戦国の幕開け…山名VS赤松・戦いの構図
文明十一年(1479年)閏9月4日、応仁の乱後に京都に滞在中だった山名政豊が、領国の但馬へと戻りました。
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山名政豊(やまなまさとよ)は、あの応仁の乱での西軍の大将だった山名宗全(そうぜん=持豊)の孫(一説には息子)で、その宗全と東軍の大将=細川勝元(かつもと)亡き後に(3月18日参照>>)、勝元の息子である細川政元(まさもと)と和睦交渉し、応仁の乱を終わらせた人です。
ご存じのように、応仁の乱は、応仁元年(1467年)から約10年に渡って、日本全国の大名を巻き込みつつ、東西真っ二つに分けて行われた日本史上屈指の大戦です。
この応仁の乱を「戦国の幕開け」と位置づける場合もありますが、すでに皆様お解りのように、戦国なる動乱は、一つの出来事から幕が上がるわけではなく、様々な事が複雑に絡み合い、お互いに影響を与えながらそうなって行く物・・・
また、それぞれの出来事の中で、何に重きを置き、何が1番と考えるかは、人それぞれで、それこそ、何年経っても100%の正解は出ない物ではありますが、私個人的には、やはり、この応仁の乱・・・いや応仁の乱そのものというよりも、応仁の乱が与えた影響が最も大きいような気がします。
というのも、この応仁の乱が始まってまもなくの頃は、東西両者が活発に合戦しあいながらも、将軍家の下に管領家があり、さらに守護大名が・・・という序列の構図が、まだ残っていたように思うのです。
ところが、なかなか収拾がつかない戦いを繰り返す中で(3月21日参照>>)、東西両軍の頂く将軍が入れ替わったりして、最初の目的自体がウヤムヤなり、落とし所を失くしたダルダルの戦いがただ長引く中、そんな戦いを終わらせる事すらできない上層部の権威は失墜・・・
なんせ・・・
東西の大将だった勝元と宗全が、ともに亡くなるのが文明五年(1473年)・・・
その息子の政元と孫の政豊の間で和睦が成立したのが文明六年(1474年)・・・
しかし、それでも戦いを止めない畠山氏を、将軍・足利義政の妻・日野富子がお金で説き伏せ、最後までゴネまくった周防(山口県)の守護大名・大内政弘に官位を与えて、やっとこさ・・・その政弘が領国に帰国する文明九年(1477年)11月11日を以って、応仁の乱の終結となるのです(11月11日参照>>)。
上が刀を収めようとしても、いっこうに収まらない・・・この経過を見るだけで、もはや将軍家の権威もへったくれも無くなってしまった事がわかります。
さらに、そんな守護大名にまで影響が・・・
これまでは、守護大名は将軍のお膝元である京都に行ったり来たりしながら、留守の間の領国経営は守護代がしっかりこなすというのが普通だったのが、この応仁の乱で守護大名が長期間京都に滞在してる間に力をつけた守護代や土豪(どごう=地元に根付いた武士)が、領主に取って代わろうとする動きが出始めて来る・・・まさに戦国の世に突入するわけです。
京都西陣にある山名邸跡…くわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「応仁の乱ゆかりの地を訪ねて」でどうぞ>>
・・・で、今回の山名政豊・・・文明十一年(1479年)閏9月4日に、領国である但馬(兵庫県北部)へ戻るべく、京都を発つわけですが、彼の帰国理由が、まさにソレでした。
それこそ、時の将軍・足利義尚(よしひさ=義政と富子の息子)は
「今、京都を留守にされては困るんやけど…」
と、彼の京都滞在を懇願するのですが、それを振り切っての帰国・・・
実は、その時、一族の山名豊時(とよとき)の治める因幡(鳥取県東部)で反乱が起きていたのです。
その反乱をウラで扇動していたのが赤松政則(あかまつまさのり)・・・
実は、山名と赤松には深い因縁があります。
それは嘉吉元年(1441年)6月24日に起こった嘉吉(かきつ)の乱(6月24日参照>>)・・・
当時、播磨(はりま=兵庫県南西部)・備前(びぜん=岡山県東部)・美作(みまさか=岡山県東北部)の守護だった赤松満祐(あかまつみつすけ)が、独裁的な恐怖政治を行う第6代室町幕府将軍=足利義教(よしのり)に、まさしく恐怖を抱き、自宅に招いて、酒宴の最中に殺害してしまうという暴挙に出てしまうのです。
当然ですが、明かなる謀反なので、諸大名による討伐軍が組織され、追い詰められた満祐は自害・・・その討伐軍の1人だったのが、かの山名宗全で、その領地の多くが山名氏の物となったのです。
今回の政則は、満祐の弟の孫・・・しかも、この頃には細川勝元の娘を継室(けいしつ=正室が亡くなった後に正室となった人)に迎えています。
嘉吉の乱で、事実上、滅亡していた赤松氏でしたが、事件後に生まれた政則が、管領の細川家に巧みに近づき、さらに、以前に、後南朝側(後南朝については後亀山天皇のページ参照>>)に持ち去られていた三種の神器の一つ=八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を、長禄二年(1458年)に奪い返した功績により赤松氏の再興を許され、加賀(石川県)の北半国の守護大名として復帰していたのです。
そんな赤松政則が、応仁の乱後、旧領の播磨をはじめ山陽地方一帯に勢力を回復しつつ、積年の恨みのある山名をターゲットに・・・因幡の反乱も画策していたというワケです。
山名VS赤松・・・この両者の戦いは、この後、玉松城(別名:金川城=岡山県岡山市)城主の松田元成(もとなり)を巻き込んで、激烈を極める事になりますが、そのうちの一つである福岡合戦については12月13日の【会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦】>>でご覧いただく事にして・・・
専門家の方の中には、この山名VS赤松の戦いが、「日本で最も早く出現した戦国時代」と称される方もおられ、やはり、戦国の幕開けという感じがします。
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