足利尊氏の天龍寺・創建で大モメ
延元四年・暦応二年(1339年)10月5日、足利尊氏が天龍寺を創建しました。
・・・・・・・・・・・
ともに鎌倉幕府を倒したものの(5月22日参照>>)、その後に、後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に不満を持った足利尊氏(あしかがたかうじ)が反旗をひるがえして京都を制圧した(6月28日参照>>)事で、吉野へと逃げた後醍醐天皇が、コチラでも朝廷を開く・・・これが、約60年の長きに渡る南北朝時代(10月27日参照>>)なわけですが・・・
(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)
この間の両者の戦況に関しては、おおむね北朝が有利で、特に南朝=延元三年、北朝=暦応元年(1338年)の頃からは、しばらく戦闘も無く、京都の町では平穏が保たれていました。
とは言え、長きに渡る戦乱で国家の財政は破たんし、朝廷の儀式や年中行事は、しばらくの間、断絶したままになっていました。
古今東西、祭という物は、国家が安泰してしっかりとしている状況で行われる物で、これが怠っているという事は=政治が失墜しているという事・・・
そんな中、延元四年・暦応二年(1339年)8月16日、あの後醍醐天皇が、都奪回を夢見たまま、吉野にて崩御されます(8月16日参照>>)。
そこで、尊氏の信頼篤い禅僧・夢窓疎石(むそうそせき・夢窗疎石)(9月30日参照>>)が進言します・・・
「今もなお、国家の混乱が続くのは、亡き後醍醐天皇の怒りが深いからではないでしょうか?
災いを鎮めるためにも、その菩提を弔う寺院を建立しませんか?」
その言葉に、尊氏も、その右腕として活躍する弟の足利直義(ただよし)も納得・・・延元四年・暦応二年(1339年)10月5日、天龍寺の創建が決定したのです。
こうして、第88代・後嵯峨(ごさが)天皇の亀山離宮跡で始まった造営ですが、費用がどうしても足りず、途中で、幕府は、あの蒙古襲来(7月1日参照>>)以来途絶えていた元との貿易を再開して、何とか、その費用を捻出・・・
かくして興国六年・康永四年(1345年)、ようやく完成に漕ぎつけました。
京都・嵐山にある天龍寺…天龍寺への行き方は、姉妹サイト:京都歴史散歩の「竹林の里・嵯峨野&嵐山」でどうぞ>>
ところが、ここで大きな問題が起こります。
その落慶供養の席に、光厳(こうごん)上皇(7月7日参照>>)が出席する事を知った比叡山延暦寺が「待った!」をかけて来たのです。
当時、国家を護持する役目を負っていたのは比叡山を頂点とする天台宗山門のみ・・・そうではない天龍寺でやられては、比叡山の面目が丸つぶれです。
比叡山は、早速、夢窓疎石の流罪を要求すると同時に、天龍寺の破却を朝廷に願い出るのです。
これを受けた朝廷の会議では、喧々諤々の議論が交わされます。
「朝廷と山門の間には長い歴史があり、それを崩してはいけない」・・・なので、山門の意見を聞くべきという保守派。
「いやいや、理不尽な要求を突き付けて来る山門こそ罰するべき」・・・というイケイケ派。
「両者の意見が対立してるんやったら、禅宗(天龍寺)と天台宗(延暦寺)で宗論(しゅうろん=宗教論で議論)で戦ってもろて、勝った方の言う通りにしたら?」・・・なんていうノホホン案も・・・
もはや収拾がつかない中、声を挙げたのは時の関白・二条良基(にじょうよしもと)・・・
「両方とも、ちゃんとした宗教やし、宗論で甲乙つけるなんてできんやろ。。。
それにしても、ここンとこ、政治の事は、皆、幕府が勝手に決断して処理して・・・いや、決める事は、えぇんやけど、普通、その決定を、最後に朝廷に委ねて、朝廷の決裁を仰ぐのが、これまでの道筋やんか。
どやろ?
今回は、その昔の方法を取るっちゅー事で、まずは幕府に処断してもろて、その結果を勅裁(ちょくさい=天皇による裁決)で仰ぐって事にしてもろたら・・・」
「・・・って、結局、幕府まかせか~~い!」というツッコミをする者もなく、むしろ、「もっともだ」という事になり、この問題は、そのまま、幕府へと持ちこまれます。
て、ゆーか、そもそも、創建してるのが尊氏なのに、そんなもん、幕府に委ねたら、イケイケ意見になるに決まってまんがなwww
案の定、尊氏らの意見は
「同じ仏教同志でいがみ合うて、供養を邪魔すんねやったら、武力でいてもたるだけやないかい!」
と、比叡山の意見を全面却下!!
