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2012年9月23日 (日)

「鞭声粛々…」~革命の思想家・頼山陽の死

 

天保三年(1832年)9月23日、歴史・文学・美術などの分野で活躍した江戸時代後期の漢学者=頼山陽が53歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・

Raisanyou500 ♪鞭声粛々 夜 河を渡る
 暁に見る 千兵の大牙を擁するを
 遺恨十年 一剣を磨き
 流星光底 長蛇を逸す♪

上杉謙信と武田信玄による川中島の合戦(9月10日参照>>)を詠んだ有名な歌・・・

これを作った人が頼山陽(らいさんよう)です。

詩や書にその才能の発揮し、朱子学の研究を進めながら、大坂江戸堀北(大阪市西区)にて私塾・青山社を開いていた頼春水(らいしゅんすい)の長男として生まれた山陽にとって、自らも学問の道に進む事になるのは、ごくごく自然の事でした。

父の転勤に伴い、6歳から広島で暮らす事になった山陽は、その多感な時期に様々な学問を吸収し、やがて文学から歴史に興味を示し始めます。

14歳にして、すでに
「何とかして、永遠に歴史に残るような人物になりたい!」
と思うようになった山陽・・・

その後、父が江戸在勤になった事もあってか、18歳で江戸に出て昌平坂(しょうへいざか)学問所昌平黌)に1年間遊学しますが、そこで、心にグッと来る何かがあったんでしょうね~

帰国してまもなく、広島藩医・御園道英(みそのどうえい)の娘・淳子と結婚しますが、わずか1年後に突如として脱藩・・・家出して京都へと向かいます。

しかし、2ヶ月後に連れ戻され・・・脱藩の罪により奥さんとは離縁し、山陽自身も廃嫡(はいちゃく=後継ぎから排除される)され、自宅で幽閉の身となります。

ところが、これが彼にとっては、逆に学問に専念するチャンスとなり、この期間に一気に、彼の代表作となる『日本外史(にほんがいし)を書きあげます。

この時書かれた『日本外史』は、その後、20年かけて改訂され、山陽47歳の時に本格的な完成となって、老中の松平定信に献上された後、2年後の文政十二年(1829年)に発刊されて大ベストセラーとなるのですが・・・

この『日本外史』・・・平安末期の源平の争いに始まって、同時期の第10代江戸幕府将軍の徳川家治の治世までを扱う、武家の歴史を書いた物ですが、その歴史に山陽の思想が絡めてあって、どちらかと言うと歴史物語みたいな感じで、歴史書ととしては、当時から評価が低かったのですが、これが、幕末の勤皇思想の志士たちのバイブルとなり尊王攘夷運動の際に多大な影響を与える事になったわけです。

とは言え、それはまだ先の話で・・・
26歳で幽閉が解かれた山陽は、以前から彼の優秀さをかってくれていた父の友人・菅茶山(かんちゃざん・かんさざん)が広島で開いていた私塾・廉塾(れんじゅく)塾頭として招かれますが、やはり、学者として更なる高みに登りたい彼は、32歳で、再び京都に出奔・・・

この時も、藩に無届けの脱藩同然の京都行きだったために、再び罪に問われるところでしたが、周りが奔走してくれたおかげで、何とか「茶山の意向による京都行き」という大義名分を獲得してくれて、晴れて、堂々と、念願の京都に落ち着ける事になりました。

上洛から10年後の文政五年(1822年)、43歳になっていた山陽は、京都の三本木(上京区)に屋敷を構え水西荘と名づけ、先ほどの『日本外史』の改訂などをはじめとする様々な書物を著す事に没頭するのです。

もちろん、その間に、彼の、学者&文人としての評価も高まり,京都文壇において確固たる地位を築いていく事になるのですが、それと同時に、姿なき敵が、足音をたてずに忍び寄って来ていたのです。

天保三年(1832年)6月12日、自宅にて山陽は、初めて吐血しました。

どうやら、彼自身は、すでに、自らの肺が病に冒されている事を密かに感じていたようですが、その事を知らなかった家人は大いに驚き、慌てて、知り合いの医師を呼んだと言います。

しかし、知らせを聞いた複数の医師たちが駆けつけると、山陽は平然と机に向かい何かを執筆中・・・そう、この時、山陽は『日本政記(にほんせいき)というのを、書いている真っ最中だったのです。

