義仲・初の敗戦~源平・水島の戦い
寿永二年(1183年)閏10月1日、西国へと都落ちした平家と、その追討を命じられた木曽義仲が戦った水島の戦いがありました。
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平清盛(たいらのきよもり)によって築かれた平家全盛の時代・・・
かねてより、その事に不満を持っていた後白河法皇(ごしらかわほうおう)の第3皇子・以仁王(もちひとおう)は、ついに起こった治承三年の政変(11月17日参照>>)にブチ切れ、翌・治承四年(1180年)4月に、各地の反平家勢力に向けて平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)を発します(4月9日参照>>)。
この時の以仁王の挙兵そのものは、平家の手によって潰されますが(5月26日参照>>)、令旨を受け取った者の中に、平家打倒の気運が高まるのは当然の事・・・
3ヶ月後の8月には、あの平治の乱で伊豆に流罪(2月9日参照>>)となっていた源頼朝(みなもとのよりとも)が関東武士を率いて挙兵(8月17日参照>>)・・・
翌・9月には、木曽の中原兼遠(なかはらのかねとお)のもとで育った(8月16日参照>>)源義仲(みなもとのよしなか=木曽義仲・頼朝とは従兄弟)が、北陸にて初陣を飾ります(9月7日参照>>)。
こうして、太平洋側から頼朝が、北陸から義仲が京に向けて進軍する事になりますが、もちろん、たとえ大黒柱の清盛を熱病で失った(2月4日参照>>)と言えど、平家も、それを阻止すべく追討軍を派遣するのですが(個々の戦いは【源平争乱の年表】からどうぞ>>)、先に平家を脅かしたのは義仲のほうでした。
寿永二年(1183年)5月の倶利伽羅(くりから)峠の戦いに圧勝し(5月11日参照>>)、翌6月の篠原の戦い(6月1日参照>>)に撃ち勝った義仲が京都を射程距離内に収めた事で、翌7月に平家は都を捨て(7月25日参照>>)一旦、西国へと逃れて挽回のチャンスをうかがいます。
こうして、その3日後に、意気揚々と、平家のいなくなった京都に入った義仲(7月28日参照>>)・・・一方、平家が都落ちする時には、比叡山に身を隠して義仲の到来を心待ちにしていた後白河法皇でしたが、木曽育ちで都のしきたりにウトい義仲の行動を知った途端に、法皇の気持ちは冷めてしまいます。
たぶん、心の中では
「同じ源氏なら、礼儀をわきまえた頼朝のほうがええわ!」
と思ったに違い無い法皇ですが、その事はおくびにも出さず、義仲に、更なる平家追討の命令を出すのです。
もちろん、そこには、「西で態勢を整えた平家が、再び京を奪回しに来る」という噂が立っていた事も事実ですが、法皇としては、「とにかく義仲を遠ざけて、その間に頼朝と接触しよう」という魂胆だったわけです。
義仲は、それを知ってか知らずか・・・いや、気づいていたとしても、義仲自身も、ここで、今一度平家にガツンと言わせておいた方が良いわけで、法皇の命令通りに追討に向かうのが妥当なところ・・・
かくして、今は四国の屋島に拠点を置いて、京都奪回を狙う平家に向けて、義仲は一旦、進発するのですが・・・
ここのところ、畿内では飢饉が続いていた事で、大量の兵士を養うための兵糧の事を心配したのか?
