平清盛・全盛からの転機~福原遷都
治承四年(1180年)11月26日、平清盛の決断によって、福原から、再び都が京に戻されました。
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わずか半年間だけの都だった福原遷都については、6年前の同じ日づけで大まかな流れを書かせていただいているのですが(2006年11月26日参照>>)、なにぶん、未だブログを開設して間もなくの頃で、文字通り、大まかな流れ的な内容になっていますので、捕捉の意味を込めまして、本日、もう1度書かせていただく事にしました。
ただし、以前のページと、内容が重複する部分が多々ありますが、その点は、ご了承くださいm(_ _)m
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その前年の治承三年の政変(11月17日参照>>)によって後白河(ごしらかわ)法皇の院政をストップさせ、事実上、政権を握った平清盛(たいらのきよもり)は、自らが住まう福原(現在の神戸)へと遷都する事を宣言・・・
さらに翌・治承四年(1180年)の2月21日には、高倉(たかくら)天皇を退位させ、その高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に生まれた自らの孫を、第81代安徳天皇として即位させ、ついに天皇の外戚(母方の実家)という待望の席を確保したのです。
続く4月には、そんな平家全盛に不満を持つ以仁王(もちひとおう・後白河法皇の第3皇子)が、全国の反平家に向けて清盛追討の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)(4月9日参照>>)を発しますが、まもなく、その動きを察した平家によって、以仁王に同調した源頼政(みなもとのよりまさ)もろとも、鎮圧されてしまいます(2007年5月26日参照>>)。
(●以仁王生存説は2009年の5月26日のページでどうぞ>>)
そのわずか1週間後の6月2日・・・清盛の別邸があった福原へ、後白河法皇・高倉上皇・安徳天皇の行幸が行われ、そこに行宮(あんぐう=仮の宮殿)が置かれた事で、事実上、この福原が都となりました。
早くから、海外貿易が生む巨大な利益に目をつけていた清盛は(2月27日参照>>)、大陸との交易の要所である九州から瀬戸内海を通ってやって来る大型船が入れるように大輪田泊(おおわだのとまり・大和田泊=現在の神戸港西部)を拡張し、仁安四年(1169年)、そこに隣接する福原の地に、出家後の隠居所と称して雪見御所なる別邸を建てて住んでいましたが、当然の事ながら、おとなしく隠居生活をするわけはなく、ここに居を構えながら、京都の政治をコントロールしていたわけで、ここ福原は、都の六波羅と並ぶ平家の拠点となっていたのです。
ただし、清盛に従う平家と平家寄りの公卿はともかく、右大臣・九条兼実(くじょうかねざね)をはじめ、都の移転に気乗りしない貴族も多く、まして、この遷都の際に、清盛が、後白河法皇と宋国人を対面させたという出来事もあり、兼実などは、その日記(『玉葉』)の中で
「我が朝、延喜以来未曽有の事なり。天魔の所業」
と、清盛の強引なやり方を批判しています。
また、高倉上皇も、
「母(建春門院滋子=平時子の妹)も望んでおられない」
として、福原は離宮にすべきと言い、離宮となる建物は建てたものの、自身はまもなく京に戻り、この後の政務も、京都で行っています。
なんせ、京都には朝廷の省庁の多くも、内裏の建物もそのまま残っていますから・・・
それでも、清盛は、政務に必要な建物を構築し、何とか都として整備しようとしますが、もともと福原という土地は、海と山に挟まれた場所で、京都のように平坦な土地が開けているわけではなく、建設工事も難航します。
そうこうしているうちの8月17日・・・かの以仁王の令旨を受けとった、ご存じ源頼朝(みなもとのよりとも)が、配流先の伊豆にて挙兵します(8月17日参照>>)。
さらに、続く9月には、やはり以仁王の令旨を受け取っていた北陸の源義仲(みなもとのよしなか=木曽義仲)が挙兵(9月7日参照>>)・・・
10月に入ると、かの頼朝は鎌倉を拠点と定めて関東武士を統轄しはじめ、後の幕府の基礎となる物も構築の兆し・・・(10月6日参照>>)
そんな反平家勢力の動きを受けて、清盛は自らの嫡孫=平維盛(これもり=重盛の息子)を指揮官にした頼朝討伐軍を関東に派遣するのですが、この軍が、10月20日、あの富士川の合戦にて、戦わずして撤退してしまいます(10月20日参照>>)。
続く金砂城の戦いでも、平家方である佐竹秀義(ひでよし)が敗走・・・(11月4日参照>>)
それでも、秋には、かろうじて、新しい福原の都で、新嘗祭などの皇室行事を行ったものの、それが終わると、多くの公家たちは福原にとどまる事なく、平安京に戻ってしまいました。
