大津城攻防戦~京極高次の関ヶ原
慶長五年(1600年)9月7日、京極高次の籠る大津城を囲んだ西軍諸将により、大津城への攻撃が開始されました。
・・・・・・・・・
慶長五年(1600年)、間もなく始まる関ヶ原・・・
9月1日に江戸を発った徳川家康が西上する中、東西両軍の諸将らが続々を美濃(岐阜県)に集まって来る頃・・・
(くわしい経緯は【関ヶ原の合戦の年表】>>で)
先日、お話させていただいたように、西軍の石田三成(みつなり)の要請で、琵琶湖畔の北国街道を北に向かっていた京極高次(きょうごくたかつぐ)は、美濃への転戦を要請された事をキッカケに、東軍=家康側に寝返る事を決意・・・
琵琶湖を縦断し、9月3日に、居城の大津城へと帰還しました(9月3日参照>>)。
早速、籠城のための作戦を練る高次ですが、おそらくは、この裏切りをヨシとせぬ西軍は、選りすぐられた精鋭を、この大津城への攻撃に派遣して来るに違い無く、わずか3000ほどの兵力と300挺ほどの鉄砲で、どれだけ抵抗できるものか・・・
もはや、城内は決死の覚悟の空気が流れていた事でしょう。
とは言え、以前から書かせていただいているように、高次の京極家は鎌倉の昔より、その名を馳せた名門・・・おそらくは、長年京極家に仕えた直属の家臣たちには、彼らなりの誇りが高く高くあったはず・・・
しかし、近頃は、おちぶれた名門(8月7日参照>>)として、どこの馬の骨ともわからぬ新参者にいいように翻弄され続けて来た中で、思えば、今回の籠城戦は、我が殿さまが自ら決断した、自分のための大いくさ・・・むしろ、この大一番で死ねる事は本望だと思っていたかも知れません。
9月6日、高次は、大津の城下町に住む住民を速やかに立ち退かせた後、城下に火をかけます。
これは、町を焼け野原にして、見晴らしを良くするため・・・敵の囲みが、どのような状況になっているかを城内から見渡せるようにするための苦汁の選択でした。
果たして、その翌日の慶長五年(1600年)9月7日・・・大津城下に現われたのは、主将の毛利元康(もうりもとやす=毛利輝元の陣代)と、その弟の小早川秀包(こばやかわひでかね)、さらに西国第一のキレ者とうたわれる立花宗茂(たちばなむねしげ)をはじめとする総勢3万8000余り(諸説あり)の大軍でした。
まもなく、攻撃が開始されます。
もちろん、一方では水面下での交渉の動きもありました。
高次籠城の一報を聞いて、まず、動いたのは、大坂城にいた淀殿・・・そう、彼女は、かつて北近江(滋賀県北部)を支配した浅井長政の遺児=浅井三姉妹の長女・茶々です。
籠る高次の嫁となっているのは、彼女の妹の初ですから、このまま、おとなしく戦況を見守る事なんて到底できません。
早速、北政所(きたのまんどころ=秀吉の正妻のおねさんです)に相談し、北政所付きの孝蔵主(こうぞうす)や饗庭局(あいばのつぼね)ら侍女たちを、交渉人として派遣するのです。
その名目は、大津城にいる松丸殿(まつのまるどの)の救出・・・松丸殿とは、高次の姉(もしくは妹)で、豊臣秀吉の側室となっていた京極龍子(たつこ)の事です。
この籠城戦には無関係の龍子を・・・という事ですが、その根底には大津城の開城と講和の意が含まれている事は明らかです。
しかし、使者たちがいくら説得しようとも、高次の決意は固く・・・というよりも、ここですんなり開城するんだったら、はなから籠城なんてしません。
それだけ確かな決意があるからこそ、北国街道をUターンして大津に戻って来たのですから・・・
もちろん、その決意は初も同じでした。
とは言え、もはや大軍に囲まれた大津城・・・しかも、徐々に攻撃は激烈さを極めていきます。
9月9日には大筒が登場して、西軍の本営である三井寺から大津城めがけて砲撃を開始・・・地震のごとく揺れ、響き渡る轟音に、かの松丸殿が気絶するという場面もありながら、やがて堅固な石垣に守られた城郭も、三の丸が崩れ二の丸が崩れ・・・見るも無残な姿に追い込まれていきます。
それでも、高次は降伏しないどころか、敵の攻撃を幾度も押し返し、毎夜のごとくゲリラ的夜襲を決行して大軍を翻弄します。
しかし、数の上では到底勝ち目の無い籠城戦・・・13日には、もはや本丸を残すのみの状況となってしまいました。
さらに14日には、再び、北政所からの使者が・・・ここに来て、高次はようやく開城を決意します。
彦根城・天守閣…実は、この彦根城の天守閣は、今回の大津城の天守を、関ヶ原後に移築したものなのです。
かくして、高次らが大津城を退去したのは、15日未明・・・そう、間もなく、かの関ヶ原では、天下分け目の戦いの幕が上がるのです。
開城後の高次は、それこそ、負け戦となった武将の責任を自らの一身に受ける覚悟を決めるのですが・・・
戦後処理も含めた、その後の高次さんのお話は9月20日のページで>>
本チャンの関ヶ原については9月15日のページで>>どうぞm(_ _)m
.
