歴代1位のダメ藩主?…「夜鷹殿様」津軽信順
文久二年(1862年)10月14日、「夜鷹殿様」の異名をとる陸奥弘前藩の第10代藩主・津軽信順が62歳でこの世を去りました。
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陸奥(むつ)国弘前(ひろさき)藩(青森県)は、戦国時代に活躍した藩祖の津軽為信(つがるためのぶ)(12月5日参照>>)以来、代々、現在の青森県の津軽地方(青森県西部)を治めて来た大名ですが、そんな中で、第7代・津軽信寧(のぶやす)、第8代・津軽信明(のぶあきら)という二人の名君に恵まれ、彼らの見事な藩政改革による大成功を収めていました。
ところが、その名君だった第8代・信明が、わずか30歳という若さで亡くなってしまい、しかも、後継ぎも残せなかった事から、いわゆる分家の子=津軽寧親(やすちか)なる人物が養嗣子となって、第9代藩主を継ぐ事になります。
ところが、どうも、先代に比べて名君とは呼び難い雰囲気の寧親・・・自ら、その事に気づいていたのか?いなかったのか?
とにかく、先代のように内政に力を注ぐのではなく、良い家柄を結びつく事によって家柄のランクを上げ、中央政界に乗り出す事を夢見るのです。
・・・その計画の大事な駒として使ったのが、自らの息子=津軽信順(のぶゆき)です。
まずは、信順=12歳の文化八年(1811年)、信順が第11代江戸幕府将軍・徳川家斉(とくがいえなり)に初めて謁見した事をキッカケに、その3月に内大臣の近衛基前(このえもとさき・藤原基前)の娘と婚約させる事に成功します。
公卿のお姫様が、当時としては最北端の田舎大名のところに嫁に来てくれるのです・・・その先には、今まで、どれだけ欲しても叶わなかったような冠位が、手の届くところにやって来る事はうけ合いです。
もちろん、この縁談をまとめるためには、その裏側で、津軽家から藤原家へ・・・多大な金銭が動いた事が想像できますが・・・
ところが、その2年後・・・未だ、婚約だけで、実際の結婚が成されていない状況で、その姫は亡くなってしまいます。
これはいけません!
せっかく掴んだ蜘蛛の糸・・・このままプッツリ切れたままにさせるわけにはいきません。
・・・で、「公家がダメなら、今度は徳川家だ!」
とばかりに、次は、将軍・家斉の弟で、後に、御三卿の田安家を継ぐくとになる徳川斉匡(なりまさ)の娘・鋭姫と婚約・・・
おかげで、信順は、文政三年(1820年)12月、従四位下・侍従という、これまでの藩主が賜った事が無いような冠位に任じられます。
もちろん、ここにも、味方にすべき幕閣や田安家に対して、莫大な賄賂がバラまかれたと言います。
しかし、またしても・・・しかも、冠位を獲得したその日に、お相手の鋭姫が亡くなってしまうのです。
もう、こうなったら、とにかく急がねば!!!
翌・文政4年(1821年)4月に、亡き鋭姫の妹・欽姫との婚約を成立させ、翌・文政五年に、やっとこさ、無事、結婚の運びとなりました。
その後、寧親は引退・・・文政八年(1825年)、息子の信順が第10代藩主となったわけです。
ところが、この新藩主様・・・父の上をいくほどの名君とは言い難いお方でして・・・
未だ若殿時代から夜遊びが大好きで、毎夜毎夜、飲めや歌えの大騒ぎをして寝るのは深夜・・・なので、翌日に起きて来るのは昼過ぎという生活・・・
ついた仇名が「夜鷹殿様」・・・
それでも、若殿時代は、何とか許されるものの、これが、藩主になってもおさまらない・・・
中でも、参勤交代の時に、宿泊する宿場でそれをやるもんだから、毎日、出発するのが昼過ぎとなってしまい、どんどん進むのが遅くなる・・・
以前も書かせていただいたように(6月30日参照>>)、そもそも、膨大な費用のかかる参勤交代は、どの藩主も、1日も早く到着する事を目標に、一般人よりもはるかに早いスピードで歩き、賃金の安いバイトを雇って、できるだけ費用をおさえるのが、この時代の常・・・
なのに、日にちは他人よりかかるうえ、毎晩、遊興にふけっていちゃぁ、さらに費用は重なるわけで・・・結局、この時の参勤交代では、「予定表に書かれた期日に江戸に到着できない」という事態に・・・
あまりの出来事に自らの責任を感じた家老・高倉盛隆が、旅の途中で諫言切腹(かんげんせっぷく=主君を諫めるため、忠告の意味で切腹する事)するという事件まで起きますが、当の信順は、まったく、我関せず・・・
そもそも、先の結婚がらみでの出費で、先代が回復した藩のお金は、すべて使い果たしているのに、その後も、花見で1杯、月見で1杯、祭で1杯・・・
もはや財政は火の車で、なんと、藩士の給料を未払い・・・つまり、藩士たちからお金を借りて、藩を運営せねばならないほど・・・
