娼妓解放令と三英傑の人身売買禁止
明治五年(1872年)10月2日、明治政府による芸妓・娼妓・奉公人の人身売買の禁止、年季奉公の制限と前借金の無効宣言した娼妓解放令が布告されました。
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実はコレ、以前書かせていただいたマリア・ルーズ号事件に関係して布告された法令です。
この事件は、明治五年(1872年)6月5日、嵐で破損した船体の修理のために横浜港に入港したペルー船籍の汽船=マリア・ルーズ号が、実は清国(中国)人奴隷を運ぶ奴隷船だった事が発覚した事で、時の外務大臣・副島種臣(そえじまたねおみ)は、船長らを逮捕して、船には横浜港からの出港停止を命令を出し、その後、「清国人奴隷全員の解放を条件に出港を許可する」とした事件です(9月13日参照>>)。
しかし、相手側は、「これは奴隷船ではなく移民船である」と主張し、さらに「日本にも遊女という奴隷制度がまかり通っているのに、なぜ、俺らだけが罪になる!」と、日本の、年季奉公の証文を差し出しながら抵抗・・・
とにかく、この時は、強引に日本側の主張を押し進めた事で、その年の9月13日に、マリア・ルーズ号に乗っていたすべての清国人が解放され、帰国の途についたのですが、「おそらく、相手国のペルー政府も、このままでは引き下がるわけはない」という予想のもと、次の交渉で、相手側に痛いトコ突かれないよう、対処したのが、明治五年(1872年)10月2日の、この娼妓解放令(しょうぎかいほうれい)・・・とい事ですが、わずか半月で布告に漕ぎつけるスピードは大したものです。
とは言え、お察しの通り、この法令1発で、年季奉公という名の人身売買がバッサリと無くなるというワケはなく、その後も手を変え品を変え・・・結局は、もうしばらく続く事になりますが・・・
なんせ昔は、現在のように生活保護があるわけでもなく、大飢饉に襲われて餓死者が続出しても、その損害を補てんしてくれる制度も無いわけですから、売る物が無い貧困家庭なら、「一家全員が飢えて死ぬよりは…」という考えがあった事も確かです。
薩摩の有力豪族だった二階堂氏には、ある1通の証文が残っているそうですが、そこには・・・
「永正八年(1511年)辛未年の飢饉たるによて、あさ(字)名初と申女子年廿二歳(22歳)に罷成(まかりなり)候(そうろう)を、永代に二階堂山城守殿おうちさま(奥さん)に飢饉相伝の下部(しもべ)と身をはめ申候事実也(じつなり)。
右件(くだん)の御下部と罷也候うへは、於以後に、違乱防(いらんさまたげ)を親類兄弟などとて申者あるまじく候。
若(もし)にけはしり(逃走)候て、如何なるけんもん(権門)富家神社仏寺の御領内へ罷入り候共、以此状御さた(沙汰)あるべく候。
其時一儀一口のあらそひ申べからず候。
仍(よって)為後日証文如件(くだんのごとし)。」
という文章とともに、初本人のサインが書かれてあるとか・・・
「親類兄弟も一切異議を唱えない」
「逃亡して、有力者や神社仏閣に逃げ込んでも、この証文を示されたら、ひと言も争わない」
なんとも悲しい限りですが、上記の通り、「一家全員が餓死するよりは…」と、娘さん自らが身売りを決意する事もあったと言います。
また、有名なところでは、「花いちもんめ」・・・
これは、手をつないでグループになった二組が向かい合って
♪ふるさとまとめて花いちもんめ
あの子がほしい あの子じゃわからん…♪
と歌いながら、ジャンケンで仲間を奪い合うゲームですが、
「花」は咲いてる花ではなく、「花代」・・・つまり、娼婦に支払う代金の事で、「いちもんめ」は、文字通り「一文目」という金額・・・
♪勝ってうれしい♪は
「買ってうれしい」という人買いのセリフで、
♪負けてくやしい♪は
「(値段を)まけてくやしい」という売る側のセリフだとも言われていますね。
ただ、もしそうだとしたら、身売りする状況が、子供の遊びとして残っているなんて、現代の感覚では理解し難いですが、ひょっとしたら、まだ、そっち=食べるために身を売る方がマシだったという事なのかも知れません。
そう、実は、戦国時代にはもっと悲惨な「乱取り」による人身売買というのが公然と行われていました。
戦国時代に終わり頃には・・・
- 天正十五年(1587年)6月18日に豊臣秀吉が日本人を奴隷として海外へ売る事を禁止(6月18日参照>>)
- 天正十八年(1590年)4月27日に同じく秀吉が上杉景勝らの人身売買を禁止
- 慶長十四年(1619年)12月22日江戸幕府が12箇条の「人身売買禁止令」を発布
- 寛永三年(1626年)4月27日江戸幕府が人身売買を禁止
と、度々、人身売買の禁止令が出ています。
それだけ、たくさんあったという事ですね。
有名なところでは、義の人として知られる上杉謙信が・・・
実は、謙信の度々の関東遠征は、豪雪地帯である領内の冬季の口減らしのためと、乱取りによる出稼ぎのためだったとも言われています。
