武士で初の昇殿…八幡太郎・源義家の苦悩
承徳二年(1098年)10月23日、源義家が武士として初めて昇殿を許されました。
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康平五年(1062年)、陸奥守(むつのかみ)を任じられていた父・源頼義(みなもとのよりよし)に従って、長く泥沼化していた前九年の役(9月17日参照>>)を勝利で終えた源義家(みなもとのよしいえ・八幡太郎)・・・
翌2月に行われた論功行賞では、父・頼義が正四位下伊予守(しょうよんいげいよのかみ)、義家が従五位下出羽守(じゅごいげでわのかみ)に補任・・・未だ25歳の義家にとって受領任命は破格の待遇でした。
しかし、同時に、頼義・義家父子に協力した出羽(山形県・秋田県)山北(せんぼく)の豪族・清原武則(きよはらのたけのり)も従五位下鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任ぜられ、この戦いで滅びた安倍氏の遺領・奥六郡(おくろくぐん)を拝領する事となりました。
一説には、この時の頼義には、「奥州を手にしたい」という野望があったと言われますが、もし、それが本当なら、彼が欲しがっていた奥六郡が、武則にかっさらわれた事になるわけですが・・・
とにもかくにも、この戦いの時に、すでに高齢だった頼義は承保二年(1075年)に87歳で亡くなり、その後の義家は、名実ともに河内源氏の棟梁となって、美濃(岐阜県)の争乱や南都の僧兵の鎮圧、白河天皇の行幸の護衛など、東北とはほぼ無縁の生活を送りながら、源氏の勢力拡大に力を注ぎます。
やがて、そんな義家にチャンスがやって来ます。
あ・・・もちろん、このチャンスというのは、亡き父・頼義が奥州に対する野望を持っていて、息子の義家が、その思いを継いでいたら・・・という事での「チャンス」という意味で・・・
そう、永保三年(1083年)に、義家が鎮守府将軍に任命されたのです。
しかも、武則の後を継いだ清原家が一族内で内紛を起こしている・・・
武則亡き後を継いだ息子の武貞(たけさだ)の息子・・・つまり、孫の清原真衡(さねひら=長男で先妻との子)が、弟の清衡(きよひら=後妻の連れ子)・家衡(いえひら=後妻との子)らと衝突・・・再度の奥州の争乱に、都の白河天皇や関白・藤原師真(ふじわらのもろざね)らが、武勇優れた源氏の棟梁に、事を治めてもらいたいと、義家を派遣したワケです。
この時、真衡が、自らの後継者としていた海道成衡(かいどうなりひら=岩城地方の海道平氏の一族)の妻が、義家の妹の縁者あった事から、奥州に赴任して来た義家に対して真衡は最大限の奉仕をしてすり寄って、彼から全面的支援をとりつけます。
おかげで、攻撃して来た清衡&家衡を蹴散らし、真衡は、長男として清原氏の嫡宗(てきそう・ちゃくそう=正統を受け継ぐ本家)を獲得するのです。
これは、もし、義家が父の野望を受け継いでいたとしたら、なかなかにラッキーな展開・・・「清原氏の宗家が義家の支援を受けて…」となると、今はただの支援ですが、後々は、従属する関係になる可能性もあるわけですから・・・
ところが、その直後、真衡が急死するのです。
宙に浮いた宗家の領地は、国主である義家に委ねられる事になり、義家の采配で、清衡と家衡に平等に分配され、めでたしめでたし・・・
これで、清原氏の勢力は2分割され、その上に義家が君臨するがの如き構造となって、何となく頼義以来の野望が叶った雰囲気・・・
しかし、これに家衡が納得しません・・・なんせ、先に書いた通り、家衡は武貞の実子ですが清衡は連れ子なので、清原一族の血は流れていないワケで、家衡から見れば「一緒にされては困る」という事・・・こうして始まったのが後三年の役(11月14日参照>>)です。
実際には5年に渡って繰り広げられた後三年の役・・・今回は清衡を支援する義家は、寛治元年(1087年)の金沢柵(かなざわさく=秋田県横手市)の戦いで、ようやく家衡らを滅ぼす事ができました。
その後、義家は、論功行賞を有利に進めるべく、討ち取った家衡の首級を奉じて上洛の途につきます。
しかし、朝廷からは、なかなか正式な沙汰が出ません。
『後三年合戦絵詞(ごさんねんかっせんえことば)』によれば・・・
京に向かう道すがら、義家は
「家衡の反乱は、かつての安倍一族を上回る規模でしたけど、それを、私の力によって平らげたんです。
できるだけ早く官符(かんぷ=義家らが官軍だと認める正式文書)を賜り、首を京へお届けしたいと思いますねんけど…」
と国解(こくげ=上申書)を提出しますが、
朝廷からの返事は
「わたくしの敵たるよしきこゆ…官符べからざるよしにさだまりぬ」
今回の戦いは私的な戦いなので官符を出す事は無いし、勧賞(かんしょう=功労をほめて官位や物品を与える事)も行わないと通告・・・朝廷は、義家に野望があり、介入する事で、逆に戦いを大きくしてしまったと見たわけです。
その返答に怒った義家は、道端に首級を打ち捨てて、空しく京に戻ります。
義家が京へ帰還する場面「後三年合戦絵詞より」(東京国立博物館蔵)
果たして、義家には、奥州制覇の野望があったのか?なかったのか?
ただ、義家の経歴を見る限りでは、野望といった物は見受けられず、一連の行動は、朝廷の意思に忠実に動いていた結果で、ただ朝廷や公家の意向に翻弄されただけ・・・という雰囲気もします。
結局、その1カ月後に朝廷が下した沙汰は、義家の陸奥守(むつのかみ)の解任・・・しかも、国司交替の手続きすら中途半端な状態で、新たな荘園を持つ事も禁じられました。
それから11年・・・承徳二年(1098年)10月23日、すでに60歳となっていた義家は、武士として初めて、院昇殿を許される栄誉を得ましたが、依然として任官は得られず・・・
嘉承元年(1106年)7月に、その身分は「前陸奥守」のまま、68歳の生涯を終えました。
まるで、義家と入れ代わるかのように・・・
奥州では、清原氏の遺産を一手に引き受けた清衡が、平泉にて北の王国建設に向けての1歩を踏み出し、都では伊勢平氏の平正盛(たいらのまさもり=清盛の祖父)が出世の階段を上り始める・・・(12月19日参照>>)
まさに、時代が変わろうとするのを目の当たりにする雰囲気ですが、そんな義家の無念を背負って立つのが、義家の孫の孫・・・あの源頼朝(みなもとのよりとも)です。
それこそ、その心の内はご本人に聞くしかありませんが、頼朝に奥州藤原氏への出兵(8月10日参照>>)は、ここに端を発するという見方がある事も確かです(12月5日参照>>)。
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