橋本左内と安政の大獄
安政六年(1859年)10月7日、井伊直弼が行った安政の大獄で、越前藩士・橋本左内が斬首されました。
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嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)・・・それは、開国か攘夷(じょうい=外国を排除)かで日本を真っ二つに分ける事になります。
また、タイミングの悪い事に、この同じ年に第12代江戸幕府将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)が死去し、四男の徳川家定(いえさだ)が後を継いで13代将軍になるものの、その家定が病弱で子供がいなかった事から、将軍に就任直後から、その後継者問題が持ち上がり、こちらも、現将軍に血筋の近い紀州藩主・徳川慶福(よしとみ=後の徳川家茂)を推す南紀派と、前水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の七男で御三卿(11月10日参照>>)の一つの一橋家の養子となっていた徳川慶喜(よしのぶ)を支持する一橋派とに分かれます。
そんな中、米国総領事・ハリス(7月21日参照>>)から日米修好通商条約の締結を迫られる幕府・・・
もはや、条約を受け入れるしかないと判断した幕府は、老中・堀田正睦(ほったまさよし)が京へと向かい、時の第121代天皇・孝明(こうめい)天皇からの勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ようとしますが、それはムリというもの・・・
尊王攘夷(そんのうじょうい)という言葉がありますが、これは、もともと別物だった「天皇を尊ぶ=尊王」と「外国を排除する=攘夷」が結びついた物・・・時の孝明天皇が、大変な外国嫌いであったため天皇を支持する事はイコール外国を受け入れないという事だったのですから、天皇から条約締結の許しなど、出るはずはありません。
しかし、その直後の安政五年(1858年)4月、幕府大老に南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が就任し、慶福を14代将軍に勧める一方で、天皇の勅許を得ないまま条約調印してしまうのです。
これを不服としたのが、前水戸藩主の徳川斉昭、その息子で現藩主の徳川慶篤(よしあつ)、そして尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)、福井藩主・松平春嶽(しゅんがく=慶永)ら・・・慶喜の父親である斉昭が含まれている事でもお解りのように、彼らは、皆、一橋派です。
そんな彼ら=一橋派が抗議の意を込めて、登城をボイコットした事から、直弼が、彼らを謹慎処分ににすると、それに反発した薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)が、兵を率いての上洛を計画します・・・ただ、その直前に斉彬が亡くなってしまうので(7月16日参照>>)、実際には上洛はありませんでしたが・・・
そんなこんなの8月・・・孝明天皇は、尊王攘夷の思いが強い水戸藩に対して、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を下します。
これは・・・
かの条約を、天皇の許しなく締結した事をとがめるとともに、幕府には今後は攘夷を推進するよう改革を行う事を命令し、諸藩には、それに協力して公武合体(こうぶがったい=朝廷と幕府が協力)を実現するよう指示する内容・・・これを、天皇が、幕府を飛び越えて水戸藩に直接下すという前代未聞の出来事だったのです。
しかも、朝廷内でも幕府寄りだった関白・九条尚忠(くじょうひさただ)を完全無視して発せられた物で、この直後に尚忠は辞職に追い込まれます。
こうして、幕府を飛び越えての密勅に、完全に威信を潰された幕府・・・と言っても、ご存じのように実際に命令を出して実行したのは井伊直弼ですが・・・
早速、その密勅をひた隠しにしたまま、老中の間部詮勝(まなべあきかつ)と京都所司代の酒井忠義(さきただあき)を上洛させ、9月7日(8日とも)には、尊王攘夷論を展開していた梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)を逮捕(9月14日参照>>)・・・続く10月には橋本左内(はしもとさない)が逮捕されました。
これを皮切りに、武家だけでなく、公家の家臣にまで行われる一連の尊王攘夷派への弾圧・・・これが安政の大獄と呼ばれる物です。
(安政の大獄には、先の一橋派の藩主たちの謹慎も含まれる場合もあります)
一説には、先のアヘン戦争(8月29日参照>>)に敗北し、今やイギリスの属国と化している清(しん=中国)のようにならないためにも、国内を二分してモメてる場合では無く、「何が何でもどちらかに一致団結させなければならない」と考えた直弼が、恨まれる事を覚悟して行った(2006年10月7日参照>>)とも言われる安政の大獄・・・
その犠牲となった橋本左内は、福井城下の藩医の長男として生まれ、15歳の時に、自らを奮いたたせるための『啓発録(けいはつろく)』を著していますが、そこには、その冒頭に5つの大事な事が書かれてあります。
- 稚心を去る
毎日遊び呆けて楽な方へと暮らし、何かと言えば親に頼ろうとするような子供じみた心は、早く捨てる事。 - 振気
