元弘の変~笠置山の戦い
元弘元年(1331年)9月28日、第96代後醍醐天皇が笠置山に籠って挙兵した事を知った鎌倉幕府軍が攻撃・・・笠置城が陥落しました。
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源頼朝(みなもとのよりとも)の血筋がわずか3代で絶え、もはやお飾りの将軍のもと、鎌倉幕府の実権を握っていたのは、頼朝の奥さん=北条政子(ほうじょうまさこ)の実家の北条得宗家(とくそう=北条氏嫡流の当主)・・・
一方の天皇家は、第89代後深草天皇の系統である持明院統(じみょういんとう)と、その弟で第90代亀山天皇の系統である大覚寺統(だいかくじとう)に分かれながらも、幕府の仲介によって、持明院統と大覚寺統から交代々々で天皇につく=両党迭立(りょうとうてつりつ)の約束が守られていましたが(9月3日参照>>)、そんな中で次に天皇を継ぐべき邦良(くによし・くになが)親王が未だ幼かった事で、その叔父の後醍醐(ごだいご)天皇が、「親王が成長するまでの10年間だけ」という期限付きのピンチヒッターで天皇の座についたのは、文保二年(1318年)の事でした。
しかし、このままの親政(天皇自ら政治をする)を、どうしても続けて行きたい後醍醐天皇は、正中元年(1324年)、仲間と組んで正中の変(9月19日参照>>)を起こしますが、あえなく失敗・・・
仲間が逮捕されながらも、何とか処罰を逃れた後醍醐天皇は、ますます討幕の思いを募らせて水面下で画策する中、元弘元年(1331年)8月27日、密かに宮中を脱出して笠置山に籠り、楠木正成(くすのきまさしげ)という強い味方を得る事になります(8月27日参照>>)。
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天皇に招かれ、武士の誉れと感激する正成に、天皇は討幕の戦略を問います。
すると、正成は・・・
『…天下草創(さうさう)の功は、武略と智謀との二つにて候(そふろ)ふ。
若(も)し勢を合はせて戦はば、六十余州の兵(つはもの)を集めて、武蔵(むさし)・相模(さがみ)の両国に対すとも、勝つ事得がたし。
若し、謀(はかりごと)を以って争はば…恐るるに足らぬところなり。
合戦の習ひに候へば、一旦の勝負をば、必ずしも御覧ぜらるべからず。
正成一人(いちにん)未だ生きて有りと聞こし召され候らへば、聖運遂に開かるべしと、思(おぼ)し召され候へ』
(太平記より:…部分は略してします)
「天下を統一するためには武力と計略の二つが必要です。
もし、武力だけで正面からぶつかったとしたら、日本全国の兵を集めても、武蔵と相模(幕府軍)に勝つ事はできませんやろ。
けど、計略を貼りめぐらして戦うんやったら…恐れる事はありません。
合戦の勝敗は時の運ですさかいに、1回の合戦を見ただけで、すべてを判断せんとってください。
つまり、この正成一人が生き残っている限り、帝の御運は、必ず開かれるものと、信じといていただきたい」
と答えます。
僧兵を集めたとは言え、未だ武力に乏しい後醍醐天皇にとって、なんとも、心強い言葉です。
しかし、後醍醐天皇が笠置山に籠って、そこに続々と援軍が集結している事は、間もなく幕府の知るところとなり、早速、京の六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)は、7万5000余騎の大軍勢を率いて、攻撃へと向かいます。
元弘の変の勃発です。
元弘元年(1331年)9月3日朝・・・天皇の籠る笠置の城を東西南北に囲んだ幕府軍は、大地を奮わさんばかりの鬨(とき)の声を一斉に挙げて攻めかかります。
しかし、意外に城内は静か・・・まるで誰もいないかのように静まり返る中、「敵は、先に逃げてしまったのかも知れない」と考え、「それならば…」と、より近くに寄って攻めようとしたところ、いきなり現われた3000余の鎧武者・・・
「あっ」と思った瞬間に、城内から矢が放たれ、それが合図であったかのように、城内の軍勢が幕府軍に攻めかかり、あれよあれよと言う間に撃ち負かしました。
以来、幕府軍の兵は、笠置城を遠目に取り囲むだけで、なかなか中へ攻め入る事ができません。
そんな中、
「楠木正成なる者が、天皇側につき、赤坂城に立て籠った」
というニュースが幕府に到着・・・
さらに、「備後の桜井四郎入道も天皇側につき、兵を挙げた」など、次々と報告が入って来ます。
たまらず、六波羅探題は、鎌倉の北条高時(ほうじょうたかとき=第14代執権)に援軍を要請・・・それを受けた高時は、9月20日、20万7600騎(多っ!!(゚ロ゚屮)屮)の軍勢を鎌倉から出発させたのでした。
その大軍が、「そろそろ近江(滋賀県)までやって来た」という知らせが、笠置山を囲む幕府軍に届いた頃、その包囲軍の中にいた備中の国の住人・陶山義高(すやまよしたか)と小見山某(こみやまなにがし)という二人の者が、一族郎党を集めて、コッソリ話し合います。
「こないだからの合戦で、死んだ者はよーけおるけど、皆、コレっちゅー功名も挙げんと死んでいったやないか?