『平家物語』には、この頃、福原にて様々な怪現象が起こった事が書かれています。
ある夜、清盛の寝室に、柱と柱に納まりきらないほどの大きな顔が現われますが、清盛が、少しも驚かず、睨み返したところ、ス~っと消えた・・・とか、
大木など無い庭で、大木が倒れるような音とおもに2~3000人の笑い声・・・「天狗の仕業に間違いない」となって、毎夜100人ほどの警備の者に守らせますが、天狗がいるとおぼしき方向に矢を射ると無反応ながら、天狗がいないとおぼしき方向に矢を射ると、またしても2~3000人ほどの、大きな笑い声が聞こえる・・・
はたまた、ある朝、清盛が庭に出てみると、そこには無数のドクロが飛び交っており、やがてそれがひと固まりになったかと思うと、庭に入りきれないほどの大きな山となり、その中の一つのドクロから、大きな眼(まなこ)がいくつも出て来た・・・とか、
まぁ、これらの平家物語の記述は、さすがに、実際にあった出来事とは思えないですが、それほど、人々の心には、何か不吉な事が起こるような不安が立ちこめていたという事でしょう。
この頃は、京都にも突風が吹き荒れて、多くの家が倒壊して多数の死者が出るという惨事も起こり、京の町も不穏な空気に包まれていたようですから・・・
果たして治承四年(1180年)11月26日、清盛は、新都の建設をひとまず延期して、再び、都を京都へ戻す事となります。
もはや、この不穏な空気、内乱の予感に対して、新都建設よりも、先に、それらの不安材料を払拭してしまう事の方が先決だと考えた・・・という事でしょう。
思えば、あの保元の乱(7月11日参照>>)の勝利以来、少しずつ階段を上り続けていた清盛にとって、これが初めての大きな挫折だったかも知れません。
ただし、ひと言、清盛さん側に立って弁明させていただくならば、ドラマなどではかなり強引に、周囲の反対を押し切って、清盛が独裁者の如く遷都するように描かれますが、私個人的には、それは清盛の構想が未だ周囲に理解されていなかっただけで、交易を重視して国を豊かにするという発想自体は、間違っていなかったと思いますし、そもそも「遷都する事に対して公家が反対する」というのは、いつの時代も同じで、遷都後の場所がどこであろうと、保守的な人が多い貴族の間では反対意見が多数出るのは常・・・あの明治維新の時も、明治天皇が江戸改め東京に行幸する事を、公家たちは散々反対してましたから・・・(1月19日参照>>)
ところで・・・
この福原遷都には、上記した外国との交易と同時に、「政治に介入しまくる仏教勢力から離れる」という目的もあったわけですが、皮肉な事に、福原から京に戻った平家を待っていたのは、その仏教勢力・・・【平重衡の南都焼き討ち】は12月28日のページでどうぞ>>
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コメント
常に勝者の視線で語られる歴史~。
敗者側からの意見・考えも聞いてみたいですね^^
遷都~今の時代も(今の状況を考えると余計に)、有りかも…。
やはり都は京都が似合います^^g
投稿: tonton | 2012年11月26日 (月) 19時42分
tontonさん、こんばんは~
そうですね。
特に平家物語では、清盛は悪役ですから…
大河ドラマの清盛さんも、なんだか、ここらあたりは悪役っぽい雰囲気で…
今回ばかりは、私が想像する「清盛=イイ人」として描かれるのかな?と期待していたので、ちと寂しいですが、また、新たな展開があるのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2012年11月27日 (火) 01時26分
「イイ人っぽい清盛」の場合は
「大輪田泊に都があるほうが便利ではないか。なんで皆分かってくれぬのだ」
とかぼやいていそうですね。
いくら清盛がイイ人でも貿易で儲けてたのは博多の皆さんと平氏だけなので京の人は港町のよさを分かってくれそうにありません。都人の誰もが貿易に手を出すようになったらたぶん平氏の繁栄はそんなに華々しいものにはなりません。(この場合は清盛抜きでも遷都してしまうかもしれません)清盛さんは交易のいい部分しか見ていないと思います。
こんなに強引なのは、健康不安でもあって急いでいたのかな、とも思います。
投稿: りくにす | 2012年11月27日 (火) 17時29分
りくにすさん、こんばんは~
確かに、1度倒れて生死の境をさ迷ってから、ちょっと急いでしまった感はあるかも知れませんね。
もう少し時間をかけて、交易によってメッチャ発展した福原を見せる事ができた後なら、周囲の理解も得られたかも知れませんが、スタート自体が少々遅かった感も否めませんね。
投稿: 茶々 | 2012年11月27日 (火) 22時21分