ホタル大名・京極高次の関ヶ原…一世一代の決断
慶長五年(1600年)9月3日、反転した京極高次が居城の大津城へと帰還しました。
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慶長五年(1600年)と言えば、もうお解り・・・関ヶ原ですね。
くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で全体像を把握していただくとして、ちょうどここらあたりの重要な出来事をつまんでみますと・・・
会津征伐に向かった徳川家康の留守を見計らって挙兵した石田三成が、伏見城の攻撃を開始したのが7月19日・・・(7月19日参照>>)
その三成の攻撃を知った家康が、小山の陣にて上杉の討伐を取りやめて西へと戻る事にしたのが7月25日・・・(7月25日参照>>)
そして、その小山評定で家康=東軍に属する事を決定した諸大名の先発隊が、東海道を進み・・・8月11日には岡崎城に入り(8月11日参照>>)、8月22日には岐阜城を陥落させ(8月22日参照>>)ました。
一方の三成=西軍は、8月1日に伏見城を落城させ(8月1日参照>>)た後、8月10日には三成らが大垣城に着陣(8月10日参照>>)、8月25日には、別働隊が伊勢安濃津城を開城させました(8月25日参照>>)。
また、家康の別働隊として東山道を西に向かった徳川秀忠隊は、9月2日から、真田昌幸(まさゆき)の籠る上田城攻防戦に入っています(9月2日参照>>)。
そんな中で、本日の主役=京極高次(きょうごくたかつぐ)さん・・・すでにブログにも何度か登場していますが、
そもそもは、鎌倉時代の昔より近江(滋賀県)周辺の守護を務める名門だった京極家が、戦国下剋上の世の中で浅井家に取って変わられ(3月9日参照>>)、高次が家を継ぐ頃には、すっかり没落街道まっしぐら・・・
しかも、運が悪いのか見極める能力が無いのか・・・あの本能寺の変ではキッチリ明智光秀に味方してしまった事で、やむなく、織田家の重臣である柴田勝家のところに身を寄せますが、これまたご存じのように賤ヶ岳の戦いで勝家が敗北(4月23日参照>>)・・・
行くとこ行くとこが負けてピンチの連続の高次さんですが・・・いや、思えば、これだけのピンチを、無事にくぐりぬけられるのは、逆に運が強いのか???
その運の強さの最大が、姉(もしくは妹)の京極龍子がメッチャ美人だった事・・・この美人の姉ちゃんを見染めたスケベ・・・いや、豊臣秀吉が、彼女を側室に迎えた事で、命助かるどころか、近江(滋賀県)の地に25000石もの領地まで・・・
しかも、この時期に秀吉の庇護のもとにあった浅井三姉妹の1人=初と結婚する事に・・・
昨年の大河でもご存じのように、この初さんの姉は秀吉の側室で秀頼の母=淀殿(茶々)で、妹は徳川秀忠の奥さん=江(ごう・江与)です。
豊臣政権下では、まさにVIP・・・おかげで、姉と嫁の七光で出世する=ホタル大名なんてニックネームも付けられちゃいますが、琵琶湖で陸揚げされた物資が一手に集まる交通の要所=大津の城を任されるという大役もいただいちゃいました。
・・・で、そんな中での今回の関ヶ原に向けての出来事の数々・・・
この時の高次は、挙兵した三成の要請を受けて、北国街道を北に向かっていました。
それは、三成とともに西軍の主力となっている大谷吉継(おおたによしつぐ)(7月11日参照>>)・・・以前、書かせていただいたように、三成から最初に挙兵の相談を受けた吉継は、すぐに居城の敦賀城に帰還して北陸の諸将を西軍に勧誘すべく動いていたわけですが(7月14日参照>>)、その前に立ちはだかったのが、あの加賀(石川県)の前田利長(としなが)・・・
8月8日の加賀浅井畷(あさいなわて)の戦いでのかろうじての勝利も含め(8月8日参照>>)、北陸の西軍に対抗する形となっている利長を攻める要員として、高次は、北国街道を北へ向かっていたのです。
