上杉謙信VS織田信長~1度きりの手取川の戦い
天正五年(1577年)9月18日、信長の命を受けた柴田勝家率いる織田軍と、謙信率いる上杉軍が、加賀手取川にて対峙しました。
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上杉謙信と言えば、あの武田信玄と、合計5回に渡って繰り広げられた川中島の戦い(8月3日参照>>)ですが、二人が戦ってる間に戦国乱世の勢力図は大きく変わっていきます。
あの織田信長が桶狭間(5月19日参照>>)で今川義元を倒して名を挙げた後、徳川家康と同盟を結んで(5月27日参照>>)、美濃攻略に勤しみ(8月15日参照>>)・・・
川中島で死闘を繰り広げた信玄も、義元亡き後の駿河へ進攻(12月12日参照>>)し始めた事から、謙信は関東では北条氏(6月26日参照>>)、北陸では一向一揆と戦う事になります。
ただ、この時点での謙信のライバルは未だ信玄・・・関東の北条氏にも北陸の一向一揆にも、信玄の影があり、逆に、信長はあの手この手のプレゼント攻撃で、謙信にすり寄って来ていた愛い奴だったわけですが、そんな信長が、亡き将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛(9月28日参照>>)・・・
しかし、その信長は、まもなく将軍・義昭と対立し、その後、大きな柱だった信玄が亡くなる・・・この事が、謙信の方向転換を決定的にします。
そう、反・信玄から反・信長へ・・・ターゲットを切り変えたのです。
天正四年(1576年)、反信長の姿勢で暗躍する義昭の仲裁によって、謙信は、本願寺第11代・顕如(けんにょ)と和睦を結び、長年に渡って敵対していた一向一揆との抗争を終わらせたのです(5月18日参照>>)。
早速、能登(石川県)へと進攻する謙信・・・その年の10月に能登七尾城を包囲した謙信は、途中、北条氏へのけん制もありつつも、翌・天正五年(1577年)9月13日、七尾城の攻略を確信するのでした(9月13日参照>>)。
一方、すでに浅井・朝倉を倒して(8月28日参照>>)越前(福井県)までを手中に治めていた信長ですが、ご存じのように、石山本願寺との石山合戦もすでに勃発・・・しかも、謙信が能登に進攻したこの頃は、大坂湾で本願寺と戦い(7月13日参照>>)、伊勢で北畠を倒し(11月25日参照>>)と、もう、アッチャコッチャでドンパチやりまくり・・・
・・・で、そんな中での謙信の能登進攻を知った信長は、柴田勝家と羽柴(後の豊臣)秀吉を北陸へ派遣して、謙信攻略に当たらせるのです。
かくして天正五年(1577年)9月18日、織田軍と上杉軍が、加賀手取川にて対峙し、手取川の戦い・・・と言いたいところですが、
ご存じのように、この手取川の戦いについては、史料が少なすぎて、専門家の間でもあったのか?無かったのか? あったとしても、その規模は?的な事で論争が繰り返されているのです。
日づけも、この9月18日というのもあれば、5日後の9月23日とも言われます(23日のほうが一般的ですが…)
大きな合戦があったとする場合の一般的な戦いの流れは・・・
この18日の対峙の後、対岸にて、騎馬隊だけを引き連れていた謙信が、未だ到着していない歩兵を待っていたところ、上杉軍が間近に来ている事に気づいていなかった織田軍が手取川を渡って対岸に布陣・・・
その光景を見た謙信が、その夜、歩兵の到着を待たずに騎馬隊だけで奇襲をかけて、織田軍に大勝したとされます。
織田軍の敗因としては、勝家とともに北陸にやって来たはずの秀吉が、合戦が始まる以前に、なぜか勝手に戦線を離脱して帰ってしまっていて、すでに織田軍の和が乱れているところに、後ろが川という背水の陣を敷いてしまった事で、上杉の攻撃に押されて後退する兵が、次々と川の流れの呑みこまれて、多くの死者を出してしまったのだと言われます。
一方、戦いはあったけれども、小競り合い程度だったとする見方では・・・
