応仁の乱の影響…地方に伝わる京文化~一条教房の土佐下向
応仁二年(1468年)9月6日、前関白の一条教房が領地の土佐へと旅立ちました。
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つい先日も、10年にも及ぶダルダルの戦いのために、将軍家や管領家の権威が失墜したうえに、守護大名たちが長期京都に滞在するうちに留守を預かる守護代や土豪(どごう=地元に根付いた武士)が力をつけて・・・と、応仁の乱が及ぼした影響についてお話させていただきましたが(9月4日参照>>)、
もちろん、この大乱は、武士だけではなく、公家にも、長年に渡るその生活を変えねばならないほどの影響を与えます。
当時のお公家さんは、名目上の荘園という物を持っていますが、当然、戦乱となれば、実質的な実入りはほとんど無いわけで、公卿と言えど困窮を極めていましたが、今回の応仁の乱では、都=京都の市街戦となった事で、その命まで脅かされる事になります。
そんな中の一人が、前関白を務めていた一条教房(のりふさ)・・・
彼は、今回の応仁の乱で、屋敷は焼かれ、膨大な蔵書も焼失・・・命からがら、当時、興福寺大乗院門跡だった弟の尋尊(じんそん)(4月1日参照>>)を頼って、奈良へと避難していたのです。
ところが、間もなくそこに、父の一条兼良(かねよし・かねら)一家も避難して来て、なんとなく居づらい・・・
・・・で、一念発起した教房は、一条家領のあった土佐国(高知県)幡多荘(はたのしょう)中村(現在の四万十市)に下向するのです。
避難の意味とともに横領されっぱなしの荘園を取り戻すための土佐行きでしたが、それこそ、関白経験者のようなものスゴイ上位の人が地方に下るなんて事は、ほとんど無いわけで、京都の人々は大いに驚き、
「鬼が住むか蛇が住むかわからないような土地へ行くなんて!」
と、反対した貴族も多かったようですが・・・
しかし、男・教房・・・応仁二年(1468年)9月6日、一路、土佐へと向かいます。
彼らの一行が土佐に着いたのは9月下旬・・・現在の一條(条)神社(四万十市中村本町)のあるあたりに館を構えたと言いますが、予想外だったのが、地元の土豪たちに、意外に暖かく迎え入れられた事・・・
どうやら、当時の土佐には、未だ突出した大名もおらず、誰も彼もが似たり寄ったりな状況・・・そんな中で、我が町には、力と財は無けれども、中央にも顔の効くエライ人がやって来たわけで、地元としては大いに盛り上がり、教房を担ぎあげたのです。
ところで・・・
教房ほどの身分では無いにしろ、応仁の乱の時、避難の為に地方へ下った文化人は多くいて・・・
そう、実は、これが、もう一つの応仁の乱の影響・・・
連歌師の飯尾宗祗(いいおそうぎ・いのおそうぎ)(7月30日参照>>)が諸国を巡っていたのもこの頃で、それまでは、都の上層階級が独占していた『源氏物語』や『古今集』を地方に伝える役割を果たしたと言われていますし、応仁の乱終結を最後までゴネまくっていた大内政弘(まさひろ)(11月11日参照>>)も、乱を避けて下向する多くの文化人や知識人を受け入れていたとの事・・・
ご存じのように、大内氏の領国である周防(すおう=山口県)は、西の京都と呼ばれるほどの雅な文化を育んだ土地ですが、その最初こそ南北朝時代ですが、この応仁の乱の時にも、多くの都人を迎えた事で、その文化水準は、本場の京都以上になったとも言われています。
つまり、応仁の乱をキッカケに、多くの地方都市で「小京都」と呼ばれる場所が生まれたのです。
ただ、そんな文化人たちのうち、ほとんどが乱の終結とともに、再び都に戻るのですが・・・
よほど居心地が良かったのか?
教房は応仁の乱が終わっても都に帰る事なく、この地に住みつきます。
まぁ、彼にとっては、息子が応仁の乱の兵庫津(ひょうごのつ=神戸港)の戦いで(10月22日参照>>)、ただ港で船を待っていただけで巻き込まれて戦死してしまったという悲しい出来事も大きかったのでしょうが・・・とにかく、この地に骨を埋める覚悟を決めた教房は、この都とはかけ離れた土地に、見事、京都を再現するのです。
中村の町に碁盤の目のような道を整備し、四万十川の支流の後(うしろ)川を鴨川に見立て、京都から祇園社や八幡宮もお迎えして・・・
さらに、港の整備も行って貿易を推奨し、用水路や農地の整備も行った事で、この地は大いに発展し、まさに、本物の京都をしのぐ勢いだったとか・・・
おかげで一条家は、土佐随一の家柄になり、その屋敷も「中村御所」と呼ばれました。
当地では、今も、
毎年春には、教房入府の姿を再現した葵祭りを彷彿させる「土佐一條公家行列」、
夏には京都五山を彷彿させる大文字の送り火が行われているそうです。
そんな一条氏も、やがては、戦国大名と化していくのですが、そこに立ちはだかるのは、ご存じ長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・・・と、そのお話は7月16日のページでどうぞ>>
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コメント
茶々さん、こんばんは!