(もちろん、それだけではなく関東管領などイロイロ理由がありますが…)
乱取りとは、戦闘ではなく、いわゆる略奪行為・・・放火や刈田をして一般民衆を襲い、その家にある食糧や物品はもちろん、人まで誘拐して売り払い、農閑期の生活を成り立たせていたのです。
謙信が北条と戦った小田原籠城戦の時には、人身売買の市がたったという記録もあります。
また、以前、志賀城攻略のページ(8月17日参照>>)でご紹介した武田信玄も有名で、言わば身代金のような格好で、法外な値段をつけて身内に返すという方法で儲けていたと言われます。
ただ、この場合、家族が、その提示された金額を払える場合は、何とか無事、取り返せますが、払えない場合は、やはり悲惨な結果となります。
なにぶん、謙信も信玄も、そして多くの戦国大名たちも、未だ兵農分離されておらず、合戦に動員される兵士の中で8割が一般農民だったとも言われ、農閑期の彼らが、稼ぐためには、乱取りしかないのが現状でした。
それを、打ち破ったのが兵農を分離させた織田信長・・・兵士は兵士として稼ぎ、農繁期&農閑期に関係なく、1年中いつでも戦えるプロの戦闘集団にした事で、乱取りなどしなくても生活できるようになるわけで・・・(もちろん、信長の時点では未だ完成形にはほど遠かったとは思いますが…)
信長の場合は、黒人奴隷を連れて日本にやって来て、九州のキリシタン大名たちをはじめ、アジア各国で人身売買をする宣教師たちに対して
「ウチは人身売買を禁止してるんやから、君らも、もう、やめたら?」
てな事を言っていたようなので、たぶん、してなかったのでしょう。
そして、上記の通り、秀吉も禁止しているので、たぶんやってない・・・一説には、秀吉が出した切支丹禁止令も、その理由の一つには、当時、宣教師を通じてヨーロッパと交易していた九州のキリシタン大名が、何万人もの九州の女性を交易に使っていた事を禁止するためもあった(6月18日参照>>)と言われます。
さらに徳川家康も・・・さすが三英傑です。
ただし、この場合も、そして、江戸時代を通じても、年季奉公など、お金のために・・・というのは禁止してはいないのですが・・・
それを禁止するためには、やはり貧困層への支援が必要ですから、もう少し、時を待たねばならなかったのかも知れません。
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コメント
驚きです^^;
知らない方がいい歴史・過去もあるのかも…。
知ってしまいましたよ~。
いつの時代も表裏、光と影があるみたいですね^^
投稿: tonton | 2012年10月 3日 (水) 09時48分
tontonさん、こんにちは~
確かに…
知るとショックな事もあるかもしれませんが、おっしゃる通り、光と影の両方の歴史があって、現在の日本があります。
以前、紹介させていただいた富岡製糸場>>は、国営なので大丈夫でしたが、それに続く営利重視の過酷な工場で働いてくれた工女さんのように、現在の私たちの幸せのために、歴史上の多くの人が頑張ってくださった事に感謝しなくては…と思います。
投稿: 茶々 | 2012年10月 3日 (水) 13時02分
森鴎外の「山椒大夫」も、人買いですよね。教科書に載っていました。
投稿: やぶひび | 2012年10月 4日 (木) 17時38分
やぶひびさん、こんばんは~
そうですね~
今も、教科書に載ってるんでしょうか?
あれも、騙されて…のパターンですね。
投稿: 茶々 | 2012年10月 4日 (木) 18時52分
娼妓解放令により、娼妓の身分は建前上「個人営業の娼婦」となりましたが、実態は解放令以前と同じまま。しかし、建前上「個人営業の娼婦」となったことにより、妓楼側は「個人営業の娼婦に衣装や部屋をレンタルしている」との触れ込みで、貸衣装代や貸座敷料の名目で娼婦からお金を徴収していたそうです。娼婦はそれらを払わなければ仕事ができず、かといって身を売るような身の上の女性が現金で払えるわけもなく、それらは借金に上乗せされ、頑張れば頑張るほど借金がかさんでいくという悪循環だったそうです。
グレーなものをなくそうという意図で行った施策が、かえってグレーなものをブラックなものにしてしまうことは現代でもありますよね。より良いあり方を模索する過程においては、そういう段階が生じてしまうのは避けられないことなのかもしれませんが。信長の兵農分離のような、そういう暗黒面を生み出す土壌自体に手を付ける施策は大事なことだと思います。
投稿: おぺりん | 2012年10月 6日 (土) 00時51分
おぺりんさん、こんばんは~
そうですね~なかなか1発で無くなるってワケにはいきませんからね~
tontonさんのコメントにも書かせていただきましたが、明治のこの後に、まだ「ああ野麦峠」の時代がありますからね~
投稿: 茶々 | 2012年10月 6日 (土) 01時42分