねたけと=赤根武人)は、この後、奇兵隊の第3代総監として活躍するのですが、そのお話は【幕末に散った奇兵隊・第3代総監…赤禰武人の無念】でどうぞ>>
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コメント
う~んどうでしょう?この雲浜て人は取り調べの時に、松陰に罪(間部老中暗殺計画だっけ?)をおっ被せて結果
「松陰処刑」
に追い込まれた…ような部分が有るんでね、私はあまり好きじゃないのよね。
投稿: 高槻晋作 | 2015年4月 9日 (木) 21時04分
高槻晋作さん、こんばんは~
>松陰に罪をおっ被せて…
う~~ん??
どうでしょうねぇ?
確かに松陰は、雲浜関連で芋づる式に召喚されますが、その時点では「雲浜との共謀」の容疑だけであって、松陰が何も言わなければ無罪になるはずだったのが、取調官相手に幕政批判や外交に関する自論を展開していく中で、思わず、問わず語りの独り言のように、老中襲撃未遂や雲浜奪還計画を自白しちゃったために死刑に追い込まれたんじゃ無かったでしたっけ?
例え雲浜が罪をおっ被せようとしたとしても、松陰が自白せずに知らぬ存ぜぬで押し通していたなら、その後の展開も変わっていたんじゃないかと…
まぁ、このページは雲浜さん主役なので、ちょっぴりカッコ良く書かせていただきましたが…
投稿: 茶々 | 2015年4月10日 (金) 03時43分
今年は生誕200年だそうですね。
大河ドラマ効果でしょうか?
昨日は「幕末維新祭り」に行っていました。
10/27の松陰忌にちなんで。
墓前祭って感じでなくて、お祭り。
投稿: やぶひび | 2015年10月27日 (火) 20時52分
やぶひびさん、こんばんは~
う~ん(´-`)
ご命日に祭りは複雑と言えば複雑ですが、天神様の道真公と同様に、神と祭られる松陰さんなら、それもアリかも知れませんね。
なかなか難しいところですが…
投稿: 茶々 | 2015年10月28日 (水) 02時53分