さすがの猛将=勝家ですから、一旦は手取川を渡ったものの、すぐに、謙信の軍に気づき、しかも、謙信本人の馬印を確認した事でその本気度を察し、一旦撤退して態勢を整え直す事とし、そのまま、夜のうちに撤退を開始したのを、それに気づいた上杉軍が追撃した程度で、大きな戦いとはならなかったとされます。
もちろん、上記に書いた通り、お互いに対峙しただけで、合戦には至らなかったという見方もあります。
もし、ここで、謙信が大勝していたのなら、当然、この時点では、上杉が加賀をも制した事になりますが、そういった史料でも、「加賀を制していた」とする物もあれば、「能登すら制していない」とする記録もあり、今のところ、まったく以って決め手が無い状況となっています。
ただ、一般的には、この手取川の後、9月24日に上杉家臣の長沢光国(ながさわみつくに)が能登畠山の庶流=松波義親(まつなみよしちか)の籠る松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)を落とし(9月24日参照>>)、これまで能登を仕切っていた能登畠山氏が滅亡した=謙信が能登を平定したとの見方が強いようです。
しかし、この後、冬が近いという事で、一旦、越後(新潟県)へと戻った謙信が、そのまま、春の出兵を待たずに亡くなってしまい(3月13日参照>>)、その後の上杉家は、謙信の後継者争い(3月17日参照>>)となって、対・信長どころじゃなくなってしまい、その間に織田軍が、ほとんど戦わずして越中(富山)まで進み(9月24日参照>>)、加賀一向一揆も倒してしまう(3月9日参照>>)ので、よけいに、手取川の戦いがあったのか?無かったのか?をややこしくしてしまっているのです。
とにもかくにも、更なる史料の発見に期待したい手取川ですが、信長が現地に行かなかったとは言え、謙信VS信長の、歴史上唯一の戦いとなれば、歴史好きとしては、ちょっとワクワクしちゃいますね。
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コメント
はじめまして。
マニアックな歴史まで細かくわかりやすく紹介されているので、すごくいいブログだなと思いました!
また訪問させてください(´∀`)
投稿: やのさん | 2012年9月19日 (水) 23時56分
やのさん、はじめまして…
管理人の茶々です。
うれしいお言葉、ありがとうございます。
また、遊びに来てください( ̄▽ ̄)
投稿: 茶々 | 2012年9月20日 (木) 00時18分
素晴らしい話でワクワクしました。
拍手しときました!!
手取川の戦い、謙信派としては大勝していてほしいですね
投稿: 生き方 | 2012年9月20日 (木) 13時07分
生き方さん、こんにちは~
>謙信派としては…
そうですね~
歴史ファンとしては、手に汗握る攻防戦を期待しちゃいます~
まぁ、イロイロ妄想するのが楽しいんですが…
投稿: 茶々 | 2012年9月20日 (木) 14時44分
勉強になります。
勝頼なりに、信玄を越えていかねばならぬと、長篠で無理をしたんだなあと。
信玄からの家臣も、信玄公への最後の奉公だと。
近畿圏で忙殺されていた、信長を甘く見て、高天神城を落として、勝たねば、ならぬと思ったか。
信長は城を代えたが、謙信や信玄は移動させなかったからな。
一昔前の人物と言われればそれまでか。
歴史に後付けは無いですが、北を諦めていればと思います。
何故に信玄は北へ向かったか?って本もあった様ですが。
投稿: おいらん淵 | 2012年10月29日 (月) 17時14分
おいらん淵さん、こんばんは~
どうしても、この後の歴史を知っている私たちですから、当時の方々の心情に迫るのは容易ではありませんね。
先入観を捨てて…と思いますが、なかなかに難しいです。
投稿: 茶々 | 2012年10月29日 (月) 23時34分
凄いですこれを参考に勉強したいと思います
投稿: 蘭丸 | 2014年3月 2日 (日) 18時17分
蘭丸さん、こんばんは~
コメントありがとうございます。
勉強、頑張ってくださいm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2014年3月 3日 (月) 01時17分