関東支配をめぐって…古河公方・足利成氏の波乱万丈
明応六年(1497年)9月30日、第4代鎌倉公方・足利持氏の遺児で、初代・古河公方を名乗る足利成氏が64歳の生涯を閉じました。
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ご存じ、初代・室町幕府将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)は、自らの地元が関東であるにも関わらず、南北朝動乱(10月27日参照>>)の不安定さもあって、京都の室町にて幕府を開く事になります(8月11日参照>>)。
つまり、将軍は地元を離れて、京都にて政務をとらねばならないわけで・・・
って事で、将軍職は、尊氏の嫡男の足利義詮(よしあきら)が2代将軍となって、その後は、その義詮の血筋が代々将軍職を継ぐ事とし、関東の支配には、鎌倉公方という役職を設けて、尊氏の四男(義詮の弟)である足利基氏(もとうじ)を配置して、その支配に当たらせ、以後、この役職は基氏の血筋が代々継いでいくわけです(9月19日参照>>)。
ところが、お察しの通り・・・徒歩&馬以外の交通手段の無いこの時代では、京都と関東は意外に遠く、徐々に、関東では公方こそトップ・・・中央の将軍とは距離を置く独立国家のような雰囲気になって来ます。
それが頂点に達したのが、第4代鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)でした。
持氏は、第5代将軍・足利義量(よしかず)が病死した時に、次の将軍の候補にもなった人でしたが(1月18日参照>>)、その時には、例のくじ引きで第6代将軍は足利義教(よしのり)に決まったという経緯もあり、また、その義教が、けっこう強引な恐怖政治をやった人だった事もあり・・・で不満を募らせていったようで・・・
結局、中央政府で元号が変わっても、そのまま以前の元号を使い続けたり、鎌倉五山の住職も、中央への相談無しに勝手に決めるなど・・・強引であからさまな反発をしはじめます。
さらに、もともと鎌倉公方を補佐するために置かれておた役職=関東管領(かんとうかんれい)とも対立します。
この時に関東管領を務めていたのは上杉憲実(うえすぎのりざね)という人物ですが、彼が持氏の行動を諫めたところ、聞く耳持たないどころか、逆に暗殺計画があるなどの噂がたち、恐ろしくなった憲実は関東管領を辞職したりなんぞしてます。
てな事で、もはや誰も止める事ができなくなった強引と強引のぶつかり合い・・・
義教は、朝廷から持氏追討の綸旨(りんじ=天皇の意を受けて朝廷が発給する命令書)を受けて朝敵(ちょうてき=国家の敵)となった持氏を攻め、永享十一年(1439年)2月10日、持氏は自害(2018年2月10日参照>>)・・・嫡子の義久(よしひさ)も死に、さらに持氏の遺児である春王&安王も殺害されました(2007年2月10日参照>>)。
長~い前置きになってしまいましたが、この持氏の息子が足利成氏(あしかがしげうじ)です。
なんせ、上記の通り、戦乱の中で父が自害し、春王&安王という二人の兄が処刑されてますし、長兄の義久に至っては、自害したのか討死したのかも複数の説があるくらい混乱してますから・・・なので、冒頭で「64歳の生涯を…」と書かせていただきましたが、これも一般的に言われている年齢で、実際、その年齢だったかどうかは不明なのです。
一説には、春王&安王とともに、さらに下の、当時4歳だった弟が捕縛され、京都に運ばれる予定だったのが、例の嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)で将軍・義教が暗殺された事で、処刑が実行されなかった・・・その子が成氏という話・・・
また、信濃(長野県)の大井氏にかくまわれて育ったという話もありますが、もともと、春王&安王の下には男子が二人いたという話が定説となっていますので、どちらかが成氏で、どちらかが、その弟(若宮別当蓮華光院の尊敒という人らしい)であろうという見解は一致していて、成氏が持氏の遺児という事は、間違いがないようです。
とにかく、こうして、1度は滅亡した鎌倉公方ですが、先に書いた嘉吉の乱で、ちょっと状況が変わってきます。
周囲から見れば
「まぁ、義教はんも強引過ぎたよって持氏はんが反発するのもワカランでもない」
てな感じだったのでしょうか・・・義教が亡くなってまもなく、鎌倉公方復活の気運が高まって来るのです。
やがて成氏は、信濃から呼び戻されて第5代・鎌倉公方となり、その補佐役の関東管領には上杉憲忠(のりただ=憲実の嫡男)が就任します。
