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2012年9月24日 (月)

織田VS上杉の越中争奪戦~月岡野の戦い

 

天正六年(1578年)9月24日、織田と上杉との越中争奪戦において、信長の命を受けた斎藤新五郎が出陣しました。

・・・・・・・・・

幾度となく戦った永遠のライバル=武田信玄(たけだしんげん)の死と、その間に室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した後、天正元年(1573年)の8月に浅井・朝倉を倒して(8月27日参照>>)北近江(滋賀県北部)から越前(福井県)まで制した織田信長(おだのぶなが)の存在に、ひとまず関東の北条や甲斐(山梨県)の武田を置いといて、勢いのある信長との抗戦に路線変更した越後(新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)・・・

天正四年(1576年)には、長年敵対していた一向一揆とも和睦し(5月18日参照>>)、その矛先を西へと向け、翌・天正五年(1577年)9月15日には能登七尾城(石川県七尾市)を落城させ(9月13日参照>>)さらに西へと進みます。

Odanobunaga400a 一方、謙信の動きを知った信長は、配下の柴田勝家羽柴(後の豊臣)秀吉北陸へ派遣して、謙信攻略に当たらせます

・・・で、天正五年(1577年)9月18日もしくは23日に両者がぶつかったのが加賀手取川の戦いですが、先日、その手取川のページ(9月18日参照>>)で書かせていただいたように、戦いの規模も、あったのか?無かったのか?すらよくわからない戦いであります。

しかも、ご存じのように、ここからさらに西に進んで、信長と戦う気満々だったと思われる謙信が、冬場の雪を理由に一旦越後に戻った後、次の春の出兵を待たずに、翌・天正六年(1578年)3月13日に亡くなってしまうのです(3月13日参照>>)

実子のいなかった上杉家では、謙信の後継者を巡って、養子の景勝(かげかつ)景虎(かげとら)の間で御館(おたて)の乱(2007年3月17日参照>>)が勃発・・・信長との抗戦どころではなくなってしまいます。

もちろん、これをチャンスと見た信長は、かつては、越中の守護代家でありながら謙信の進攻によって領地を奪われたために信長の配下に加わっていた神保長住(じんぼうながずみ)飛騨経由で越中に送り込みます。

命を受けて、早速、出陣した長住らは、4月~5月にかけて・・・と言いますから、謙信の死後から、わずか1~2ヶ月の間に、越中の南部を制します。

とは言え、いくら本拠の越後でドンパチやっているものの、ここらあたりの武将たちは上杉配下なわけで、その先の支城は、なかなかうまく落とせず、9月に入っても、まだ富山には進出できていませんでした。

この頃の上杉方の南の最前線の城は津毛城(つけじょう=富山県富山市東福沢)・・・ここに椎名小四郎(しいなこしろう=長尾景直)河田長親(かわだながちか)が軍勢を集結させていました。

そんな中の天正六年(1578年)9月24日、信長が斎藤新五郎(利治・新五とも=道三の末子)援軍に派遣した事で戦局は動きます。

『信長公記』によれば・・・

この尾張(愛知県西部)美濃(岐阜県)の織田軍勢を率いた新五郎の来襲を知った上杉方は、戦う事なく津毛城を放棄し、3里(約12km)ほど北にある今泉城(富山県戸富山市今泉)へ撤退して、そこで籠城作戦に出ます。

その後、織田軍は、この津毛城に長住の兵を入れて本拠とし、今泉城の南東に位置する太田本郷に布陣して今泉城の上杉勢と対陣します。

しばらくの間のにらみ合いの後の10月4日、織田勢は、今泉城下に放火するだけして、その夜に、すぐさま陣を撤退させました。

実は、これは、籠城戦において城攻めが難しいと判断した新五郎のおびき出し作戦・・・

これが見事的中し、撤退する織田勢を追撃すべく、城を出た上杉勢は、月岡野(富山市上栄周辺)にて織田軍と一戦を交える事になりました。


大きな地図で見る

★地図の説明・・・左上の「南富山駅」のあたりに今泉城、まん中あたりの「浮田家住宅」のあたりが太田本郷、さらに地図をまっすぐ南へスクロールした「開発駅」のあたりが月岡野で、さらに南の「富山CC]と「カメリアCC」というゴルフ場が二つ並ぶ所の東側に津毛城がありました。

世に、月岡野の戦いと呼ばれるこの合戦で、織田勢は、上杉の首級360を討ち取るという大勝利をおさめます。

この勝利の知らせを聞いた信長は大いに喜び、この戦果を広く宣伝して回るのです。

たとえば、信長の近臣=大津長昌(おおつながまさ)が、伊達輝宗(だててるむね)の近臣=遠藤基信(えんどうもとのぶ)(10月21日参照>>)宛てに・・・
「今回、越中に進出した織田軍が上杉軍:数千人を討ち取りましてん。
この機会に、ぜひ、越後へと攻勢をかけておくなはれ」

てな手紙を送っています。

360が数千人になってるとこがミソですが、こうやって、越中争奪戦において織田軍が優位に立っている事を宣伝し、多くの武将を味方につけようとしたわけですね。

これによって越中国内の勢力図が大きく塗り替えられるうえ、上杉が家内での後継者争いに夢中になってくれていたおかげで、その後の織田軍は、ほとんど戦いらしい戦いをする事なく、越中の大半を手中に収めてしまうのです。

天正七年(1579年)3月に、上杉の御館の乱は終結しますが(2010年3月27日参照>>)、その翌年には、柴田勝家が加賀一向一揆を平定します(3月9日参照>>)

やがて天正九年(1581年)には、御館の乱に勝利した上杉景勝(かげかつ)が義父の後を継いで越中に侵攻するも失敗(3月24日参照>>)・・・翌、天正十年(1582年)6月3日には、かの勝家が、見事、魚津城(富山県魚津市)を落とし(6月3日参照>>)いよいよ織田方が越中を制圧・・・となるのですが、

ご存じのように、その前日に起こっていたのが、あの本能寺の変(2015年6月2日参照>>)・・・世はまさに、戦国ですね
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