そんな主君に、家臣たちの不満もピークに達した文政十年(1827年)・・・信順は、事件を起こしてしまいます。
この年の3月、将軍・家斉が太政大臣にに就任した事と、その嫡子の家慶(いえよし)が従一位を授かった事を祝う儀式が、江戸城にて行われたのですが、その登城の際に、信順は轅輿(えんよ・轅=ながえ)に乗って登城してしまったのです。
轅輿とは、いわゆる輿(こし)ですが、その中でも、重要な儀式や菩提寺の参拝の時に将軍のような身分の高い人が乗るシロモノで、はっきりとした身分制度が定まった江戸時代では、幕府が認めた大名家のみに使用される物で、それに乗っているだけで、家の格式の高さを象徴する物でした。(↑の写真は、京都「葵祭」の主役・斎王代(さいおうだい)の輿ですが、こんな感じの乗り物です)
しかも、信順は悪びれる様子も無く、帰りの際は、その姿を江戸の町の人々に見せつけるかのようにわざわざ遠回りをして自らの江戸屋敷に戻って行ったのだとか・・・
信順としては、津軽家代々で最も高い冠位を授かった自分をアピールするつもりだったのかも知れませんが、武士の家格については、それこそ、皆が戦々恐々と、少しでも格を上げたいと常々狙っている中で、ある程度高くなっても、「轅輿なんて、まだまだ身分不相応…」と、表向きの遠慮をしている大名ばかり・・・
それを、平気で堂々とやられちゃぁ、周りの大名だって気分が悪い・・・
そう、信順は、家臣だけでなく、周囲の大名たちも敵に回してしまったわけで・・・
で、結局、その失態を理由に、幕府は、信順に強制隠居を命令し、藩主は養嗣子の津軽順承(ゆきつぐ=三河吉田藩の松平信明の七男)が継ぐ事になりました。
その後は、表舞台から去った信順さん・・・文久二年(1862年)10月14日に62歳で亡くなりますが、果たして、引退後はおとなくしていたのかどうか・・・
歴代藩主の中で第一位のダメダメ藩主として、不名誉な名を残した事は確かだと思いますが・・・
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コメント
高倉さん‥(´;ω;`)かわいそすぎる。信長の平手政秀と同じかんじですね。信長は変わったからいいけど‥。
お前が切腹しろ信順(`ε´)(笑)
投稿: のすけ | 2012年10月14日 (日) 22時25分
のすけさん、こんばんは~
平手政秀の自刃の理由も、実は、イロイロあるようですが、ドラマとしては政秀の死で信長が改心してくれるというパターンのほうが感動しますね。
投稿: 茶々 | 2012年10月15日 (月) 00時11分
官位を上げるって?
「平清盛」の時代じゃあるまいし。
こういうタイプを知的田吾作と呼びます。明治の御代にも、地位の上昇に伴い、慌てて名家と縁組みしたがる勘違いの輩がおりました。
二代に渡って名君を出した津軽家、それが三代に及べば、それこそ奥州きっての名家と呼ばれたでありましょうに。
投稿: レッドバロン | 2012年10月16日 (火) 00時09分
レッドバロンさん、こんばんは~
第8代藩主の信明さんが、早くして亡くなるのが惜しいですね。
やはり、藩主となる血筋の方は、幼い頃から、藩主になるための教育を受けておられるのでしょう。
ひょっとしたら信順さん父子には、それが行き届いていなかったのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2012年10月16日 (火) 01時39分
常陸宮華子さまのご実家ですね。改易にならなくて、良かったかも。将軍の血筋の正室をもらったのが効をなした?
投稿: やぶひび | 2012年10月16日 (火) 08時06分
やぶひびさん、こんにちは~
>常陸宮華子さまの…
おぉ、そうでしたか…
全然気づいてませんでした(*´v゚*)ゞ
投稿: 茶々 | 2012年10月16日 (火) 15時34分
茶々さま、今晩は〜。寒くなりました。
確かに、帝王学不在という感じがしますね。
以前、浅野本家のお殿様が明治になってインタビューに応じた記事を読んだことがあります。家来は家の宝であるという教育を徹底的に受けていて、公務以外で私的な用事を家来に言いつることは一切ないと語っておられました。
それで、ちょうどいい湯加減のお風呂に一度も入ったことがないそうです。熱くても、ぬるくても、それを言えば家来の手落ちになるからと。
江戸時代には名君になるメソッドがちゃんとあったのですがね。
投稿: レッドバロン | 2012年10月17日 (水) 22時57分
レッドバロンさん、こんばんは~
>ちょうどいい湯加減のお風呂に一度も入ったことがない
なるほど、ちゃんとした殿様とはそういうものなのですね。
投稿: 茶々 | 2012年10月18日 (木) 00時56分