そんな中、今度は吉継からの要請が飛び込んできます。
それは・・・(ちょうど昨日ご紹介した)余呉湖の北東に差し掛かった東野山のあたり・・・(昨日もご紹介した賤ヶ岳の合戦の図が、位置関係の参考になると思います→)
その内容は・・・
「これから、僕は美濃(岐阜県)に向かうので、君も来てネ!」
そう、先にご紹介した8月22日の岐阜城の陥落です。
このニュースを受けた西軍・・・意外に早く家康の先発隊が西に戻って来ている事に驚き、「これ以上近づけてはならぬ」とばかりに、吉継や高次を、美濃の関ヶ原のあたりに向かわせようとしたわけです。
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・・・・っと、ここで余白を開けたのは、おそらく、高次自身が、この決断をするのに、少々の時間がかかったのではないか?と思い・・・
そうなんです。
ここで、高次は、今まで西軍=三成の要請で北国街道を北へ向かっていた軍を反転させ、家康=東軍につく決意をしたのです。
余呉湖…南側から北方向です。。。
高次も、この景色を見ながら決断したのかなぁ(*^.^*)
思えば、周囲のゴタゴタに翻弄され、姉と嫁の七光でここまで生きて来た男が、おそらくは姉にも嫁にも相談せずに決めた一世一代の決断・・・
とは言え、ただ逆戻りすれば良いというものではありません。
なんせ、岐阜城までやって来た東軍を、「これ以上近づけてはならぬ」なわけですから、逆に今いる場所は西軍だらけ・・・なので、誰にも気づかれず、誰にも追いつかれず、居城の大津まで戻らねばなりません。
考えに考え抜いたた高次・・・琵琶湖の北岸に位置する塩津へと向かい、そこから船にて大津を目指しました。
琵琶湖を渡る風をはらみながら、時に大きく、時に小さく揺れる船の中で、高次は何を思いながら大津に向かったのか・・・おそらく、その胸中には、大きな不安と大きな希望と大きな闘志が渦巻いていた事でしょう。
なんか、今日はカッコイイぞ!ホタル高次!
かくして慶長五年(1600年)9月3日、大津城に帰還した高次・・・
この先、彼の寝返りを聞きつけた西軍の誰かが、その刃を向けて来るに違いありません。
大いなる籠城戦が始まろうとしていますが、そのお話は9月7日のページでどうぞ>>
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コメント
京極高次の人生は、まさに、波乱万丈といっても過言ではないでしょう。何しろ京極家自体が、細川幽斎(剃髪前は、藤孝)&忠興親子や伊達政宗などのような、名家中の名家でしたが、浅井長政の祖父である、浅井亮政の台頭によって、立場が逆転したような状態が続いてしまったようですね。しかし、高次が、妻のお初&姉の龍子のおかげで、京極家の再興に成功しました。もしかしたら、高次は、ホタル大名というより、「血は水よりも濃し」で、乱世を乗り切った印象の方が強いかもしれません。
投稿: トト | 2016年4月13日 (水) 21時39分
京極高次の人生は、まさに、波乱万丈といっても過言ではないでしょう。何しろ京極家自体が、細川幽斎(剃髪前は、藤孝)&忠興親子や伊達政宗などのような、名家中の名家でしたが、浅井長政の祖父である、浅井亮政の台頭によって、立場が逆転したような状態が続いてしまったようですね。しかし、高次が、妻のお初(常高院)&姉の龍子のおかげで、京極家の再興に成功しました。もしかしたら、高次は、ホタル大名というより、「血は水よりも濃し」で、乱世を乗り切った印象の方が強いかもしれません。
投稿: トト | 2016年4月13日 (水) 21時41分
トトさん、こんばんは~
結局、京極家は生き残りましたからね。
意外に強いです。
投稿: 茶々 | 2016年4月14日 (木) 02時28分