同じ死ぬんでも、目覚ましい活躍をして死んだら、その名誉は長く残って、子孫も繁栄するやろ。
まして、日本中の武士が集まっても攻め落とせんこの城を、俺らが攻め落としてみぃ・・・どえらい事になるで!
どや、今夜は幸いな雨や・・・風雨にまぎれて城に忍び込んで夜襲をかけて、周囲を驚かしてみたろやないかい!」
かくして元弘元年(1331年)9月28日・・・義高ら50余人の決死隊は、それぞれに大太刀を背中に背負い、後ろに刀を指し、ガケをよじ登って城内に忍び込みます。
木の根にしがみつき、岩肌をすり抜けながら、4時間ほどかけてやっと堀の近くに行き、うまく堀を越えたは良いが、どこに何があるのやら・・・
ウロウロしていたところで、ふと番人に見とがめられますが、義高が「方々も御用心を…」と、自分も番人のフリをして、何とかやり過ごし、とりあえず、本堂を目指します。
やがて見つけた本堂には、何となく、周囲とは一線を画す雰囲気が・・・「ここが天皇のおわす皇居に違いない」と確信した義高は、そばにあった無人の堂舎に火をつけて、一斉に鬨の声を挙げました。
四方を取り囲んでいた幕府軍の軍勢は、これを、城内で裏切り者が出たと判断し、彼らも一斉に鬨の声を挙げます。
さらに、義高らは、次々と、別の建物に火を放っては鬨の声を挙げ・・・これを繰り返すうち、要所々々で守りを固めてした城兵は、城内に大量の幕府軍が入って来たと勘違いして、鎧を脱ぎ捨て、弓矢をほり投げて、次々と逃走していくのです。
これを見た討幕軍の錦織(にしこり)判官代は
「お前ら!見苦しいぞ!
天皇の味方をしよという者が、戦わんと逃げるとは!
今、命惜しんで、いつ命捨てるんや!」
と父子ともども13人余りの家来とともに奮戦しますが、ほどなく射るべき矢もつきてしまい、全員で自刃して果てました。
こうして、火攻めに遭った笠置城は落城・・・後醍醐天皇は農民に姿を変えて城を脱出し、正成の籠る赤坂城を目指しますが、天皇につき従うのは、わずかに二人・・・
逃走中の後醍醐天皇…「太平記絵巻」(埼玉県立歴史民俗博物館蔵)
なれぬ歩行のうえに、闇夜の山中・・・どこをどう歩いたかもわからぬまま、三日三晩山中をさまよい歩き、山城国多賀郡にある有王山の麓まで逃げ延びましたが、もはや空腹と疲れで、その場で眠ってしまいます。
やがて、そんなところを幕府軍が発見・・・捕えられた後醍醐天皇は、10月2日、宇治へと移されました。
その宇治には、鎌倉からの使者=大仏貞直(おさらぎさだなお・北条貞直)と金澤貞将(かねさわさだゆき・北条貞将)がやって来て、天皇に拝謁して三種の神器を譲渡するように迫ります。
実は、すでに9月20日の段階で、後醍醐天皇が笠置山に籠った事を受けて、幕府は、皇太子だった量仁(かずひと)親王を三種の神器が無いまま践祚(せんそ=天子の位を受け継ぐ事)させ光厳(こうごん)天皇(7月7日参照>>)としていたのです。
しかし、後醍醐天皇は
「三種の神器とは、古来より、天皇自らが新帝に授ける物・・・それを臣下の分際で勝手に新帝に渡すやなんて!」
と断固拒否・・・
結局、この後、後醍醐天皇自ら六波羅へと行幸し、自身の手で、光厳天皇に渡したのです。
かくして笠置山の戦いは終わり、翌年の3月には、後醍醐天皇は隠岐へ流される事になるのです(3月7日参照>>)が・・・その前に、
そう、赤坂城の楠木正成です・・・笠置山陥落後も、もうチョイ踏ん張るそのお話は10月21日のページでどうぞ>>。
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コメント
茶々さん、こんばんは!
この笠置山の戦いにて後醍醐天皇の援軍にはせ参じた南山城の土豪(地侍)たち…
彼らこそが後に山城国一揆を興すメンバーたちなんですよね。
南山城には、織田信長のような大名は誕生しなかったけど、私のような南山城(宇治)の人間からすれば、南山城の土豪(地侍)たちこそが郷土の英雄でもあります。
投稿: 御堂 | 2012年9月29日 (土) 23時53分
御堂さん、こんばんは~
36人衆ですね~
山城の国一揆の歴史的意義は大きいと思います。
投稿: 茶々 | 2012年9月30日 (日) 02時33分