平安の大学者・三善清行の「辛酉革命」予言
昌泰三年(900年)11月21日、文章博士の三善清行が「辛酉革命」の予言を発しました。
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これまで、このブログにも何度か書かせていただいておりますが、明治・大正・昭和のように、「一人の天皇に対して元号が一つ=前天皇が崩御された後に次の天皇が即位された事で元号が変わる」という方式・・・いわゆる「一世一元」となったのは、明治天皇からで、それまでは、天皇の交代よりも、むしろ、大きな災害や戦乱、あるいは、珍しい奇異な現象が起こったりした時に、その悪しき連鎖を撃ち破るがごとく改元されていました。
それは、日本では、古来より、暦を司る事が天皇の権威の象徴であり、世を治めている証でもあったからで、天皇の指示のもとに朝廷によって造られた暦だけが、世に流布する公式の暦で、それを天下に公示する事が、イコール、この「天下=時代を支配している」という意味があったからです。
神代の昔から、天皇の1番の仕事と言えば、国家の泰平と国民の安寧を願う事ですが、それこそ、事実上、政治の細かな事は側近たちがやったとしても、これだけは他の人にはできませんから、悪しき出来事が続いた時には、改元をして、災いを払拭するという事があったわけです。
そんな中、「何かあったから」ではなく、定期的に改元されるという年があります。
皆様も、年表などをご覧になって、
「辛酉革命(しんゆうかくめい)により改元」
「甲子革令(かっしかくれい)により改元」
なんて、文をご覧になった事もあるのではないか?と思いますが・・・
ちなみに・・・
「辛酉」とか「甲子」とかっていうのは、十二支=えと(11月9日参照>>)と十干(12月28日の後半部分参照>>)を使って、その年を表現する物で、「辛酉=かのととり」「甲子=きのえね」・・・その十干のページに書かせていただいた「丙午=ひのえうま」なんてのはヘンな迷信まで生んだ、60年に1度還暦を迎える、あの言い表し方です。
そんな「辛酉」や「甲子」の年に元号を改める・・・
というコレは、讖緯(しんい)という古代中国で行われていた予言を元にした説で、そこに「戊午革運、辛酉革命、甲子革令」とある事を引用して、辛酉の年には革命が、甲子の年には革令(変乱)があるとされる説に基づいて、その政変を避けるために改元するという事なのです。
この言い伝え自体は、奈良時代頃には、すでに伝わっていたようですが、「だから改元しましょ」と、初めて言ったのが、今回の三善清行(みよしのきよゆき・きよつら)さん・・・
上記の通り、後に、甲子の年も定期的に改元されるようになりますが、まずは、今回の辛酉革命・・・
昌泰三年(900年)11月21日に、清行が、時の天皇=第60代醍醐(だいご)天皇に「来年は辛酉の年なので革命が起きます」との警告を発した事に始まるのです。
三善清行という人物は、淡路守(あわじのかみ)を務めていた三善氏吉なる人物の息子とされ、平安時代の学者である巨勢文雄(こせのふみお)の教えを受け、若くして才智の誉れ高く、この頃は、漢文学や歴史学などを教授する文章博士(もんじょうはかせ)となっていた人・・・つまり、信頼のおける学者さんですね。
・・・で、今回の警告ですが・・・
もちろん、大学者が発した公の警告という事で、朝廷では「どう対処すべきか?」の議論が沸騰する事となるのですが、果たして、この翌年の1月25日・・・
あの菅原道真(すがわらのみちざね)が大宰府に左遷されるという大政変が発生し、「清行の予言が的中した!」と大騒ぎに・・・
それを受けた清行が、「災いを払拭するために元号を改めるべき」との内容の『革命勘文(かくめいかんもん)』なる意見書を提出し、朝廷は、7月15日に元号を延喜に改める・・・という事になります。
これをキッカケに、以降、辛酉の年は改元するのが定番となったのです。
以前、道真さんの左遷のお話(1月25日参照>>)を延喜元年(901年)1月25日の日づけで書かせていただきましたが、厳密には、この901年は7月15日から延喜元年となったという事になります。
ただ・・・
今思えば、「この予言的中…ってどうなん??」
いや、「それは、君らの小手先次第やろ!」
って、少々のツッコミを入れたくなりますね~
そう、実は、この清行さん・・・当時の朝廷内で、道真とライバル関係にあった左大臣・藤原時平(ときひら)(4月4日参照>>)の派閥に属している人・・・
いや、その前に・・・
実は、この清行さん・・・1度、官吏(かんり=公務員)の採用試験に落ちているのですが、その時の試験管が道真であったとかで、もともと道真の事を嫌っていたなんて話も・・・
なので、先の左遷の話のページに出て来た『阿衡(あこう)に任ず』事件の時にも、道真とは違う立場に立っていたし、朝廷でも度々対立していたのだとか・・・
そう、かの道真が左遷となり、その息子や仲間たちもことごとく左遷や流罪になる1件を『昌泰の変(しょうたいのへん)』と呼びますが、この変を起こした人が、誰あろう、清行の属する派閥の長=時平なのですから、冷静に考えれば、予言もクソも、あったモンじゃないわけです。
まぁ、道真=天神様なので、どうしても、対立している時平や清行らが悪役っぽいイメージになってしまっていますが、彼らから見れば、道真以下息子たちに牛耳られている朝廷内を変えたいという大義もあったので、一概に、時平&清行が悪いとは言えないわけですが・・・
実際の人物像としては、清行は正義感溢れる立派な人だったようで、後に、『意見十二箇条(いけんじゅうにかじょう)』なる意見書も提出しています。
「国は民を以て天となし、民は食を以て天となす。
民なくば何にか拠らん、食なくば何にか資(よ)らん。
然らば則ち、民を案ずるの道、食を足すの要、唯水早沴(わざわい)なく、年穀登(みのり)あるにあり、故に…(以下略)」
これは、その意見書の奏上文の一部とされる『大日本史』にある記述の、さらに1部分ですが、
それは、
偽装が横行する、当時の悲惨な土地状況を天皇に報告し、それを管理できない無能な国司たちや、私腹ばかりを肥やす輩を批判して、政府がちゃんと管理しなければ・・・と提言している内容なわけですが、
「民衆が幸せであるからこそ国家が安泰」
的な言い回しは、現代にも通じる、イイ言葉なんじゃないかと・・・今から1000年以上前の昔に、このような文を残す三善清行なる人物もなかなかの人格者なのではないか?と思う次第です。
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