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2012年10月17日 (水)

嫡男・万福丸の処刑~浅井長政と息子たち

 

天正元年(1573年)10月17日、羽柴秀吉に捕らえられた浅井長政の嫡男万福丸が、関ヶ原にて処刑されました。

・・・・・・・・・・・

この日づけについては、本日の10月17日説とともに、10月7日説もありますが、とりあえず、今日書かせていただきます。

ご存じ、あの織田信長(おだのぶなが)が、越前(福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)を倒した戦い・・・(8月28日参照>>)

この浅井長政の三女で、後に江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠(とくがわひでただ)の奥さんとなる(ごう=江与)が主役をはった昨年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」では、まさに序盤の山場となった出来事ですが、残念ながら、この日処刑される万福丸は、ドラマ内にいたのやらいなかったのやら・・・

私の記憶に無いだけで、ドラマには出ていたのかも知れませんが・・・まぁ、主役のお母さんであるお市の方の子供では無いので、そのような扱いなのかも知れませんが、歴史好きとしては、長政の息子たちが、記憶に残らないほどの扱いで済まされるのは、ちょっと悲しい気分ですね。

だって、母親が違うと言えど、主人公の兄弟なのですから・・・

とにもかくにも、その経緯は・・・
(もしくは姪)お市の方を嫁に出して、浅井を自らの味方につけた(2011年6月28日参照>>)つもりの信長でしたが、その後、越前を攻めた際に長年の同盟関係にあった事を優先した政が朝倉についた(4月27日参照>>)事で、元亀元年(1570年)6月の姉川の合戦(2007年6月28日参照>>)へと発展・・・

さらに、その後も抵抗し続ける浅井朝倉(11月26日参照>>)に対して、3年後の天正元年(1573年)8月20日に朝倉を滅亡させ(8月20日参照>>)、続く8月28日(近年では9月1日が有力です=8月29日参照>>に、浅井の小谷城を陥落させたというわけです。

浅井長政とお市の方のような政略結婚の場合、本来なら、同盟が破たんした時点で奥さんは離縁され、実家に戻るのが定番なのですが、お市の方の場合、先の金ヶ崎でも姉川を経ても浅井家に残り、この天正元年(1573年)に至っては、三女の江を生んでいます。

そう、江は、まさに、この年に生まれたんですね~
(大河ドラマでは、小谷城を囲んだ何万もの兵士が、合戦中のメッチャ騒がしい中で、赤ちゃんの産声を聞くという、いかにも、主役誕生という雰囲気でしたが…)

この日の小谷落城に際しては、その直前に、長政がお市の方と3人の娘たち(茶々・初・江)を城外へと出し、輿入れの時からお市の方につき従っていた藤掛三河守が4人を預かり、その後、織田本陣へと届けています。

「落城の際には女子の命は助ける」というのが戦国の基本ルールでありましたからね。

しかし、男子はそういうわけにはいきません。

古くは、今年の大河でお馴染の平清盛が、あの源頼朝の命を助けた末(2月9日参照>>)、その頼朝によって平家は滅びるわけですし、鎌倉時代の北条の滅亡後にも、遺児を担いでの乱(8月19日参照>>)が起こっていますから・・・

『寛政重修諸家譜』によれば、長政には、3人の娘たちの他に万福丸万寿丸という二人の息子がいたとされます。

その中で、嫡男とされる万福丸は、小谷落城の際に脱出し、余呉湖のほとりで匿われていたと言いますが、その後の織田軍の探索によって発見され、天正元年(1573年)10月17日に処刑されます。

『信長公記』には、関ヶ原にて磔の刑(一説には「串刺しの刑」)に処せられた「十歳の嫡男」との表記がありますので、やはり、お市の方の子では無いのでしょう(長政とお市の方の結婚は永禄十年=1567年かその翌年と考えられています)

そして、次男とおぼしき万寿丸・・・彼も、落城寸前に脱出して身を隠しますが、幸いな事にコチラは処刑される事なく仏門に入って正芸と号し、後に、近江国坂田(滋賀県米原市)福田寺(ふくでんじ)の住職になったと伝えられていますが、彼の誕生は江と同じ天正元年(1573年)とされるので、やはり、彼も、お市の方の子供では無いようです。