そうです、この頃、成氏は未だ10歳前後の少年・・・憲忠をはじめとする周囲のとりまきの武将にとって、自分たちが自由に操れる鎌倉公方がいてくれた方が都合が良いワケです。
しかし、事は、そう簡単にいきません。
こういう背景を持って成長した成氏が、父の遺志を心に秘めて大きくなる事は明らかで、何となく緊張感の解けない再スタート・・・
案の定、公方復活から数年経った宝徳二年(1450年)、上杉家の家宰(かさい=江戸時代の家老みたいな役職)である長尾景仲(かげかね)と太田資清(すけきよ=道心)が成氏を襲撃するという事件が起きます。
この時、江の島に避難して大事に至らなかった成氏ですが、当然の事ながら、上杉との距離感はますます離れる事となり、とうとう、享徳三年(1454年)、成氏は、自らの御所に憲忠を呼び寄せて殺害・・・さらに景仲&資清を追って、鎌倉を進発します。
一方、このニュースを聞いた中央の幕府が、上杉側を支援する事を決定し、朝廷から成氏追討の綸旨を得た事で、成氏は朝敵となってしまいます。
そのため、もはや鎌倉に戻る事ができなくなってしまい、鎌倉を放棄して、これ以降は、下総古河(こが=茨城県古河市)を本拠地とする事となり、ここから、成氏は初代・古河公方となって各地を転戦するのですが、
当然、この古河公方は、幕府の認める正式な公方では無いため、幕府は、時の将軍=第8代足利義政(よしまさ)の異母兄=足利政知(まさとも)を、新たな鎌倉公方といて派遣しますが、もはや戦場と化してグッチャングッチャンになってる状態で、その政知も鎌倉に入れず、伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まったので、コチラは堀越公方(ほりこしくぼう・ほりごえくぼう)と呼ばれます。
こうして、
下野(しもつけ=栃木県)・常陸(ひたち=茨城県)・下総(しもうさ=千葉県北部)・上総(かずさ=千葉県中部)・安房(あわ=千葉県南部)を勢力範囲とする古河公方と、
上野(こうずけ=群馬県)・武蔵(むさし=東京都・埼玉県・神奈川県の一部)・相模(さがみ=神奈川県の南西部)・伊豆(いず=静岡県の伊豆半島部分)を勢力範囲とする堀越公方・・・
と、関東を東西に2分する勢力が、それぞれに味方する豪族たちとともに戦いを繰り広げていきます。
しばらくの間、一進一退の合戦を続けてした両者ですが、やがて文明九年(1477年)、長尾景春の乱(4月13日参照>>)が勃発します。
これ、先ほどの、上杉家の家宰の家系であった長尾家の景春(かげはる)が上杉家に対して行った反乱・・・そう、この頃になると、関東管領の上杉家の、同族同志のモメ事が表面化して、ソッチのほうが深刻になりかけていたのです。
この流れで、幕府とのモメ事に終止符を撃つ事になった成氏は、幕府と和睦し、その地位も承認され、晴れて正式な公方に返り咲いたのですが、そうなると、本来の正式な公方だった堀越公方は???
幕府の認める正式な公方が関東に並立・・・
しかも、それを補佐する上杉家はモメてる・・・
結局、関東の、この不安定な状態が改善されるのは、あの北条早雲(ほうじょうそううん)が登場(伊豆討ち入り10月11日参照>>)して・・・いや、この不安定な状態が、早雲ののし上がるチャンスを作ったと言えるかも知れません。
成氏自身は、結局、生涯鎌倉に戻る事はなく、早雲の堀越公方への討ち入りから6年後の明応六年(1497年)9月30日、古河にて、その生涯を閉じました。
・‥…━━━☆
本日は、ご命日という事で、成氏さんの生涯について書かせていただきましたが、あまりに波乱万丈すぎて、ものすごく大まかな感じになってしまいました。
ある意味、真っ先に戦国に突入した感のある関東支配の争奪戦・・・成氏さんの個々の戦での活躍については、また、いずれ、イロイロと調べ直しなどしつつ、ご紹介させていただけたらと思いますので、よろしくお願いします。
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コメント
上杉憲実が出てくるところで、諌められたのが持氏でなく成氏になってますよ
投稿: | 2018年2月11日 (日) 03時47分
あら、ホントだ!
よくぞ見つけて下さいました。
今夜も、昨日の記事に関連するページを、もう1度、誤字脱字無いか見直していたところなのですが、なんせ、鎌倉公方関連はページが多くて(;´Д`A ```
見逃してました~ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2018年2月11日 (日) 04時06分