一條教房にとってはまさに大英断だった土佐への下向でしょうね。
それが、大勢力となり、戦国時代にあって飛騨の姉小路氏、伊勢の北畠氏と共に戦国三大国司の1つに数えられるほどになったのですから…
但し、本国(京都)の一條家本家からは煙たがられたようですよ。
瀬戸内海から九州にかけて、本家が支援していた戦国大名と利益を争う動きを見せたからなんですね。
おかげで本家から横やりが入り、本家の人間が土佐一條家を継ぎます。
しかし、今度は逆に本家の跡継ぎが途絶え、土佐一條家から本家に養子に入った事で、土佐一條家の活動は(一條家の中で)誰も文句を言えなくなり、戦国大名としての土佐一條家が興隆するようになったのだとか―
ps.
“土佐の小京都”と呼ばれる中村の街、訪れてみたい場所なんですよね!
投稿: 御堂 | 2012年9月 6日 (木) 22時37分
御堂さん、こんばんは~
>本国(京都)の一條家本家からは煙たがられたようですよ
へぇ、そうなんですかぁ
中村には、私も行ってみたいです。
投稿: 茶々 | 2012年9月 7日 (金) 01時36分
乱も悪いことばかりではない…!?なんてネ^^
土佐の中村ですか!私も行ってみたくなりました。
西の小京都山口~大内文化の残る我が県の小さな町もなかなかですヨ。
特に瑠璃寺の五重塔は四季折々に本当に美しく全国色々と見て回った中でも最高クラスだと思います。
あらっ、お国自慢になっちゃいましたんね、ごめんなさい^^;
投稿: tonton | 2012年9月 7日 (金) 10時19分
tontonさん、こんにちは~
西の京・山口…イイですね~
そりゃぁ、お国自慢したくなりますよ!
確か、雪舟が、この頃に長期滞在してましたよね?
雪舟作の庭園もあるとか…見てみたいです。
投稿: 茶々 | 2012年9月 7日 (金) 12時39分
文化は女性をつくるものとしたら、幡多の女性は四国では、きめ細やかな思いやりがある、と言われ、京文化の感化が垣間見られるようです。山口は静かに歴史が薫っている町ですね。四国には畿内等から多くの人が逃れてきているように思います。
以下はたわ言ですが、小生がつながる本家は「応仁の乱後、京都から移り住んだ武士のあと」と郷土史に記述があります。天正三年(1575)春、長宗我部元親に郷土は攻められ、棟梁大野家源内以下全滅した歴史があり、形があるのは元録時代八幡宮に寄進した石灯籠の名前ほかはその時代以降の墓石しか確認できません。小生は秀吉か家康の時代に京都から落ちてきたのではないかと不遜ながら感じています。家紋は丸に笹竜胆。帰郷して墓参りすることもなくなりました。申し訳ありません。
投稿: 植松樹美 | 2012年9月 7日 (金) 14時56分
植松樹美さん、こんばんは~
地元の事や、自分の出自に関係する歴史は、やはり思い入れが大きい物ですね。
投稿: 茶々 | 2012年9月 7日 (金) 20時50分
応仁の乱後、岩手県の久慈あたりに流れた
公家はいるでしょうか。
投稿: 岩城 史郎 | 2015年1月17日 (土) 19時00分
岩城 史郎さん、こんばんは~
岩手県では遠野が、京文化の影響を受けたとされているようですが、久慈の事は、残念ながらよく存じあげません。
久慈の浜に、どこやらのお公家さんの船が流れ着いたなんて伝説を小耳に挟んだ事もありますが、話の出どころを知らないので、何とも…
久慈市史などには書いてあるかも知れませんね。
お役に立てなくて申し訳ありません。
今度、また、調べてみますね。
投稿: 茶々 | 2015年1月18日 (日) 02時24分
応仁の乱以降京の文化が地方に広がり
日本中の教育レベルがぐんと上昇し
以降の日本人の資質につながったと聞いたことがあります。
和算の発展にも応仁の乱で知識人が地方に広がったことが一つの必要条件であったとか。
このあたりの所見をお願いします。
投稿: ととととと | 2017年6月 8日 (木) 19時19分
とととととさん、こんばんは~
和算ですか…
和算については、大きく発展する江戸時代より以前の事は、私は、あまり存じ上げません。
また調べてみたいと思いますが、古い時代は、陰陽系の政府官僚家の一子相伝のような雰囲気もしますね。
どうなんでしょ?
投稿: 茶々 | 2017年6月 9日 (金) 02時07分