市聖~空也上人の伝説
天禄三年(972年)9月11日、市聖と呼ばれた天台宗の僧・空也が70歳で亡くなりました。
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未だ仏教が、一部の高貴な人々の物であった平安時代中期に、その信仰を庶民に広げる先駆者のような役割を果たした空也(くうや)は、後に様々な伝説が語られる事となるものの、史実と呼べるような物はほとんど残っていませんので、今回のお話も、伝説の域を出ないお話ではありますが・・・
空也11歳の時・・・
病に倒れ、もはや死の近い事を悟った母は、彼をそばに呼んで、
「あなたの父親は高貴なお方・・・ワケあって名は言えないけれど、天子様だと思っておいてね。
その天子様が、いつも、この国と国民の幸せを願っておられるように、あなたも、大きくなったら、民衆の平安を祈り、民のために尽くす仕事につきなさい。
それが、この母の菩提を弔う事になるのですよ」
と・・・その手をしっかりと握りしめながら言いました。
果たして、しばらくして無くなった母・・・葬儀を済ませた空也は、母の遺言通り、仏門に入る事を決意して家を出たのでした。
空也上人には、当時から、第60代醍醐(だいご)天皇、あるいは第54代仁明(にんみょう)天皇のご落胤では?という噂があったものの、ご本人は、その出自を一切語らなかったそうで、ひょっとしたら、ご本人も、自分の父親が誰かは、知らなかった可能性が高いと言われています。
こうして、母の死後、すぐに優婆塞(うばそく=正式な僧ではない在家の仏教行者)となった空也は、京都や大阪を中心に各地を行脚ながら苦行を続け、やがて尾張(愛知県西部)の国分寺で出家し、そこから空也と名乗ります。
その後も、名山を訪ねながら諸国行脚の修行を続けますが、その道すがら、悪路では自ら鍬を持って路を平にし、橋の無い川には、自ら橋を架ける作業を始める・・・
すると、どこからともなく、地元の人たちが集まって来て、彼の作業を手伝う・・・そうこうしているうちに、やがて、彼の行くとこ行くとこについて回る者も現われ、いつしか、彼の周りには人が絶えなくなり、誰ともなく「市聖(いちのひじり)」と空也を呼ぶようになっていったのです。
そんなこんなのある時、当時、京都にいた空也は、御所の南にある神泉苑のそばに住んでいた老婆のもとに、度々通っていました。
その老婆は身寄りもなく病んでいて、いかにもみすぼらしい・・・しかし、その姿があまりに哀れで、気になってしかたがない空也は、朝夕、彼女のもとに食事運んで行っていたのです。
おかげで、老婆は少しずつ元気を取り戻して行くのですが、そんなある日、いつものように食事を持って行くと、なんだか老婆の様子がおかしい・・・
ソワソワと挙動不審、火照っているようで顔が赤い・・・
「どないしたんですか?熱でも??」
と声をかけますが、老婆はなかなか答えません。
でも、年齢が年齢なだけに、心配な空也が何度も問いただすと・・・
「体が火照ってなりませんのや~
お情けでございます…どうか、この老婆を、1度だけ、抱いてやっておくなはれ~」
と・・・
「へっ??(@Д@;」
この時、空也19歳の春・・・
しかし、さすがは空也・・・心で驚いても、その様子は表情には見せず、
「よっしゃ!抱いたる!」(←ええんかい!)
と即答・・・
すると老婆は
「ワテは、この神泉苑に住む老狐…あんたはんは正真正銘の聖者どす~~」
と言って、その場で忽然と姿を消したのだとか・・・
まぁ。これは、正真正銘の伝説ですが・・・
やがて40歳を過ぎた天暦二年(948年)には、比叡山の第15世座主の延昌(えんしょう・延勝)より大乗戒(だいじょうかい)を授かり、光勝の法号も得ました。
空也自身は、各宗派を越えた独自の立場でしたが、ただ単に「自称」して布教活動するのと、おおもとの天台宗に認められたうえで、自らの教えを広めるのとは、雲泥の差があるわけで・・・
ですから、そのうちには、大きな供養会を仕切る立場となり、貴族などとも交流を持つようになりますが、空也はそうなっても、森羅万象・生きとし生ける物を愛し、今日ある事を喜び感謝するという一般民衆の立場に立った信仰を曲げる事はありませんでした。
ある時、空也が、朝に夕なに、その鳴き声を聞いて親しんでいた鹿を、定盛なる猟師が射殺してしまいました。
悲しんだ空也は、その鹿の皮と角を貰い受け、皮は衣にして、角は杖の先の飾りとし、肌身離さず持っていたのだとか・・・
すると、その様子を伝え聞いた定盛は、生業にしていたとは言え、自らの殺生を悔いて、すぐに空也上人の弟子になったという事です。
天禄三年(972年)9月11日・・・かつて、京都にまん延した疫病を鎮めるために、自ら刻んだ十一面観音像を安置した道場にて、空也は70歳の生涯を終えました。
この道場は、現在の六波羅蜜寺・・・
(行き方は本家HP:京都歴史散歩「四条から五条へ…祇園の路地歩き」でどうぞ>>)
その後、空也の遺志を汲んだ定盛らが、瓢を叩いて法曲を唱えながら京都市中巡行して、空也の教えを広めるようになるのですが、これが、その子孫たちに受け継がれ、現在、京都のお盆を彩る伝統芸能=六斎念仏になったと言われています。
なんだか、庶民を愛してやまなかった空也とともに生きた人々と、今もそこに住む京都の人々との間に、脈々と続く歴史を感じますね。
(六斎念仏の例年の日程・場所については本家HPの京都の年中行事のページ>>で…記載されている日程はあくまで毎年の予定ですのでご注意ください)
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コメント
神泉苑の老狐さんは一体何をしに現れたのか… というツッコミをしたら負けですかね。
ところで、茶々様は空也像の瞳、ご覧になりましたか?六波羅蜜寺の方に教えていただいたのですが、瞳は水晶でできているらしく、下から覗きこむようにして眺めるととってもキレイです。
投稿: 千 | 2012年9月12日 (水) 12時45分
千さん、こんにちは~
>神泉苑の老狐さんは一体何をしに…
そりゃぁもう、狐の時から恋をしていたのでせう(*゚ー゚*)
せっかく、その気になってくれたのですから、私なら、思いを遂げてから忽然と消えますが…
空也像のお話は、私は、確か中学の美術の授業で初めて聞いたと思います。
美術の先生が歴史建造物や仏像のお話が好きな先生だったので…
投稿: 茶々 | 2012年9月12日 (水) 16時14分