怒った比叡山は、奈良の興福寺に呼びかけ、強訴(ごうそ=僧兵の武力で以って集団で訴え要求する事)の構えです。
武力と武力のぶつかり合いに困ったのは朝廷・・・なんせ、今回は南都と北嶺(ほくれい)の僧兵が合同でやって来るのですから、ドえらい事に・・・
重臣たちは、何とか光厳上皇に供養への出席を取りやめてもらい、上皇には、供養の翌日に、仏縁を結ぶために天龍寺へ詣でていただく・・・という形をとる事にしました。
これには比叡山も納得・・・何とか、無事、事が収まりました。
かくして興国六年・康永四年(1345年)8月29日、尊氏をはじめとする幕府の重臣&公家のお歴々が、豪壮かる華麗なる大行列を整えて天龍寺に参拝し、空前絶後の豪華な供養が行われました。
予定通り、その翌日に、花園上皇&光厳上皇が参拝されたという事です。
めでたしめでたし・・・
難しい事は、よくワカランのやけど・・・
なんか、葬式のやり方でモメる親戚のオッチャンたちみたいですな・・・(ヘンな例えしてスンマセン)
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コメント
「権力」とはいやはや恐ろしいものですね。
いつの時代も…困ったものです^^;
後醍醐天皇が今も眠る!!天龍寺~訪ねてみたくなりました^^
「私を京都に連れていって~」って
先日のタイトルを思い出しながら
急に上洛したくなっちゃいました^^
紅葉は間もなくでしょうか。
投稿: tonton | 2012年10月 7日 (日) 16時16分
tontonさん、こんばんは~
やっと秋めいて来た…って感じですね~
彼岸花が過ぎ、今はコスモスが満開です。
紅葉はもう少し先ですね、、、
京都は、11月の勤労感謝の日前後が、1年で1番混みます。
それだけ、紅葉も盛りなわけですが、嵐山は、祭の縁日並みの人通りです。
12月に入っても、第1週めは、まだ大丈夫だと思いますよ。
それ以降になると盛りは過ぎますが…
投稿: 茶々 | 2012年10月 7日 (日) 18時55分
茶々さま
京都の紅葉情報~ありがとうございます^^
息子がこの春より上洛しておりまして
京の紅葉をゆっくり愛でるチャンスは後り4回!?
茶々さまにもいつかお会いしたいです♪
どのように聡明でシャレのきいたお方であろうかと妄想?!は膨らむばかり。
今回はブログの内容ではないコメントを…、失礼いたしました^^;
投稿: tonton | 2012年10月 7日 (日) 19時54分
「平清盛」でもやってましたけど、南都北嶺の仏教勢力の巨大さと面倒くささ?たるや、信長さんの時代までずっと続くのですよね。
なかなかピンとした喩えがないのですが、東大総長が全学連を率いて国会を包囲するようなものだと昔は言ってました。
今や、東大にそこまでの権威はなく、全学連にも往年の突破力はありませんので、この喩えにも解説がいるかと…(笑)
投稿: レッドバロン | 2012年10月 7日 (日) 23時35分
tontonさん、こんばんは~
息子さんがこの春より上洛…
イイですね~
ゆっくり滞在できますね。
楽しんでくださいね!
投稿: 茶々 | 2012年10月 8日 (月) 01時44分
レッドバロンさん、こんばんは~
今の日本人は、こんなにテンション高くなれないでしょうね。
東大に放水してるニュース映像を、時たま見たりしますが、もう、あんな風にはならないでしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年10月 8日 (月) 01時46分
天龍寺で時代劇のロケやっています。この時代の皇室は仏教でしたが、今は神道ですね。
投稿: やぶひび | 2012年10月 8日 (月) 19時44分
やぶひびさん、こんばんは~
そうですね…天龍寺はよく使われてますね。
あと、仁和寺や大覚寺も多いですね。
もちろん姫路城も…
1度、「暴れん坊将軍」で、大阪城の天守閣から町を見下ろす松ケンさんが、金網越しに映ったラストシーンには、思わず「ええんかい!」と突っ込んでしましましたが…
投稿: 茶々 | 2012年10月 9日 (火) 02時29分