「僕を京都に連れてって!」~足利義昭の上洛希望
永禄八年(1565年)10月4日、近江に滞在中だった足利義昭が上杉謙信に手紙を送り、北条氏康と和睦して上洛することを求めました。
・・・・・・・・・
永禄八年(1565年)5月19日、室町幕府第13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)が、松永久秀(まつながひさひで)と三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)らによって暗殺されます(5月19日参照>>)。
6歳の時に、御供衆(おともしゅう)の細川元常(ほそかわもとつね)の養子となって、自らも、将軍の御供衆となって仕えていた細川藤孝(ふじたか=後の幽斎)にとって、それは、たまたま非番の日に起こった事件でした。
久秀と三好三人衆らの思惑は、将軍=義輝を殺害し、その後、自分たちの思い通りになる操り人形的な将軍を擁立する事・・・その人物は、義輝の従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)で、父の代から将軍位を争っていたライバルだったのです。
藤孝にとっては、それは何としても阻止せねばならない事・・・そのために、今は、興福寺の僧となっている義輝の弟を引っ張り出さねば!!
これが、足利義昭(よしあき・義秋)です。
すでに久秀らの手によって幽閉の身となっていた義昭が、藤孝の手引きによって救い出され、近江国甲賀郡和田村の豪族・和田惟政(これまさ)の館へと身を寄せたのが、義輝暗殺から2ヶ月経った永禄八年(1565年)7月28日の事でした(7月28日参照>>)。
そして、今回の永禄八年(1565年)10月4日・・・近江滞在中の義昭が、上杉謙信(うえすぎけんしん)に手紙を送って上洛を打診したというワケです。
永禄八年と言えば、あの桶狭間(5月19日参照>>)から5年経っていますが、織田信長(おだのぶなが)は、やっとこさ、その2年後に尾張を統一したばかりで(2011年11月1日参照>>)、未だ、隣国の美濃(岐阜県)の斎藤家に翻弄されている頃で、逆に、謙信にプレゼント攻撃をして気をひいたり、養女(遠山夫人)を武田信玄(たけだしんげん)の息子=勝頼(かつより)に嫁がせて友好関係を築いたりと、まだまだ、両巨頭に低姿勢で対応していた頃・・・
やはり、この頃に、義昭が最も頼りにしたのは謙信だったという事なのでしょう。
『義残後覧』には。
「三好は、義昭公の仇やよって、もし、滅ぼしてくれって言いはるんやったら、それこそ、この謙信にとっては、お安い御用でっせ。
人数集めて合戦には及ぶまでもなく、三好らが賀茂の競馬を見物に来た時にでも、ケンカふっかけて殺ってもたりますさかい」
てな事を19歳の時に言った・・・なんて事が書かれていますが、さすがに、これは年齢的にあり得ない話ですが、後世の人に、そのように思わせるような雰囲気はあったという事でしょう。
しかし、ご存じのように色良い返事はもらえなかった・・・
なんせ、謙信も、その前年の永禄七年(1564年)8月には、大戦にはならなかったとは言え、信玄との川中島が、未だ継続中でした(8月3日参照>>)から・・・
やむなく藤孝らは、義昭を奉じて、翌・永禄九年(1566年)に朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)を頼って越前(福井県)へと身を寄せますが、この義景も動こうとはしない・・・
そこで、義昭は、この越前に滞在しながら、自らを助けて京へと上ってくれる有力大名を求めて、せっせと手紙を書き続けるのです。
先の上杉をはじめ、武田、斎藤、島津、毛利、六角・・・それこそ、手当たりしだいに、僧兵という兵力をかかえる有力寺院にまで声をかけましたが、やはり、良い返事はもらえませんでした。
そんな時、藤孝に声をかけたのが、当時、朝倉氏に仕えていた明智光秀(あけちみつひで)・・・
光秀が言うには、
「僕の親戚の娘(こ)の嫁ぎ先が尾張の織田信長という人で、僕、その人から“俺んトコけぇーへんか?”って誘われてるんですけど、その人を頼ってみませんか?」
と・・・
しかし、おそらく義昭側から見れば、信長は役者不足・・・
「誰や?それ・・・そんな田舎大名、知らんゾ!」
てな感じだったでしょう。
そんなこんなしてるうちに、永禄十年(1567年)8月、信長は念願の斎藤氏を滅ぼし(8月15日参照>>)て稲葉山城を手に入れ、そこを岐阜と改めて本拠とします。
それをキッカケに信長が使い始めたのが、ご存じ『天下布武』の印鑑・・・
この『天下布武』とは、「天下に武を布(し)く」=「俺の武力で天下を治めるゾ」ってな意味ですが、この天下という言葉が日本全国を指すかと言えば、そうではなく、後々、いずれは日本全国と同じ意味になるとしても、当初の目標としては畿内を押さえるという意味・・・
なんせ、戦国時代は全国各地、それぞれの大名が治めるバラバラの国なわけですが、その上に天皇家&朝廷という存在があるわけで、天皇家に認めてもらえていない間は、あくまで実力行使でそこを治めているに過ぎないわわけで、いくら「俺は、この国の支配者だ!」とイキがってみても、それは単に「自称・支配者」なわけで・・・その天皇様がおわすのが京都・・・
「京都を制すれば天下を制す」というのは、そういう意味ですね。