・・・と、しかし・・・実は、長政にはもう一人、
やはり、お市の方の子供では無いものの、後に信長が死ぬまでその身を隠し続けた喜八郎という男子がいたとされています。

彼が登場するのは、この小谷落城から43年経った、あの大坂の陣・・・

豊臣方の武将として大坂の陣に参戦する浅井政堅(政賢・政信・政春・井頼・長房=これらが改名した同一人物とされています)と名乗る武将です。

政堅は、信長の死後に、羽柴(豊臣)秀吉の養子となっていた信長の四男・秀勝(ひでかつ)に仕え、秀勝の死後は秀吉の弟の秀長に仕え、その死後は増田長盛(ましたながもり)に仕えますが、その長盛がどっちつかずの関ヶ原で大和郡山城が没収され(5月27日参照>>)てしまったために、彼は浪人に・・・その後は、讃岐・丸亀城主の生駒一正(いこまかずまさ)のもとに身を寄せていたと言います。

大坂の陣における詳細はよくわからないのですが、豊臣方=負け組となったわけなので、その身も危ないかと思いますが・・・しかし、ここでも、彼は無事生き延びます。

そもそも、信長亡き後に、有名武将のもとに仕官できたのも、おそらくは秀吉の側室となっていた姉=茶々(淀殿)のおかげだと思われますが、ここに来ても、またまた、お姉ちゃんが助けてくれます。

Zyoukouin600a そう、京極高次(きょうごくたかつぐ)に嫁いだ、浅井三姉妹の2番目の(はつ)・・・

この頃はすでに、夫の高次が亡くなっているので常高院(じょうこういん)という尼さんになっていたわけですが・・・(12月19日参照>>)

彼女を頼って若狭(わかさ・京都府北部)にやって来た政堅は、すでに大坂の陣をキッカケに出家しており、作庵(さくあん)と号していましたが、客分として迎え入れられ500石を与えられています。

そんな初さんの気持ちがよくわかる書状が残っています。

それは、息子・忠高(ただたか=高次と側室の子)に宛てた彼女の遺言状・・・

『さくあん事、なにの御やうにもたち候ハず候ニ、いまゝで御くなうになし、めいはく申候へども、いまさらすてられ候ハぬニより、くわぶんのちぎやうをも御やり候事、我身への御がいりよくとおもひ申候間、いよゝゝこれさきへハ、御ふセうなる事にて候へども、いまゝでのごとく御めかけ候て給り候べく候。たのミ入申候』

「作庵は、何の役にも立った事ないし、迷惑やろと思うけど、いまさら邪険にもできひんよって、いくらかの知行だけでも渡してやってくれるか?
私に小遣いやってるつもりで、この先も作庵に、いままで通り目ぇかけたってくれたらウレシイわ」

と・・・

戦いにあけくれはしたものの、なんだかんだで落城後も日の当たる場所で暮らした自分たち三姉妹と違って、多感な少年時代を、逃げ隠れして育った弟の事が、やはり、彼女は不憫でならなかったのかも知れませんね。

その後、京極家は出雲松江播磨竜野を経て、讃岐・丸亀城主として明治維新を迎えますが、作庵の子孫も、この丸亀藩士として生き残り、浅井家の血筋を残したという事です。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント


江では男兄弟は誰も出てきませんでしたね……。
個人的には万福丸くらいはでるのかなと思っていたのですが、ちょっとショックでした。
初や茶々とは関わりがあっても、江には関わりがほとんどなかったからカットされたのでしょうか。

三姉妹の影に隠れてしまっていますが、政堅さんのように戦乱の世の中に翻弄された人がたくさんいたのですね。彼の人生もそうとうドラマチックです。

投稿: ティッキー | 2012年10月17日 (水) 20時53分

ティッキーさん、こんばんは~

やはり大河ではスルーでしたよね?
確かに、主人公はまだ赤ちゃんですが、出来事としては大事な事なような気がします。

初さんは、秀頼の息子の国松の面倒もみてましたからね。
初さんが主役のドラマなら政堅さんも描かれたかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2012年10月18日 (木) 00時52分