義仲は、7000の軍勢のうち3000だけを現地に残し、自身は京へと帰還するのです。
この事が、義仲の敗因の一つとも言われますが、とにもかくにも、この状況で、
寿永二年(1183年)閏10月1日、平家VS義仲軍の水島の戦いが展開されます。
この日、屋島攻撃のために約500艘の船に分乗して。水島(岡山県倉敷市)を出撃した義仲軍に、約1000艘を誇る平家軍が攻めかかるのです。
しかも、はなから水運に長けた平家軍は、船での戦い方も熟知したもので、あらかじめ船同士をつないで、陸戦と同様の陣形を形成しているだけでなく、そこに板を渡して、船と船を縦横無尽に行き来できるようにして、移動しながら矢を射かけて来るのです。
たまらず、義仲軍が陸に戻ろうと船を向けると、平家軍には、すでに船や海に慣れた馬が備えられてあり、馬で海を泳いで海岸に上陸して、すぐさま戦闘に入るという見事な態勢・・・
激戦が展開される中、やがて、この戦いに際して義仲から大将を預かっていた源義清(よしきよ・足利義清)と海野幸広(うんのゆきひろ)という両大将が討死してしまいます。
・・・と、その時・・・
にわかにあたりが薄暗く・・・たぶん、真っ暗闇てな事は無かったとは思いますが、ただ事では無い何かを察する事ができるほど、あたりが暗くなった事は確かです。
そう、実は、この日、太陽と月と地球が一直線に重なる日食があったのです。
この日の日食は、今年=2012年の5月21日にあったのと同じ金環食だったと言われています。
「いやいや、アレやったら今年見たけど、日食グラスで確認せん限り、欠けてるかどうかもワカランかったゾ!」
とお思いかも知れませんが・・・(かく言う私もその一人です)
しかし、この時代の1級史料とされる九条兼実(くじょうかねざね)の日記=『玉葉(ぎょくよう)』にも、軍記物の『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』にも、この日食の事が書かれています。
もちろん、現在の天文学で計算した結果でも、この日に日食があったであろう事は確か・・・
かの九条兼実が日食グラスを持っていたとは思えませんから、やはり、この時の金環食は、肉眼で確認できたという事なのでしょう。
『源平盛衰記』にいたっては、
「この日食の事を計算済みだった平家と、まったく知らなかった義仲軍の動揺の差がハンパなく、この状況に恐れをなして義仲軍が敗走していった」
事になっているようです。
実際に平家が、この日の日食の事を計算して知っていたかどうかは確認する事はできませんが、身内から何人もの公卿を輩出し、朝廷に近い立場にあった平家なら、宮中お抱えの陰陽寮(おんみょうりょう=天文・時・暦の編纂や占いを担当する部署)の天文博士とも接点があるかも知れませんから、知っていた可能性は高いかも知れません。
とにもかくにも、こうして、初陣以来、初めての敗戦を経験した義仲・・・しかも、その間に後白河法皇が頼朝と接触していた事を知った事で、その怒りは頂点に達します(11月18日参照>>)。
一方、戦いに勝った平家は、再び、拠点を福原(現在の神戸)に戻し、態勢を整える事になります・・・ここが、後々、合戦の場となる一の谷ですね(「一の谷の戦い」については2月7日のページでどうぞ>>)。
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コメント
茶々さん、こんにちは。いつも興味深く拝見しています。
>あらかじめ船同士をつないで、陸戦と同様の陣形を形成しているだけでなく、そこに板を渡して、船と船を縦横無尽に行き来できるようにして、移動しながら矢を射かけて来るのです。
これって、三国志の赤壁の戦いで曹操軍がとった作戦ですよね。孔明なら火攻めにするところでしょうが、義仲軍に孔明はいなかったようですね。
日食についても、なるほど、劣勢で大将が討ち死にしたうえ、あたりが暗くなったら混乱するでしょうね。
投稿: 高来郡司 | 2012年10月 2日 (火) 02時22分
高来郡司さん、こんにちは~
そうですね。
軍記物の常として軍勢の数と細かな作戦はフィクション性が高いかも知れませんね。
やはり三国志は戦い方のお手本だったのでしょうかね?
投稿: 茶々 | 2012年10月 2日 (火) 13時55分
茶々様、お久しぶりです。
やはり私も赤壁を連想してしまいました。
ところがBS歴史館の「赤壁」では、実際には曹操の水軍はいったん上流に移動して川の流れに沿って下って攻めてきたのだと言ってました。孫権軍のいたところは入り江になっていて、火攻めで混乱した曹操軍はその湾の周辺の渦に巻き込まれて沈んだのだ、と地元の人は考えているようです。
平家軍を火攻めにするには、風上か、潮の流れの上流から近づかないとダメだから地元の人を抱きこむか陰陽術で風向きを変えなければならないでしょう。
5月21日の日食で薄ら寒くなったような気がしましたが、曇りだったのでよく分かりませんでした。雲が厚ければ欠けた太陽がなんとか見えたかもしれません。
また、日食のとき小さな穴を通した光が太陽の形になるので、木漏れ日が金環日食だとリングになっちゃいます。戦闘中の人々が気がついたかどうか分かりませんが。
義仲がいればちょっと違っていたかもしれませんね。
投稿: りくにす | 2012年10月 3日 (水) 00時28分
りくにすさん、こんにちは~
そうですね。
私は外国の歴史は苦手ですが、三国志も、一般的に知られている「三国志演義」は歴史書というよりは物語に近い物だと聞いた事がありますので、史実を追及するにあたっては、様々な推察が成立つのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年10月 3日 (水) 12時46分