という事で、ここで『天下布武』の印鑑を使い始めた信長は、明らかに天下を意識していたわけですが、それこそ、ただ京都に行ったからと言って、即、「君はその国の支配者だ!」と朝廷が認めてくれる事は無いわけで・・・現に、信長は、尾張統一の前後に、お得意の派手々々ファッションで鳴り物入りの上洛を1度果たしてしますが(2010年11月1日参照>>)、朝廷はもちろん、将軍・義輝にも軽くあしらわれ、単なる田舎大名の都見物で終わってしまったという苦い経験があります。
確かに、その頃よりは成長し、岐阜も手に入れた信長ですが、もうワンランク上の何か・・・手土産みたいなのを持って行かない限り、朝廷は相手にしてくれないかも・・・
一方の、義昭側は、それでも、朝倉や上杉に匹敵するような名門を模索中であったと思われますが、ここに来て、ケツに火がつきます。
そう、あの久秀と三好三人衆が擁立した義栄です。
これまで、義輝の死亡以来、3年間空席となっていた将軍のイス・・・永禄十一年(1568年)2月8日、これまで拒絶していた朝廷が、いよいよ、義栄を第14代室町幕府将軍と認め、将軍宣下が成されたのです。
もう、名門だ役者だなんて事、言ってられません。
かくして永禄十一年(1568年)7月、義昭は、
「足利家再興に力を・・・ともに天下を統(す)べろうぞ!!」
と、信長に声をかけるのです。
「キタ━(゚∀゚)━! 」
上記の通り、上洛の手土産=大義名分を探してした信長にとっては、最高の手土産が手に入りました。
早速、信長は、翌・8月に、前年に妹(もしくは姪)のお市の方を嫁にやって味方につけていた北近江(滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)に会って、上洛への道筋を再確認し(6月28日前半部分参照>>)、その翌月の9月に、義昭を奉じて上洛するのです(9月7日参照>>)。
上洛を阻む六角承禎(じょうてい・義賢)父子を追い払い(9月12日参照>>)、三好三人衆を蹴散らし(9月28日参照>>)・・・ちなみに、松永久秀はちゃっかりと、作物(つくも・九十九)茄子の茶入れを信長に献上して、その傘下となっています(12月26日の冒頭部分参照>>)。
ところで、そもそも、最初に声をかけた謙信は??
謙信が、義昭の手紙にあった北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶのは、この信長上洛の翌年の永禄十二年(1569年)3月・・・それも、上洛うんぬんではなく、あくまで信玄をけん制するための同盟だったと言われていますので、一刻も早く上洛したい義昭さんサイドが信長に鞍替えした事は正解だったかも知れません。
ただし、その後の事は、展開から見て正解とは言い難いですが・・・なんせ、将軍をたててくれる他の戦国大名と違って、信長は、自分で治める気満々の『天下布武』ですから・・・
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コメント
信長さんの義昭さんを伴っての上洛は
余裕の出来レースかと思っていましたが、
実はこんなにハラハラするものだったんですね。
このあとの元亀争乱を乗り切った事といい、
信長さんはやはりすごい・・・。
投稿: みゅいん | 2012年10月 6日 (土) 09時31分
みゅいんさん、こんにちは~
信長の織田家は、家系としては微妙ですからね~
その本姓を、はじめは「藤原」を名乗っていたのが途中から「平」になってるとこを見ても、どこの馬の骨か怪しい血筋ですから、本来なら、義昭が頼る事は無かった家柄だったかも知れませんね。
実力的には、頼って正解でしたね。
投稿: 茶々 | 2012年10月 6日 (土) 13時27分
こんにちは。
信長が義昭を将軍にする前にも上洛していた、というのは初めて知りました。
上杉謙信も上洛して義輝に会ったらしいですが。「そもそも、そんな簡単に上洛できたのか?」というのが昔から疑問でした。
考えてみれば…大軍で行こうとすれば道中で合戦になるから、少人数で行くだけなら可能なのでしょうね。
でないと朝廷の事(天皇や元号の変化)も解らないし、戦乱の世でどうやって情報集めしていたのか?と疑問が深まるばかりです(笑)
投稿: ハルブル | 2012年10月 8日 (月) 10時11分
ハルブルさん、こんにちは~
あの桶狭間で命を落とす事になる、あの時の今川義元が、以前は上洛が目的だったと言われていたのが、近年では、上洛説を否定する声も出て来ていますよね?
その根拠としては、この時の出兵の際に、義元が周辺諸国に根回した様子が無いから…という事だそうです。
やはり、上洛するなら、その目的(天皇や将軍への挨拶なのか?天下取りなのか?)なども含め、事前に周辺に根回しするのが一般的だったのではないでしょうか?
謙信の2度の上洛がすんなりいったのも、その目的が「信玄との戦いへの大義名分を得る事=信玄追討の承認」や「冠位を貰ったお礼」なので、信玄以外の道筋の大名たちにとっては無関係の話…なので、根回しさえしておけば、その国はすんなりと通れるという事なのかも知れないなと、今のところ思っています。
情報は…
やはり、諸国を巡る商人から聞くか、大名たちお抱えの(忍者のような)情報収集集団が集めたりしたんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年10月 8日 (月) 12時55分