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2012年9月20日 (木)

勲功1番の戦いぶり~京極高次の関ヶ原

 

慶長五年(1600年)9月20日、関ヶ原の合戦を勝利で終えた徳川家康が大津城に入城しました。

・・・・・・・・

ご存じ、関ヶ原の戦い・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に起こった豊臣家内の内紛に乗じて東軍の大将となった徳川家康(とくがわいえやす)と、西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)西軍総大将に掲げながらも、実質的に指揮をとっていた石田三成(いしだみつなり)の戦いは、おおかたの予想に反して、わずか半日で東軍の勝利となりました。

とは言え、関ヶ原の戦いは、関ヶ原で行われた本チャンの戦いのみではなく、その前後、あるいは同時進行で、様々な戦いが行われていたわけで・・・くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>

そんな中で、初めは西軍にくみし、三成から、「北陸で東軍として暴れまわっている加賀(石川県)前田利長(まえだとしなが)を討つべし」の要請を受けて、琵琶湖の東岸を北陸へ向かっていたはずが、途中で、「決戦間近の美濃(岐阜県)へ向かえ」の指示を受けた事をキッカケに、東軍へと寝返る事を決意し、居城の大津城へと戻ってしまったのが京極高次(きょうごくたかつく)でした(9月3日参照>>)

高次の奥さんは、あの浅井長政(あさいながまさ)お市の方(織田信長の妹もすくは姪)の間に生まれた浅井三姉妹の次女=・・・

この時、姉の淀殿(茶々・秀吉の側室)は息子の秀頼(ひでより)とともに大坂城にいて、妹の(ごう・江与)徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)の正室として江戸城にいるという微妙な立場・・

この時の初の思いが、どのような物であったかは記録に残っていませんが、これまで、秀吉に見染められた龍子(高次の姉もしくは妹)とええとこのお嬢さん嫁=初のおかげで出世した「ホタル大名」と嘲笑われて来た夫が、初めて自ら決断した一世一代の寝返り・・・この後の態度を見る限りでは、そんな決断をした夫とともに、死を覚悟しての籠城戦に挑んだものと思われます。

そうです・・・この寝返りは西軍にとって許し難き事・・・

西軍は、主将の毛利元康(もうりもとやす=毛利輝元の陣代)と、その弟の小早川秀包(こばやかわひでかね)、さらに西国第一のキレ者とうたわれる立花宗茂(たちばなむねしげ)をはじめとする精鋭を派遣して高次らが籠る大津城を取り囲み、総攻撃を開始したのです。

これが慶長五年(1600年)9月7日の事・・・

その後、淀殿や北政所(きたのまんどころ=秀吉の正室・おね)が、開城するように説得したりもしますが、高次も初も、ガンとして受け入れず・・・

しかし、1日、また1日と過ぎる中、西軍精鋭の猛攻撃に大津城は、もはやキズだらけ・・・

一説には、この時の高次には
「ワシがそっちへ行くまで、何とか持ちこたえておってくれ!」
という家康からの手紙が届いていたとも言われますが、本チャンの関ヶ原がまだ、始まっていない状況では、その「家康が来る」のが、いつの事だかもわからないわけですし・・・

やがて、本丸以外の場所をすべて落とされた大津城は、万事休す・・・万策尽きた高次は、9月14日西軍の降伏勧告を受け入れ、翌・9月15日の朝に、大津城を開け渡したのです(9月7日参照>>)

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大津城の天守閣を移築した現在の彦根城天守閣

9月15日・・・そう、まさに、この日の朝・・・美濃関ヶ原で、あの合戦が開始されたのです。

同時中継&生放送ライブで見ている身としては、
「あと何時間か、頑張ってたら…」
なんて、思っちゃいますが、

とにもかくにも、降伏=負け組の将となった高次は、すぐさま高野山へと入り、頭を丸めます。

しかし、その後の状況に最も驚いたのは、ここ大津城で奮戦していた西軍の将たちです。

そう、かの関ヶ原が、わずか半日で決着・・・3万8000(諸説あり)という大軍を任された精鋭部隊が、本チャンの関ヶ原に間に合わなかったのです。

東軍の大勝利・・・しかも、西軍の主だった将のすべてが、討死するか逃走して行方不明となった以上、もはや大津城籠城戦に勝った彼らとて、なす術はなく、とっとと領国に帰って、むしろ、今後の身の振り方を思案せねばならないわけで・・・

かくして、天下分け目の戦いから5日後の慶長五年(1600年)9月20日家康は大津城に入城します。

高次が、どのあたりで、この関ヶ原の結果を聞いたのか??
ひょっとしたら、勝利の知らせを聞いて、内心では、祝賀の挨拶にでも出向きたかったかも知れませんが、本来なら、その家康を出迎えるはずだった城を、ある意味捨ててしまったのですから、ノコノコと顔を出せるはずもなく・・・

もしかしたら、「あと半日…!!」と身震いするほどのくやしさを味わっていたかも知れませんが・・・

家康は、この後、数日間大津城に滞在し、ここを本営として戦後処理に当たります

そう、実は、三成をはじめ、このあたりで捕縛される小西行長(こにしゆきなが)(9月19日参照>>)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月28日参照>>)らも、次々と、この大津城へ護送されて来ていたのですね。