人に負けたくないという気持ちを大切に、自分を奮い立たせる事。 - 立志
目標をはっきりと決めて、それに向かって努力する事。 - 勉学
学ぶ事とは、本を読んで知識を増やす事ではなく、先人に習って、自分も負けまいと努力し、真の知識を高め心を鍛える事である。 - 朋友を択ぶ
自分を慕ってくれる友人は大切にしなければならない・・・ただ、他人に媚(こび)を売ってへつらう小利口な輩は、一見、人柄が良く見え、世間からも褒められるものだけれど、彼らとは違う目線で友人を選ぶ事・・・自分の欠点を指摘してくれる厄介な友人を大切にし、友人の見習うべきところは見習って、自らを高めてくれる友人を持とう。
ウォー!!15歳の少年の言葉に、大の大人の耳が痛くなる~~ヽ(;´Д`ヽ)(ノ;´Д`)ノ
もう、これだけでも、凡人では無い事がわかりますが・・・
その後、大坂へ出て、緒方洪庵(おがたこうあん)の蘭学塾「適塾」(6月10日参照>>)に学びますが、嘉永五年(1852年)に父の病気により帰郷して藩医の跡目を継ぎました。
しかし、勉学への思いが断ちきれず、藩の許可を得て、今度は江戸にて遊学・・・やがて、安政二年(1855年)に、藩から帰郷を命じられますが、そこに待っていたのは、藩主・松平春嶽の側近という役職でした。
以来、左内は、春嶽の懐刀として活躍する一方で、度々江戸へ行っては、先の梅田雲浜や藤田東湖(ふじたとうこ)(10月2日参照>>)、西郷隆盛(さいごうたかもり)といった面々や横井小楠(よこいしょうなん)(1月5日参照>>)らとも交流を持ち、世界情勢へも目を向けながら、更なる学識を深めていったのです。
やがて安政四年(1857年)に江戸詰めとなり、ちょうど持ちあがっていた将軍継承問題に向き合う事になるのですが、一橋派の春嶽の懐刀の左内ですから、当然、一橋派として動くわけで・・・
さらに、朝廷を尊重し、幕府の独断ではなく、諸侯による話し合いで事を決断すべきといった自論を公家相手に語ってみたり、日露同盟論を主張して世界的視野に立った国家思想を持っていたり・・・
・・・と、これらの行動が、安政の大獄による弾圧の対象となりました。
安政五年(1858年)10月に捕縛された左内は、翌・安政六年(1859年)10月7日、小塚原刑場にて斬首となりました。
わずか26年の生涯でした。
福井県立郷土史博物館には、藩主の春嶽が、獄中の左内に差し入れした麝香(じゃこう=香料・生薬の一種)が残っています(←左写真)。
左内は、これを「もったいない」として自分では使用せず、そのまま、手紙に添えて、福井で待つ母に送ったとか・・・
このブログでは、何度も何度も、口を酸っぱくして言っておりますが・・・
まことに、実に、惜しい・・・
幕末には、惜しい人が大勢、この世を去ります。
しかも、攘夷も佐幕も、どちらも、この国の未来を思っての行動であるところが、さらに、心痛みますが、彼らの犠牲のもとに、今の日本がある・・・だから、人は歴史を知らねばならないのだと思います。
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コメント
左内さんは「殿の命令でやりました」と言ったそうですね。主君をかばわない家臣って珍しいです。お墓は東京の松陰神社にありますね。そう言えば、今年は松陰忌(10/27〜28)に「幕末維新祭り」があります。松陰神社通り商店街でパレードも。
投稿: やぶひび | 2012年10月 7日 (日) 23時38分
やぶひびさん、こんばんは~
そうですね~吉田松陰も…
確か、梅田雲浜の奪回を告白して捕まってしまったんですよね~
そうですか、今年は「幕末維新祭り」があるのですね。
投稿: 茶々 | 2012年10月 8日 (月) 01時50分
何時もとても楽しみに読ませて頂いています。ありがとうございます。
細かい事なのですが、、
橋本左内に関する記事で、
https://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2012/10/post-2300.html
以来、左内は、春嶽の懐刀として活躍する一方で、度々江戸へ行っては、先の梅田雲浜や藤田東湖(ふじたとうこ)(10月2日参照>>)、西郷隆盛(さいごうたかもり)といった面々や、同郷の横井小楠(よこいしょうなん)(1月5日参照>>)らとも交流を持ち、
とありますが、横井小楠先生と橋本左内先生を ”同郷の”と表現するのは、ちょっとホニャラカじゃないでしょうか、とも思うのですが・・。
もちろん、もちろん、松平春嶽候つながりではありますが、ふたりは肥後熊本と越前福井の出、”同郷さん同士” というのはちょっとつらいかな、と思うのです。
揚げ足取りにとられてご不快になってしまったらごめんなさい(土下座)。
投稿: けんさん | 2017年5月 4日 (木) 06時30分
けんさん、こんばんは~
ホントですね~ぜんぜん同郷じゃないです。
たいぶ前のページなので、なんでそう書いちゃったのか?自分でもアレですが、今、察してみるところ、たぶん、小楠さんが「福井藩校創設」に関わったり「藩政の指導役」的な感じったよしみで…つまり福井という土地を通じて~みたいな事を言いたかったんだと思います。
ご指摘ありがとうございます。
今では記事ページも多くなってしまって、たまに自分で読み返してみてもなかなか気付かないですので、ありがたいです。
訂正しておきます。
投稿: 茶々 | 2017年5月 5日 (金) 02時17分