こんばんわー

浅井の血筋、ちゃんと京極家に残っていたのですね!
前から浅井政堅は井頼という名で信長の野望などで知ってはいたのですが・・・いかんせん、wikiなどを探っても長政の子供だという記載しかなく、結局どうなったのだろうとずっと気になっていました。
浅井びいきの私としては感無量です!
ちょっと例えがよろしくないのかもしれませんが・・・ずっと前に見かけ気になっていた捨て犬がふと立ち寄った家で飼われていて、飼い主と幸せそうに遊んでいる姿をほっとしながら見ているような気分です(笑

投稿: おみ | 2012年10月18日 (木) 04時51分

茶々様、こんにちわ。
浅井家の血筋がつづいていたとは。勉強になりました。

投稿: いんちき | 2012年10月18日 (木) 12時27分

おみさん、こんにちは~

>浅井政堅は井頼という名で信長の野望などで知って…

やはり、戦国ゲームは侮れませんね。
以前から、かなりマイナーな武将が登場している事は小耳に挟んでいましたが、井頼さんも登場していたのですね~

>飼い主と幸せそうに遊んでいる姿をほっとしながら…

わかります~(o^-^o)

投稿: 茶々 | 2012年10月18日 (木) 14時53分

いんちきさん、こんばんは~

私も、これを知るまでは三姉妹だけかと思っていたんですが…
コチラでも受け継がれていて良かったです。

投稿: 茶々 | 2012年10月18日 (木) 15時01分

こんにちは。初めての書き込みです。ぺこり。

突然ですが、
→「落城の際には女子の命は助ける」というのが戦国のルールでありましたからね。

浅井長政の生母・小野殿をお忘れなく!(;;)
この女性に政治的影響力があったかどうかは分りませんが、言継卿記では斉藤義龍の後家の生存は確認されてるのに、この落差は何ぞや思います。やはり浅井憎し故?

投稿: 禿げ鼠 | 2012年10月19日 (金) 11時38分

禿げ鼠さん、こんにちは~

そうなんですよ~
実は、その小野殿の事があるので、その部分を書く時に、どう表現しようかと悩んだんですけどね~

それこそ、その合戦の経緯も影響するでしょうし、勝利者側の武将の現在の立場や心理、おっしゃる通りの「憎し」の度合いによっても、例外は多々あると思います。

信長も、岩村殿なんかは身内と言えど逆さ磔ですし、有岡城でも女子供も全員アウト…
信玄の志賀城なんか、城主の奥さんを奴隷市に売り出しちゃってますしね。

ただ、この時代は、当主の生母に、かなりの発言権があった事も確かなので、生母がルールから外される事はあったと思います。
もちろん、小谷の場合は信長の私恨も絡んでると思いますが…

それこそ、例外はケースバイケースで、その都度説明は必要になって来るものなので、そのページで見ていただく事として、このページのご指摘の部分には「基本ルール」と「基本」という文言を加えるという事で、ご理解いただけたら…と思います。

投稿: 茶々 | 2012年10月19日 (金) 12時43分

>小野殿のケース

これは浅井が織田と手切れするにあたり、長政よりも久政の方が主導的な役割を果たした事実が大きいと思います。

小野殿の働きは不詳ですが、指を一本ずつ切り落とされる酷い殺され方だったそうで。浅井三姉妹の祖母があの信長にそこまで憎まれる〈存在感〉のある女性であったことは、注目すべきであろうと思います。

昨年のアレでは完全スルーでしたが、三姉妹の気丈な生き方にはお祖母さまの血筋も入っているのですね。

投稿: レッドバロン | 2012年10月19日 (金) 17時10分

レッドバロンさん、こんばんは~

そうですね。
信長がなぜ、そうしたのか?
未だ、表に出ていない、何かがあるのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2012年10月20日 (土) 02時20分

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