そんな中、家康は、「自分に会いに来るように」高次へと使者を出します。

しかし、あと少しだったとは言え、敵に屈してしまった事を恥じとする高次は、それに応じず、高野山での蟄居(ちっきょ=一定の場所で謹慎して引き籠る事)を続けました。

何度も何度も使者を出す家康・・・

やがて、断わり続ける事もできず、覚悟を決め、ようやく、家康の前に姿を現した高次・・・

すると、その家康が発した言葉は・・・

周りの状況や、この前後の事知っている後世の私たちからみれば、ごくごく当然のことですが、当の高次から見れば、考えてもみなかった意外な言葉が帰って来たのです。

そう、家康は、高次を大絶賛!!
「よくぞ、あの大軍を、大津に足止めしてくれた」
と・・・

「むしろ、勲功1番の戦いぶりである」
として、高次を、若狭(京都府北部)1国=8万5000石の後瀬山(のちせやま)城主(後に小浜城に移転)としたのです。

さらに、弟の高知(たかとも)も、丹波(兵庫県)宮津城主に・・・家康っさん大盤振る舞いです。

もはや、命無い・・・と思った籠城戦。
名門京極家も終わったか・・・と思った開城。

ホタル大名と罵られた高次にとって、8万石の領地より何より、あの時、琵琶湖のほとりで決めた決断が、間違っていなかった事を確信したその瞬間が、人生、最高の時だったかも知れませんね。

よく頑張りました◎
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コメント

はじめまして
毎回楽しく読ませていただいています

3万8000は同じく本戦に間に合わなかった東軍の中山道軍の数字で大津城攻囲軍の数字はもっと小さいのではないでしょうか

投稿: Rousan | 2012年9月20日 (木) 20時55分

Rousanさん、こんばんは~

そうですね~
数字を盛るのは合戦の常とう手段なので、おっしゃる通り、実際には、そんなにいなかったでしょうね。
まさか関ヶ原に遅れるとは思わずに大津に向かったでしょうし…

投稿: 茶々 | 2012年9月21日 (金) 02時44分


携帯やテレビが無い時代だからこそ起こることですね。
絶対あと半日持ちこたえられたって…言いたいです。(ノд・。)

しかし高次さんの立場って平和なときにはかなりいいですが、戦乱のなかでは最悪なポジションだなと思います。
ある意味大阪の陣まで生きていなくてよかったのかもしれません。そうとうな板挟みになっていそうです。

投稿: ティッキー | 2012年9月21日 (金) 18時31分

ティッキーさん、こんばんは~

>高次さんの立場って…

そうですね。
大坂の陣の時は、初さんも忠高さんもイロイロ思案したでしょうね~

私としては、大坂の陣では、忠高が徳川方で初が大坂方で、どちらが勝っても京極家が生き残れるように考えていたのだと思ってます。

投稿: 茶々 | 2012年9月22日 (土) 01時29分

この時期、西軍の勢力圏の真っ只中での高次さんの決起は自殺行為に近いかと。伏見城の鳥居さんは玉砕しちゃってますしね。大人しげなイメージがあるだけに、どうしちゃったの、高次さん?という感じです。しかも、大津城は防衛戦に向かない造りだそうですし。

普段「ホタル大名」として諸大名のイジメに会ってた?のが、よほど腹に据えかねたか。

歴史はメインロードから外れたプレイヤーの、暴走・珍走でも、時には大きくレースが左右される好例かと。

投稿: レッドバロン | 2012年9月22日 (土) 18時39分

レッドバロンさん、こんばんは~

ドラマでは、メインの関ヶ原にスポットが当たりますが、大津城と言い、大垣城と言い、田辺城と言い…さらに、九州の如水や東北の動きも…

同時進行していたかと思うと、手に汗握ります。

投稿: 茶々 | 2012年9月23日 (日) 01時09分

関ヶ原を扱う大河ドラマでは、石田三成=秀頼擁護派として描かれていますが、史実では家康が秀頼擁護派であり、京極が東軍についたのも、浅井姉妹が敵対していなかったためです。
石田三成は何を根拠に、秀頼後見の家康と敵対したのかと言えば、秀頼が秀吉の実子ではないことを把握していたからであり、三成が頭に描いた豊臣の当主は、かつて、秀吉の養子だった結城秀康の子ではなかったかと、最近考えるようになりました。
三成は真田信之と懇意にしていて、本多忠勝の見舞いを受けてお礼がしたいから、取り次ぎを信之に依頼する手紙を送っています。
本多忠勝は本多正信と供に、家康の後継に秀康を推していた上、西軍総大将と言えた毛利氏は、後に越前松平氏と婚姻関係を結んでいます。
そう考えると辻褄が合うのは、関ヶ原時西軍についた立花と丹羽が大名に復帰し、上杉が減封ですんだ一方で、東軍について加増されながら、後に改易された大名が少なくなかった点です。
多分、この線引きは、家康が秀頼の後見だと信じて、東軍参戦を決めた大名ではないかと思います。

投稿: Y子 | 2012年11月30日 (金) 04時14分

Y子さん、こんにちは~

このあたりの事は微妙ですね。。。
後で徳川が散々に改ざんしてしまっているので、真実にたどりつくのがなかなかに難しいです。
秀吉の遺言通りに、家康と淀殿の婚姻が成立していたら、また状況は変わったかもしれませんしね。

投稿: 茶々 | 2012年11月30日 (金) 14時57分

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