源平激突!富士川合戦
治承四年(1180年)10月20日、源頼朝率いる源氏軍と、平維盛率いる平家軍の富士川の戦いがありました。
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平清盛(たいらのきよもり)という大黒柱を中心に、全盛を誇る平家のもとで不遇の日々を送っていた以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が、治承四年(1180年)4月に発した平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)・・・(4月9日参照>>)
おそらく、朝廷を中心とした政治が、普通に立ち動いていた時なら、親王宣下(しんのうせんげ=この先に天皇になるかも知れない皇子は宣下を受け親王となります)すら受けていない以仁王の令旨など、それほど有効とは思えないシロモノなのですが、
この前年の11月に、清盛は、『治承三年の政変』と呼ばれるクーデターを決行し、後白河法皇(ごしらかわほうおう)を幽閉して院政をストップさせ、法皇の近臣や関白以下・公卿39名を解任しています(11月17日参照>>)。
つまり、天皇以下、皇室や公家による政権が、まともに機能していなかった状態なワケで、そんな中での以仁王の令旨は、各地でウズウズしている反平家勢力に、挙兵する大義名分を与えるには充分だった事でしょう。
ただ、その以仁王とともに動いていた源頼政(みなもとのよりまさ)は、未だ万全な準備が整わぬうちの治承四年(1180年)5月26日、宇治川の露と消える事になるのですが(5月26日参照>>)、
続く8月、令旨をを受け取った源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆で(8月7日参照>>)・・・
9月には北陸で木曽義仲(きそよしなか・源義仲=頼朝の従兄弟)が、相次いで挙兵します(9月7日参照>>)。
そんな中、伊豆での挙兵の後の石橋山では九死に一生の苦戦(8月23日参照>>)をした頼朝ではありましたが、房総半島を北上しながら反平家を呼び掛けた事で、衣笠城の戦い(8月27日参照>>)に見るように、彼に味方する東国武士が、頼朝のもとに続々と集まって来るようになります(9月3日参照>>)。
やがて、頼朝が鎌倉を本拠と定める中、時を同じくして、武田信義(たけだのぶよし)・一条忠頼(いちじょうただより=信義の嫡男)・安田義定(やすだよしさだ)ら甲斐源氏の面々も挙兵します。
この甲斐(山梨県)の源氏たちの挙兵が、最初っから頼朝と連携していたかどうかは、史料が無く、微妙なところですが、少なくとも、清盛は、この時すでに連携していると思ったのでしょう・・・自らの嫡孫=平維盛(これもり=重盛の息子)を指揮官にした頼朝討伐軍を関東に派遣する決意を固めるのです。
9月29日、平忠度(ただのり=清盛の弟)・平知盛(とももり=清盛の四男)らとともに京都を出立する維盛・・・侍大将として従うのは藤原忠清(ふじわらのただきよ=坂東八ヶ国の侍別当…関東平氏のまとめ役)、
とは言え、このところの近畿地方は大変な飢饉で、兵糧はもちろん、まともな訓練もできないほどだったとも言われ、東進する中で、各地の武士を参戦させて、人数こそ増えていった平家軍でしたが、その士気は、あまり高いとは言えず、寄せ集め感も拭えない大軍でした。
しかも、彼らが出立した後に、平家が駿河国(静岡県東部)の統率を任せていた橘遠茂(たちばなのとおもち)が、かの武田信義に攻め込まれて討死してしまうという出来事が・・・これが、10月14日の事・・・
当時の駿河には、遠茂亡き後の武士たちを統率できるほどの実力者がいなかった事を考えると、おそらく、ここで、駿河の武士たちは、信義率いる甲斐源氏の傘下となったと思われます。
そんなこんなの状況で、今回の富士川の戦いに突入するわけですが・・・
この、本チャンを去る事3日前の10月17日・・・甲斐源氏の信義は、来たるべき合戦に際して
「浮島原(うきしまがはら)で正々堂々と戦いましょうや!」
という内容の手紙を使者に持たせました。
ところが、この書状を受けた藤原忠清は
「お前ら、謀反人のくせに、何、エラそうに、官軍の俺らと同等に戦おうとしとんねん!アホか!」
と、この使者を斬ってしまうのです。
そして、その翌日・・・つまり10月18日に、平家軍は富士川の西岸に布陣します。
ところが、その日の夜、数百名の兵士が、甲斐源氏に寝返って投降したとか・・・これが本当だとすると、平家軍の士気の低さに比べて、ヤル気満々の甲斐源氏が、すでに富士川の東岸に布陣しており、それが、ひしひしと伝わる状態だった事が推測されます。
かくして治承四年(1180年)10月20日夜、甲斐源氏が動きます。
信義は、自らの軍を二手に分け、一方はそのまま富士川の東岸に陣取り、もう一方を夜のうちに北方へと向かわせ、富士川の上流にて渡河させ、朝までに平家軍の西側背後へと回らせる・・・つまり、平家軍を挟み撃ちにする作戦です。
・・・で、この時、富士川の沼地を渡る兵士たちの気配に怯えた数百羽の水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音を鬨(とき)の声と勘違いした平家軍の兵士が、「源氏の夜討ちだ~!」と大騒ぎとなり、兵士たちは、矢も弓もその場に置いて我先に逃げ出し、他人の馬に乗って逃げるヤツ、杭につないだままの馬に乗ってつんのめるヤツ、近在から呼び寄せた遊女をほったらかしにして裸のまま走るヤツ・・・。
と、総大将・平維盛以下5万の兵は、その夜のうちに一兵残らず姿を消してしまいましたが、翌朝、そうとは知らない東岸の源氏軍が渡河作戦を決行・・・
しかし、いくら進んでも敵陣からは矢の1本も飛んでは来ない事を不思議に思って、兵士を偵察に向かわせたところ「皆、逃げてました」と・・・
対岸に着けば、そこは何もかも、ちらかりっぱなしの無残な状態・・・やがて、武田勢と合流した頼朝は、水鳥の羽音を聞いて逃げたのだと聞いて一同大笑いとなる・・・
と、まぁ、富士川の戦いと言えば、この「水鳥の羽音に驚いて戦わずして平家は逃げた」という事だけが強調されますが、それ以前の甲斐源氏の動きや駿河の状況を見れば、平家軍は、あえて合戦をしなかったようにも思います。
未だ統率のとれない自軍に対し、対岸に布陣する敵を見て、「今は戦わないほうが得策」と判断したのではないかと・・・
「逃げた」というと聞こえは悪いですが、「勝ち目の無い戦はしない」とういのが、孫子の時代からの合戦のセオリーであったわけですから、この時点では、それが正解であった可能性が高いです。
ただ、この後の平家・・・いや、清盛に「それほど時間が残っていなかった」というのが、今後の展開への最大のポイントだったような気がします。
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