「 家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア(2023.11.25)
- 徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方(2023.08.22)
- 徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局(2023.06.12)
- 加賀百万石の基礎を築いた前田家家老・村井長頼(2022.10.26)
コメント
高次さん、大津城籠城戦を見ると蛍大名だなんて微塵も感じさせないです。
籠城戦は攻めてが10倍の兵力のときでも互角に戦えると、どこかで聞いたことがありますがそれを超える&精鋭ぞろいの敵でよくこれだけ戦ったなと。
ただ出来れば後一日持ちこたえられたらな、とも思ってしまいます。
そうしたら、もっと恩賞が多くなったんじゃないかななんて……
投稿: ティッキー | 2012年9月 9日 (日) 11時06分
ティッキーさん、こんにちは~
ホント、あと1日…でしたね。
しかし、おっしゃる通り、大した物です。
また、戦後処理の事を書くときににお話させていただきたいと思っていますが、西国一と言われる立花宗茂らを釘づけにした事は、高く評価されるべき事でしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年9月 9日 (日) 13時07分
大津城攻防戦では西軍というより 戦国きっての名将・立花宗茂を足止めした功績はもちろんのこと、毛利元康・秀包勢が参戦していたことに注目。
関ヶ原本戦ではついに動かなかった毛利勢ですが、元康・秀包らは反徳川の急先鋒でイケイケだったらしいですよ。彼らが関ヶ原にあって、毛利本隊の一部として積極的に戦端を開いていたら、二股膏薬の吉川、小早川らももはやこれまで、本家に追随せざるを得ず、西軍にとってははるかに面白い光景が見られたという意見があります。
という可能性まで考えると、高継さんの功績は本人が考えたよりも、権現様が評価したものよりも、はるかに巨大であったのかもしれませんね。時がたつと判らなくなる事実もあれば、逆に時がたたないと判らない事情もあります。
高継さんの無謀ともいうべき頑張りに、当代一流のプレイヤーが幾ら計算しても計算通りには決していかない、歴史の不思議さを感じます。
投稿: レッドバロン | 2012年9月10日 (月) 17時43分
レッドバロンさん、こんにちは~
>関ヶ原本戦ではついに動かなかった毛利勢ですが、元康・秀包らは反徳川の急先鋒でイケイケだったらしい…
そうなんですよね~
このブログでも関ヶ原後の毛利の話>>のところで書かせていただいてますが、「徳川と交した本戦で不参加の密約」を知っていたのは、密約を交わした吉川広家本人とその側近のみで、輝元も輝元の名代の秀元も知らなかったとされています。
秀元も、関ヶ原直後に大坂城に戻って、輝元に「大坂城にてもう一戦しよう」と言うくらいイケイケでしたからね~
元康と秀包が本戦に間に合っていたら、どうなっていた事か…
関ヶ原における大津籠城は、とても重要です。
投稿: 茶々 | 2012年9月11日 (火) 12時58分