信長&秀吉の前に散る若狭武田氏
元亀元年(1570年)10月22日、若狭の武田氏配下の武藤友益らが織田信長に反旗をひるがえしました。
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若狭(福井県南部)武田氏は、安芸(広島県)武田氏から枝分かれした武田信栄(たけだのぶひで)が、第6代室町幕府将軍・足利義教(あしかがよりのり)の時代に、当時、若狭の守護大名であった一色義貫(いっしきよしつら)を倒して、新たに守護職に任命された事に始まると言われます。
ちなみに、以前、ご紹介した松前藩の蠣崎家の祖とされる武田信広(のぶひろ)(1月5日の冒頭部分参照>>)は、初代の信栄の弟として若狭武田氏の2代めを継いだ武田信賢(のぶかた)の息子だという事ですが、そこらあたりは伝承の域を出ないお話です。
やがて、あの応仁の乱も経験し、一色残党との戦いに明け暮れながらも乱世を生き抜いて行く若狭武田氏ですが、8代め当主となる武田義統(よしずみ)の時代に家督争いが起こり、武田元明(もとあき)が9代め当主を継ぐ頃には、もうすっかり勢いが無くなってしまっていました。
実は、兄で第13代将軍だった足利義輝(よしてる)を三好三人衆と松永秀久に殺害された(5月19日参照>>)足利義昭(あしかがよしあき)が、細川藤孝(後の幽斎)らに救出された時(7月28日参照>>)、いち時、この若狭武田氏を頼った事があったのですが、あまりの非力に、とっとと、その先の越前(福井県北部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼って去って行ってしまった(10月4日参照>>)という経緯があります。
そんな事で、その義昭が織田信長(おだのぶなが)の支援を受けて上洛する(11月18日参照>>)永禄十一年(1568年)には、その朝倉氏からの進攻を受けて、元明は強制的に、朝倉の本拠地である一乗谷に移住させられ、名ばかりの領主となり、実質的に若狭は朝倉氏の支配下となってしまいました。
そんな時に起こったのが例の手筒山・金ヶ崎城の戦い(4月26日参照>>)・・・将軍・義昭の名を借りて信長が発した上洛要請に従わない朝倉義景を、信長が攻めた戦いです。
この戦いで危機一髪を味わった(4月27日参照>>)信長は、2ヶ月後に姉川の合戦へと展開していきます(6月19日参照>>)が、この時の、若狭武田氏の動きが複雑です。
なんせ、朝倉氏に領地を奪われてしまった恨みもあり、この機会に朝倉を離れて武田を再興したい希望もありで、武田の家臣たちの多くが、信長が上洛した時点で、信長についていて、もはや越前に進攻して来る信長を出迎えるほどのベッタリ感だった(8月13日参照>>)わけですが、一方では、当主の元明は朝倉の手の中にある状態ですから、当主からは「信長を討て」という命令が出ているわけで・・・
そんな中、武田四老の一人であった武藤友益(むとうともます・景久)ら一部の家臣たちは、元亀元年(1570年)10月22日、信長に反抗する決意を固めたのです。
しかし、ご存じのように、先の金ヶ崎の退き口こそピンチだったものの、態勢を整えた信長は強く、姉川から、さらに天正元年(1573年)8月の越前征伐(8月14日参照>>)へと駒を勧める中で、明智光秀(あけちみつひで)や丹羽長秀(にわながひで)を若狭へと派遣し、友益を降伏させて、居城の石山城を破壊します。
とは言え、朝倉滅亡後は、多くの武田配下が信長に味方とた事もあってか、元明は、若狭への帰国を許されます。
しかし、これまた、武田の若狭支配は名目上のみ・・・実質的には、若狭は丹羽長秀の支配下となって、元明には、ごく一部の領地が与えられただけでした。
それも、この一部の領地というのは、一連の朝倉との戦いで最前線で戦った若狭衆(もと武田の配下で信長軍に組みこまれた人たち)たちの懇願によって、何とか実現したもの・・・
またぞろ、恨み節が残る若狭武田氏・・・
そんなこんなで、やがて訪れる本能寺の変・・・(6月2日参照>>)
先の恨みもあってか、明智光秀についた元明の命を受けた友益は、当時、丹羽長秀が居城としていた佐和山城を攻撃し、見事、その奪取に成功します。
しかし、これまた、皆さまご存じのように、光秀は山崎の合戦に敗れ(6月13日参照>>)、その命をも落としてしまうわけで・・・
この結果を受けて、第9代当主・武田元明は自害を命じられ、ここに、名門・若狭武田家は滅亡する事となります。
ただ、武田氏は滅亡しましたが、最後まで若狭武田氏を裏切らなかった武藤友益は、丹羽長秀の配下となって生き残り、また、元明の血筋も、その息子・義勝が、後に京極高次(きょうごくたかつぐ)の家臣となる事で生き残りました。
そう、実は、この武田元明さんの奥さんが、あの京極龍子(たつこ)・・・羽柴秀吉(はしばひでよし・豊臣秀吉)がその美貌にメロメロになって、元明亡き後に側室とし、兄(もしくは弟)の高次大出世につながる、その人です。
後に、かの関ヶ原の功績(9月7日参照>>)によって、高次は若狭一国を任される事になりますので、少しばかりは、若狭武田氏の思いも救われたといったところでしょうか。
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コメント
若狭武田氏の最後の当主である武田元明は、運命に翻弄された人だったのかもしれません。しかも、若狭武田氏の遠縁にあたる、甲斐武田氏の最後の当主である、武田勝頼と同様に滅亡したわけですからね。特に、元明の場合は、本能寺の変に乗じて、明智光秀に呼応した上で、若狭武田氏の権威を取り戻そうとしましたが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の台頭によって、状況が大幅に変わってしまった上に、自害する羽目になったのが最大の不幸でしたね。ただし、元明の妻だった京極龍子が、秀吉に気に入れられたのが救いだと思います。
投稿: トト | 2016年1月14日 (木) 13時07分
トトさん、こんにちは~
いつの時代も「美人は得」という事で…
投稿: 茶々 | 2016年1月14日 (木) 15時50分
武田元明について、新たに追記したいことがありますが、元明に、細川幽斎&忠興親子のように、時流を見極められるほどの判断力&分析力があったら、若狭武田氏の運命が良い方に向かっていたかもしれません。あと、細川氏と若狭武田氏は、どちらも名家中の名家です。それぞれの進むべき道に大きな差があったのは、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従うべきかどうかの判断力&分析力の有無ではないでしょうか。
投稿: トト | 2016年1月14日 (木) 18時30分
トトさん、こんばんは~
武田は新羅三郎義光ですから…
世が世なら秀吉はおろか、細川も頭があがらないような血筋ですもんね。
投稿: 茶々 | 2016年1月15日 (金) 03時18分