医師の一人で友人でもあった小石元瑞(こいしげんずい=檉園)が診察し、その診断を正直に伝えます・・・
「この病は死病である」「もう、助からない」
と・・・

すると山陽は、
「死ぬのは寿命やねんからしゃぁないけど、やりかけの仕事が残ってるから、それは仕上げたいなぁ」
と、1ミリとて慌てふためく事無く、静かに話したとか・・・

以来、いくつかの著書の完成に向かって奮闘するその姿は「鬼気迫るもの」があったと言います。

中でも、先の『日本政記』については・・・
他の紀行文などは、同行した弟子たちに引き継がせたものの、これだけは自身の手で書く事に重きを置き、猛然と追い込みをかけます。

しかし、その後も度々吐血し、病はどんどん重くなっていきます。

そんな中でも、9月9日に、転勤の挨拶に訪れた友人の儒学者・猪飼敬所(いがいけいしょ)には、病である事をまったく悟らせず、南朝と北朝の系統の正統性について論議を交わし合ったと言います。

ただ、その時
「今の朝廷は北朝の系統やから、君みたいに南朝が正統やてな事言うたら、今の天子様に失礼なんちゃうん?」
という敬所の質問に
「今の朝廷は、神武より正統の譲りを受けた大一統の朝廷やないかい」
てな感じで反論したとか・・・

ただ、やはり病気のために、この時は、未だ納得のいく論議では無かったようで、敬所が帰った後に自らの論点をまとめあげ、その思いを、かの『日本政記』につけ加えたのです。

こうして、天保三年(1832年)9月23日頼山陽は53歳の生涯を閉じますが、その日、かの『日本政記』は、見事、完成に漕ぎつけていたのです。

死の少し前、山陽は自らの肖像画に自賛文を書いた事があったのですが、
そこには
「貧困ではあったけれど、いつも政治の事を考え、人民の幸福と国家の繁栄を願い、権力に屈する事無く自立して頑張り、人民の寒さや飢えを救う事だけ考えて、この手を動かして来たんや」
と、自らの人生を記しました。

そして、その最後に
「この一幅は20年間、人に見せてはならぬ」
との但し書きを付け加えたとか・・・

果たして、山陽の死から21年後嘉永六年(1853年)6月3日浦賀沖に、あのペリーの黒船が姿を現す(6月3日参照>>)・・・革命の思想家=頼山陽は、死してなお、光り輝く事になります。
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コメント

日本外史は、南北朝の頃を少しだけ読んだことがありますが、頼山陽については、殆ど知らず、面白く、読ませて頂きました。(拍手)

貧しくても・・・、そのフレーズが、近代日本を支えましたよね。江戸時代の日本人の暮らしから生まれた精神だった訳ですね?。

投稿: 五節句 | 2012年9月24日 (月) 11時49分

五節句さん、こんにちは~

山陽さんには、この先の幕末の動乱も見えていたようで、なんだか不思議ですね。

投稿: 茶々 | 2012年9月24日 (月) 13時38分

はじめまして、いつも勉強させて頂いております。
おととい京都に行き、長楽寺で頼山陽のお墓を見つけたのですが、誰だっけ~誰だっけ~と名前以外は覚えていない状態。
ありがとうございました、どんな人か分かって、すっきりしました(笑)。

投稿: りんどう | 2012年9月24日 (月) 21時19分

りんどうさん、こんばんは~

そうでした…
お墓は長楽寺でしたね。
確か、山陽の遺言でそこに埋葬したんだったと記憶してます。

投稿: 茶々 | 2012年9月25日 (火) 01時22分

こんばんは~!
山陽さんは、昔読んだ本には結構世渡り上手で賢いとありました。外記にも「幕府凄い、今が絶頂」と幕府を褒める文章があったから、本が幕府に睨まれることなく出版できた、と書いてました(今が絶頂はマズいんじゃ?と思いますが(笑))。そして、弟子の大塩平八郎をいつも「君は直情傾向すぎる」と心配してたとか。
しかし、なかなかどうして、実は情熱的で直情傾向だったんだな、と思い直しました。もしかして、本来の自分に似てるから、平八郎がかわいくまた心配でもあったのかもしれません。
私も正直あんまり知らなかったので、勉強になりました。ありがとうございます。

投稿: おみ | 2012年9月26日 (水) 20時28分

おみさん、こんばんは~

後先考えずに出奔してまうトコは情熱的みたいですが、世渡り上手なところもあるかも知れませんね。

旅をする時は要所々々で書を書いて売ったりして、ほとんど元手無しで旅してたみたいですから…意外とチャッカリしてはるのかも

投稿: 茶々 | 2012年9月27日 (木) 02時47分

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