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2012年10月18日 (木)

第15代室町幕府将軍・足利義昭 就任

 

永禄十一年(1568年)10月18日、足利義昭が織田信長の助力により従四位下に叙せられ、室町幕府第十五代将軍となりました。

・・・・・・・・・・・

永禄八年(1565年)5月19日、室町幕府第13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)が、松永久秀(まつながひさひで)三好三人衆三好長逸・三好政康・石成友通)らによって暗殺された(5月19日参照>>)事を受けて、義輝の近臣であった細川藤孝(ふじたか=後の幽斎)が、義輝の弟・足利義昭(よしあき・義秋)を幽閉先から救い出し(7月28日参照>>)朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼って越前(福井県)へ・・・

しかし、義昭を奉じて上洛する気の無い義景に失望して、「誰か、自分を助けて、京へと上ってくれる大名はいないものか?」と探しはじめたところに、明智光秀(あけちみつひで)を通じて織田信長(おだのぶなが)の存在を知り、両者は急接近・・・

一方の信長も、前年に美濃(岐阜県)斎藤氏を滅ぼして(8月15日参照>>)からは、その稲葉山城を岐阜城と改めて本拠とし、京へと上る大義名分を探していたのです(10月4日参照>>)

とは言え、急がねばなりません。

なんせ、先の将軍=義輝を暗殺した彼らが、自らの思い通りになる将軍=足利義栄(よしひで)を擁立して、すでに、永禄十一年(1568年)2月8日に朝廷からの将軍宣下も受けてしまっているのですから・・・

信長が、義昭からの要請を快諾した事を受けて、7月25日義昭は越前を発ち、信長のもとへと向かいます。

一方の信長は、8月7日に同盟を結んでいた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)のもとを訪れ(6月28日前半部分参照>>)上洛への道筋を再確認・・・ただし、同じく近江の六角承禎(じょうてい=義賢)からは協力を拒否され、改めて、戦闘を覚悟するのでした。

かくして9月7日、信長は、義昭の前で
「江州をひと呑みに討ち、あなたをお迎えしまっせ(v^ー゜)」
と、高らかに勝利宣言して岐阜を出陣しました(9月7日参照>>)

そのまま、網の目のように張り巡らされた支城には目もくれず、承禎・父子の本拠地である観音寺城を目指す信長軍・・・

この時、前年に、主君の斎藤氏を滅ぼされ、信長の傘下となっていた美濃出身の武将たちは、合戦の鉄則として「おそらく、自分たち=美濃衆は合戦の最前線の危険な場所に立たされて奮戦させられるもの」と覚悟を決めていたようですが、いざ、始まると、あれよあれよと言う間に、佐久間信盛(さくなのぶもり)木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)丹羽長秀(にわながひで)などなど・・・「信長の手勢だけで、どんどん先に進んで行った」事に驚きを隠せなかったと言います。

それだけ、信長軍がスゴかったって事なのでしょうが、事実、9月13日には、その観音寺城を陥落させ(9月12日参照>>)て、24日には琵琶湖畔の三井寺に到着・・・ついに9月26日、信長は京都へと入り、9月29日には三好三人衆の籠る摂津芥川城を落とした(9月28日参照>>)のでした。

義昭も、同じ日に京都に到着して清水にて落ち着く中、信長は、芥川城を拠点にして残党への応戦にあたります。

この芥川に滞在中には、すでに、信長上洛の噂を聞きつけた人たちの参賀の列が絶えなかったと言いますが、その中の一人が、例の三好三人衆とツルんでいた松永久秀・・・すでに信長の好みをわきまえていたと見え、作物(つくも・九十九)茄子の茶入れという最高級茶器を献上して、その傘下に入りました。

やがて、10月も半ばになると、もはや信長の勢いに抵抗する者もいなくなり、10月14日には信長も清水に落ち着き、今度は、洛中洛外を治安の守り、警固する役目として軍を指揮する事になります。

かくして永禄十一年(1568年)10月18日義昭は朝廷から、正式な宣下を受けて、第15代・征夷大将軍に就任したのです。

Asikagayosiakisyougunsenge700 将軍宣下を受ける義昭(太閤記より)…中央でひれ伏しているのが義昭で、その右にいるのが信長

大はしゃぎでルンルンの新将軍=義昭ですが、間もなく行われた観能の会では、吉例の弓八幡を脇能として十三番の演目が組まれていたのを、信長は
「今って、これから、まだまだ隣国平定に向かわなアカン時やのに“これで弓矢が納まり”なんてオカシイやん」
と、演目を「高砂」から「呉羽」までの五番に省略したうえ、義昭からの「鼓を演奏してくれへんかな(゚ー゚)」の希望もピシャリと断わるという、何となく、この先を予感させるような出来事もありつつ・・・

それでも、10月24日に帰国の挨拶に訪れた信長に対して、義昭は、今回の功績に対して心からの感状を手渡し、その書状の中で、
「武勇天下第一」
と信長を褒めたたえ、その宛名を
「御父織田弾正忠殿」
と記したのでした。

こうして、10月26日信長は帰国の途につきます。

ところで、今回・・・三好三人衆が敗北し、松永久秀が信長傘下となってしまった事で、あの14代将軍となっていた義栄さんはどうなったのか???

彼は、そもそも第11代将軍・足利義澄(よしずみ=義昭はこの方の孫です)の次男・義維(よしつな)の長男として阿波国(徳島県)で生まれた身・・・その後、彼ら三好三人衆に推されて、摂津越水城(兵庫県西宮市)に入り、その後、摂津富田(とんだ=大阪府高槻市)総持寺やら普門寺(ふもんじ)やらに入っていたのですが、三人衆の敗北を聞いて、故郷の阿波へと逃れます。

ところが、その直後・・・以前から患っていた腫物が悪化して、わずか29歳(または31歳)で亡くなってしまったのです。

しかも、亡くなった日づけも、9月の半ばから10月の下旬まで複数の説があり、よくわからない状況・・・ひょっとしたら、義昭が、将軍宣下を受けた、この10月18日には、もう、この世の人では無かったのかも・・・

彼は、将軍の本拠地である京都に、1度も足を踏み入れる事なく去って行った、日本史上数少ない将軍・・・(ちなみに、江戸幕府15代将軍の徳川慶喜も、将軍として江戸城に入った事がなく、歴史上、この2人だけです)

義栄さんにどれだけの野望があったのかは何とも言えませんが、彼ら=三好三人衆の傀儡(かいらい=操り人形)だった事を思えば、それほど野望を持っていたとも思えないわけで、何やら、周囲のゴタゴタで、その短い生涯を翻弄させられたようで、お気の毒です。
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コメント

室町幕府の最後の将軍である足利義昭は、織田信長のおかげで、15代将軍に就任することができました。当然でしょうが、義昭は、兄で13代将軍の足利義輝が、松永久秀らに謀殺されたことで、義昭としては、何がなんでも幕府を再興しなければならないという使命感を持っていたのではないでしょうか。ただし、信長の強い野心を見抜けなかったのが、義昭にとっての最大の誤算だったと思います。

投稿: トト | 2016年8月16日 (火) 20時01分

トトさん、こんばんは~

この後どうなるかを知っている後世の私たちから見れば、義昭はお飾りで信長が野心満々見え、ドラマなんかでもそのように描かれる事が多いようですが、実際にはどうだったんでしょうね?

心の中を見てみたいです。

投稿: 茶々 | 2016年8月17日 (水) 02時04分

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