マッチ王…清水誠と瀧川辧三~マッチの日にちなんで
昭和二十三年(1948年)9月16日、戦時中は配給制だったマッチに自由販売が許された事を記念して、今日=9月16日は「マッチの日」という記念日なのだそうです。
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その昔、おそらくはサルから進化したであろう人類が、他の動物に比べて1歩先行く存在となったのは「火を扱う事」ではないか?と思います。
木切れなどを道具として扱う事までは、賢いサルならできますが、そのままだと危険な火を安全に扱う事ができるのは、やはり人間だけかと・・・
人は、その火によって、暗い夜に灯りをともせる事や寒い冬に暖をとれる事に気づき、やがて固い肉を焼いて食べるとオイシイ事や固い木の実を煮て食べるとオイシイ事を知ったその日から、本来、危険な物をいかに安全に使うかを工夫しながら生きて来たように思います。
電気もガスも、車も飛行機も・・・一歩間違えれば危険な物を、いかにして安全に便利に使用するか?
これが、文明の発展につながったのではないか?とすら思えます。
その原点が火という物・・・
とは言え、人の歴史の中で、長きに渡って「火をおこす」という作業は手間のかかる物でした。
それを、ほとんど手間をかけずに瞬時に行うという画期的な発明が「マッチ」・・・これを発明したのは、1827年(文政十年)のイギリスの科学者=ジョン・ウォーカーという人でした。
火の付き具合が、あまり良く無かったと言いますが、形態的には、ほぼ、現在の物と変わりない物・・・ただし、初期の頃のマッチは、先端についている薬品が有毒で危険な物でした。
それを改良して安全なマッチの製造に成功したのがスウェーデン・・・以来、スウェーデンは世界市場のシェアを握っていたのです。
明治維新を迎えた日本でも、やはりスウェーデンからの輸入・・・
その頃には、イキな男が、馴染の芸者を呼んで、船宿でシッポリしようと企み、ムードを盛り上げるために灯りを消してマッチを擦ったところ、突然、懐から出て来た火に驚いた芸者が、「化け物!!」と叫んで失神した・・・なんて笑えるエピソードも・・・
そんな中、旧金沢藩士だった清水誠(しみずまこと)が、明治三年(1870年)に藩命を受けてフランスに留学した際、たまたま、その留学先で、宮内庁の役人=吉井友実(よしいともざね)に出会います。
その友実がポツリ・・・
「我が日本は木の国なのに、こんな小さなマッチまで輸入に頼らなならんとは…」
その姿を見た誠・・・
「やってやれない事は無いはずです!帰国したらやりましょう!」
と、やる気満々なところを見せつけます。
帰国後すぐに、本業の造船技師を営むかたわら、仮工場にてマッチの製造を開始しますが、その翌年の明治九年(1876年)には、彼の意気込みに感銘を受けた大久保利通(としみち)のアドバイスを受けて辞職し、東京本所柳原に新工場を設立して、本格的に、その経営に乗り出しました。
当時は、あの廃藩置県のおかげで、無職となった人も多く、非常に安い賃金で労働力を確保できた事から、誠の事業はまたたく間に軌道に乗り、明治十三年(1880年)には海外に輸出できるほどになります。
さらに、研究熱心な彼は、本場=スウェーデンまで出かけて研究し、様々な改良を加えた新製品を次々と製造・・・品質有料で低価格なマッチが市場に溢れる事になります。
しかし、商品がヒットすればするほど、それを真似た粗悪な商品が登場するのは世の常・・・
そうなると日本製のマッチへの信用は失われ・・・さらに、同時期に続いた不況のあおりを受け、ついに、明治二十一年(1888年)、誠はマッチ業界を去る事になります。
そんな誠と交代するように表舞台に登場するのが、瀧川辧三(たきがわべんぞう)でした。
長府藩士の子として、現在の下関に生まれた辨三は、大阪の開成校で学んだ後、工部省電信学校を卒業・・・その後、神戸のイギリス商館に務める中、明治十三年(1880年)、仲間と共同で清燧社(せいすいしゃ)という会社を設立し、マッチの製造に着手します。
そう、誠の活躍で、マッチ業界がノリに乗ってた頃ですね。
ところが、上記の通り・・・ノリに乗ってた頃に次々と誕生した同業者が、粗悪なマッチを売ってくれたおかげで、信用がガタ落ちのうえに不況のダブルパンチ・・・
次々と同業者が潰れていく中で、辨三の会社も、ご多分に漏れず、もはや虫の息・・・共同出資者も去る中で、ただ一人残った辨三は、食事さえも節約しながら夜明けから日没まで、休みなく働きます。
そんな中でも、辨三の信念は、「品質第一」・・・とにかく、良いマッチを造る事でした。
そんなこんなの明治二十九年(1896年)、創業者の社長が亡くなった良燧社(りょうすいしゃ)という会社の商標と良燧社そのものを買い取ったのです。
もはや虫の息の辨三ですから、この高価な買い物は、おそらく一大決心・・・ある意味、その命賭けた一世一代の懸けであったかも知れません。
実は、この良燧社は、輸出先の中国市場で絶大な人気を誇る「尾長猿印」という商標を持っていたのです。
さらに辨三は、それとは別の「馬首印」や「ツバメ印」「筍印」などの人気商標も受け継ぎます。
そうです・・・いくら品質の良い製品を造っても、マッチの場合、使ってみないと、本当に良い物かどうかわかりません。
「良い品物には、この商標がついている」
「これが、ついていれば安心だ」
という、品質を保証する商標に目をつけたのです。
これが見事に大ヒット!・・・海外への輸出にも成功し、辨三の会社は、国内向けのシェア70%を誇る大会社に成長していきます。
大正時代の頃の商標
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←辨三の代表的商標「桃印」は現在も発売中です
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いくつかの合併を経て、大正六年(1917年)には社名を東洋燐寸(マッチ)株式会社と改名した頃には、もはや業界では揺るぎない地位を築き「マッチ王」と呼ばれるようになった辨三は、翌・大正七年に、マッチ事業のすべてを婿養子に譲り、社長を引退しました。
その後は、災害被害者の援助や瀧川中学校設立など、社会貢献に尽力する辨三ですが、その根底にあるのは、やはり、「今の自分があるのも、社会の皆さまに育ててもらったおかげ」という、これまでもこのブログに度々登場していただいている、昔懐かしい商人&実業家の精神を持っていたからこそ・・・
マッチ王となった後も、自分の事にお金を使う事はなかったという辨三・・・彼が亡くなった時には、高価な私物という物はほとんど無かったとか・・・
ホント、頭が下がります。
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コメント
毎日楽しみにして見せて戴いてます。
しかしスマホで見ているので拍手が出来ません・・・。
投稿: | 2012年9月17日 (月) 11時43分
コメントありがとうございますm(_ _)m
そのお言葉だけで励みになります。
これからも、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2012年9月17日 (月) 12時27分