周囲に翻弄された皇族将軍・惟康親王
嘉暦元年(1326年)10月30日、鎌倉幕府・第7代将軍となった惟康親王が、この世を去りました。
・・・・・・・・・
ご存じのように、源平の争いに勝利した、あの源頼朝(みなもとのよりとも)が開いた鎌倉幕府ですが、その頼朝の直系の将軍は、わずかに3代・・・
嫡男として2代めを継いだ源頼家(よりいえ)は、自らの手腕を奮う事もままならぬまま、御家人同志の権力のハザマで非業の死を遂げました(7月18日参照>>)。
その後を継いで第3代将軍となった弟の源実朝(さねとも)は、亡き兄の遺児・公暁(くぎょう)(2013年1月27日参照>>)に暗殺されますが、これも、単なる「父を殺された個人的恨み」ではなく、周囲の御家人たちの権力争いに、実行犯の公暁が踊らされただけ・・・との見方があります(2009年1月27日参照>>)。
とにもかくにも、ここで、頼朝の直系という血脈を失った鎌倉幕府は、執権として、事実上の全権を握る北条氏のもと、公家から名ばかりの征夷大将軍(宮将軍)を迎えて幕府を運営していくという方針を取ります。
本日の惟康親王(これやすしんのう)は、そんな中の、第7代・鎌倉幕府征夷大将軍です。
父で、第6代将軍だった宗尊親王(むねたかしんのう)が、将軍職を廃されて京都に送還された事を受けて、その嫡男であった惟康親王が、わずか3歳で第7代将軍となったのですが、当然の事ながら、惟康親王自身に「将軍になりたい」意思があったわけではなく、完全にお飾り目的の将軍です。
ところで、
「父の宗尊親王が、将軍職を廃されて京都に送還」って?
「どういう事?」って、ひっかかりますよね?
実は、かの実朝が暗殺されて以来、幕府は、毎回、そんな感じの同じ事やってます。
実朝の死で源氏の直系=皇族から臣籍に降下した高貴な血筋を失った幕府は、何とか皇室につながる高貴なお方・・・つまり皇族から将軍を迎えようと画策しますが、あの後鳥羽(ごとば)上皇に拒否されたため、頼朝の妹(母は頼朝と同じ由良御前)の曾孫にあたる藤原頼経(ふじわらのよりつね)を、第4代将軍に迎え入れます(3月9日参照>>)。
この、頼朝の妹という人が一条能保(いちじょうよりやす)という貴族の奥さんとなり、そこに生まれた二人の娘が九条良経(くじょうよしつね)と西園寺公経(さいおんじきんつね)とにそれぞれ嫁ぎ、その子供同志が結婚して生まれたのが藤原頼経さん・・・つまり、頼朝と同じ血脈が4分の1~8分の1くらいのチョコッとだけ流れている、ほとんど藤原氏の人という事ですが、この時点で、わずか2歳・・・
しかし、成長するにつれ、当然の事ながら「将軍の何たるか」を知る事なり、当然の事ながら幕府に介入するようになると、時の執権・北条経時(ほうじょうつねとき=4代執権:政子の弟の義時の曾孫)にとってはうっとぉしくてたまらないワケで、結局、なんだかんだの理由をつけて、27歳の時に将軍職を廃されて、頼経の嫡男である藤原頼嗣(よりつぐ)が、またまた、わずか6歳で第5代将軍に・・・
しかし、この頼嗣も14歳の時に、謀反事件に関与したとか言って将軍職を廃されて京都に送還され、代わりに第6代将軍となったのが、第88代・後嵯峨(ごさが)天皇の皇子であった宗尊親王・・・当時、11歳。
もともと、実朝亡き後に幕府が望んでいたけど断わられた皇族将軍が、やっとこさ誕生したわけですが、これには、当時、摂関家として最も力を持っていたのが九条家で、かの頼嗣さんの実家も九条家・・・将軍家と摂関家の両方を九条家が掌握する事に不信感を抱いた天皇家と北条家の両方の利害関係が一致して、皇族からの将軍の誕生となったわけです。
しかし、この宗尊親王も、25歳となった時に、奥さんが僧と不倫したのを口実に将軍職を廃され・・・ほんでもって、今回の惟康親王がわずか3歳で第7代将軍となったのですが・・・
と書けば、もう、お解りですね?
そう、
この惟康親王も、26歳となった正応二年(1289年)9月・・・北条氏が次期将軍に、第89代・後深草(ごふかくさ)天皇の皇子である久明親王(ひさあきしんのう)の就任を望んだという理由で、将軍職を解任され、京都に戻されるのです。
まぁ、そこには、単に幕府が望んだという事以外にも、後嵯峨天皇と後深草天皇の微妙な関係があり(2月17日参照>>)、この確執が後々、あの南北朝の火種となる分裂があるのですが・・・(9月3日参照>>)
何か、ご本人の預かり知らぬところで、話が進んでしまった惟康親王の将軍解任劇・・・
この時、惟康親王の鎌倉追放の様子をたまたま目撃した後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう=後深草院に仕える女官)が、自らの日記『とはずがたり』に、その様子を書き記しています。
「さるほどに いくほどの日かずもへだたらぬに 鎌倉に事いでくべしとささやく…」ではじまる「惟康親王上洛」のくだり・・・
惟康親王がお住まいになっていた建物のそばに置かれていたのは、見るも粗末な張輿(はりごし=略式の輿)・・・そこに、お出になった親王を、丹後の二郎判官(二階堂行貞)なる者が輿に乗せようとすると、北条貞時(さだとき=9代執権)の使者だという平二郎左衛門(たいらのじろうざえもん=平頼綱の嫡男)なる武士がやって来て、
「反対!反対!」
と言って、輿の向きを逆さまにさせた(罪人は逆さまに乗せます)かと思うと、まだ、親王が、ちゃんと輿に乗ってもおられない時点で、小者の武士が土足のまま御殿に上がり、次から次へと簾(すだれ)をひっぺがしはじめ、その様子は「目も当てられなかった」と・・・
しかも、出発予定の日は、大変な悪天候でしたが、「予定変更はしない!」として、そのまま暴風雨の中、真夜中の午前2時に出立された親王の目には、ひとしずくの涙が・・・
なんだか、大変、お気の毒です。。。
周囲に翻弄された惟康親王は、京都に戻ってまもなく出家・・・その後は、嵯峨にて隠遁生活を送られ、嘉暦元年(1326年)10月30日、63歳の生涯を閉じられたという事ですが、晩年の事を記した記録がほとんど残らず(安中氏が子孫を自称してはいますが…)、果たして、心安らかに過ごされたのかどうか・・・。
その後の親王が心配です・・・
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コメント
上洛の際の扱いがあまりにもヒドイですね。
罪人扱いのようなことをしたのはなぜなんでしょうか?
摂家将軍、皇族将軍の方々は全員、墓所の場所が不明だそうですが、天上で穏やかに過ごされていることを願うばかりです…。
投稿: とらぬ狸 | 2015年10月31日 (土) 00時41分
とらぬ狸さん、こんばんは~
ホント、なんだかよくわかりませんね。
北条氏が身分の低い血筋なので将軍には高貴な血筋を…て事なのでしょうが、ご本人の意思に関係なく将軍になった幼き方々がお気の毒ですね。
投稿: 茶々 | 2015年10月31日 (土) 03時19分