法然に見守られ~甘糟忠綱・最期の時
建久三年(1203年)10月15日、武蔵の住人・甘糟忠綱が法然のもとを訪ねて悟りを開き、合戦に挑みました。
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建久三年(1203年)10月15日朝・・・その時、京都の大谷にいた法然(ほうねん)(2月18日参照>>)のもとを、一人の武士が尋ねます。
ちなみに、このお話は『法然上人絵伝(ほうねんしょうにんえでん)』や『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』などに登場し、微妙に日づけが違っていたりしますが、現在のところ、合戦があったのが建久三年(1203年)10月15日とされていますので、このお話も、その日の出来事とされています。
その武士は武蔵の国は甘糟郷(埼玉県美里町)を本拠とする武士・甘糟忠綱(あまかすただつな)・・・
乱を起こした比叡山の僧兵に対して、朝廷が征伐の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を下した事で、その鎮圧に向かう前に、法然のもとに立ち寄ったのです。
そう、彼には悩みがありました。
仏に帰依したいという自らの気持ちと、殺生を・・・しかも人を殺して名誉を得るという武士という者である自分の立場とのギャップに悩んでいたのです。
「僕は、武勇の家に生まれましたよって戦をしなければ仕事になりません。
けど、それを貫いて敵と戦えば、悪心でいっぱいになって、仏に帰依して往生したいという気持ちが薄れます。
かと言うて、往生したいという気持ちを貫けば、敵の捕虜となって、末代まで臆病者と呼ばれるでしょう。
何とか、弓矢の家業も捨てる事無く、往生の願いも叶えられる事はできませんやろか?」
その質問に法然が静かに答えます。
「阿弥陀様の本願という物は不思議なもんで、それの早い遅いを問う事はなく、行いの多い少ないを問う事もなく、その人の浄・不浄を選ぶ事も無いのですよ。
時にも場所にも縁にも関係なく、罪人なら罪人として、名号を唱えたその時から往生は叶えられるのです。
武家に生まれたのなら、ためらわず思いっきり戦いなさい。
例え、それで命を失う事になっても、念仏さえ唱えていれば本願に乗じ、往生が遂げられる事でしょう」
忠綱は大いに喜んで
「ありがとうございますm(_ _)m
何やら、悟りが開けました」
・・・と、そこで、法然が1枚の袈裟を忠綱にプレゼント・・・
鎧の下に、その袈裟をかけ、晴れ晴れとした面持ちで、颯爽と合戦に挑む忠綱・・・
もとより、命捨てる覚悟で挑んだ戦いは壮絶を極め、押して退くうち、忠綱はその身に重傷を負い、持っていた刀も折れてしまいました。
「もはや、これまで!」
と覚悟を決めた忠綱は、刀を捨て、声高々に念仏を唱え、その身を敵に任せました。
その時です・・・紫色した雲がにわかに沸き立ち、あたりに漂いました。
紫雲が比叡山の方向にたなびいた・・・との知らせを聞いた法然・・・
「あぁ、甘糟は往生したのですね」
と、ポツリ・・・
法然のこの言葉は、遠く、故郷にて夫の帰りを待つ、忠綱の奥さんに伝えられたのだとか・・・
・・・と、法然さんの偉業を讃える絵伝ですので、最後はちょっと宗教色なお話になっていますが、同時代の東国武士では、あの熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)も、武士という戦う職業に悩み、最後に出家の道を選んでいます(11月25日参照>>)。
私、思うんですが・・・
たとえ、喰うか喰われるかの戦国時代であっても、誰も、好き好んで合戦に赴く人はいなかったと思うのです。
もちろん、忠綱が言うように、戦いに挑む時は、自らの心を奮い立たせて、高揚しまくりのアドレナリン放出しまくりで挑まないと、敵に捕らえられてしまいます。
しかし、戦い終わって、ふと、落ち着いた時、言いようの無い空しさや罪悪感、「これで良かったのか?」という思いが渦巻いていはずです。
もちろん、一人一人の心の中など、わかるはずもありませんから、あくまで、個人的な想像ですが、普通の人間なら、わざわざ喜び勇んで刀を振り回すなんて事は無かったのではないか?と思います。
だからこそ、どんなに強い武将も、皆、仏にすがり、神に祈るのではないかと・・・
最近のドラマでは、よく、合戦がナレーションのみというのを見かけますが、戦いをスルーするのではなく、是非とも、武将の心の葛藤を描きながらカッコ良くお願いしますデス・・・あっ!今年の「平清盛」はなかなか良いでっせ!m(_ _)m
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