三木城・籠城戦・逸話~秀吉と谷大膳の話
天正六年(1578年)9月10日、織田信長に反旗を翻した別所長治の居城・三木城を、配下の羽柴秀吉が攻撃した三木城・籠城戦で、谷大膳が討死しました。
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三木城の攻防戦の流れについては、一応書かせていただいております2012年3月29日のページ>>でご覧いただくとして・・・
本日は、その三木城攻防戦の中で、『常山紀談』や『武将感状記』に語られる羽柴(豊臣)秀吉と谷大膳衛好(だいぜんもりよし)のお話・・・
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大膳は、この三木城の攻防戦の時に、織田信長がら秀吉につけられた与力・・・つまり、秀吉の直属の家臣では無いわけですが、この時は、平井山に陣を敷き、三木城への兵糧補給路を断つという任務を預かっておりました。
三木城包囲之図…白い部分が三木城主郭で、川を挟んだ右の大きいピンクが秀吉の本陣
この大膳は、なかなかの武勇の持ち主で、かねてから、そのウデに惚れ込んでいた秀吉は、
「どや、いっちょ、あの三木城の出丸を攻め落としてくれへんか」
と頼みます。
出丸とは、城から張り出した形になっている最前の防衛線・・・
「いや、あの出丸は守りが固くて。ちょっとやそっとで落とせるもんやおまへん」
と大膳・・・
すると秀吉は・・・
「なんや、日頃、武勇に優れた猛者やと評判のお前が、出丸一つ落とせんのか?」
と、ちょっとバカにしたような口調・・・
この言い方にカチンと来た大膳・・・
一方の秀吉も、その怒り心頭の大膳を見て、刀に手を掛け、まさに一触即発の状況となります。
そこに慌てて入って来たのが、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)と蜂須賀小六(はちすかころく)・・・
「もう、二人とも何やってはりますねん!」
「武将たる者、戦場でこそ武勇を誇るべき・・・こんなとこで、刀振るて、どないしますねん」
と、なんとか二人をなだめすかして、事無きをえました。
その夜、落ち着いてから、昼間の言動を深く反省した秀吉・・・
自ら、大膳の陣に酒の肴を持って現われ、
「さっきは、ゴメンな・・・
あれは、ホンマ俺の失言やし、めっちゃ、反省してるよってに…」
と、本人に向かって、本気の謝罪をしました。
この時は、秀吉を許したかに見えた大膳・・・
しかし、翌朝・・・天正六年(1578年)9月10日、大膳は、その出丸を攻めるのです。
やはり、大膳にとって、昨日の秀吉の発言は許し難く、ひどくプライドを傷つけられたと感じていたのかも知れません。
案の定・・・大膳の予想通り、出丸の守りは固く、城の者たちの決死の抵抗に遭い、戦いは激戦となります。
さすがの大膳は、その中を幾度となく押し進むのですが、またたく間に数か所の傷を負い、やがて、その動きも鈍って来る・・・
ますます敵味方入り乱れた戦場で、大膳とともに、この戦いに参加していた息子が父の姿を目に留めて近寄りますが、その時は、すでに、大膳は、息をひきとっていたのです。
壮絶な討死でした。
その一報を聞いて
「惜しい人物を亡くしてしもた」
と涙にくれる秀吉は、
「例え遺骸であろうとも、もう1度大膳に会いたい」
と、その日、再び、大膳の陣を訪れたのだとか・・・
やはり、戦国武将たる者・・・その死を以ってでも守りたい名誉という物があるのかも知れません。
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