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2012年11月 4日 (日)

源平争乱…金砂城の戦い

 

治承四年(1180年)11月4日、富士川の戦いに続く源平の合戦・金砂城の戦いが勃発しました。

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前年の11月に、『治承三年の政変』と呼ばれるクーデターを決行し、後白河法皇(ごしらかわほうおう)幽閉して院政をストップさせ、法皇の近臣や関白以下・公卿39名を解任(11月17日参照>>)した平清盛(たいらのきよもり)・・・

これを受けた以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が、翌年の4月に平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)(4月9日参照>>)を発した事で、続く8月、令旨をを受け取った源頼朝(みなもとのよりとも)伊豆挙兵して(8月7日参照>>)、関東地方にて反平家を呼び掛けつつ鎌倉に本拠を定めた事から、清盛は、自らの嫡孫=平維盛(これもり=重盛の息子)を指揮官にした頼朝討伐軍を関東に派遣しました。

Zidaikamakura110 この両者がぶつかったのが、治承四年(1180年)10月20日の富士川の戦い(10月20日参照>>)なのですが、そのページでも書かせていただいたように、実際には、時を同じくして挙兵した甲斐源氏の面々が深夜に富士川を渡っていたところ、怯えた水鳥が一斉に飛び立ち、それに驚いた平家軍が戦わずして撤退したという事で、確かに、頼朝も、富士川の東岸近くに陣取ってはいましたが、「頼朝VS清盛の孫」の直接対決とは言い難い戦いでした。

とは言え、平家軍が撤退したのは事実ですから、頼朝は更なる追撃をかけるつもりでいたのですが、そこに「待った!」をかけたのが、隅田川のほとりで頼朝軍に加わった(10月6日参照>>)上総介広常(かずさのすけひろつね=平広常)という人物・・・

彼は、桓武天皇の玄孫である良文(よしふみ)を祖とする両総平氏の嫡流という名門・・・ここで、平家を追って、さらに西へ向かおうとする頼朝に、先に、常陸(ひたち=茨城県)の佐竹氏を攻めるよう進言したのです。

実は、この佐竹も、かの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の弟・源義光(みなもとのよしみつ)を祖に持つ源氏の名門ですが、この時は平家方についていた・・・ただし、清盛の配下という意味ではなく、名門故の彼らのプライドがそうさせていたのです。

頼朝は、かの富士川の合戦の後、その論功行賞を行っていますが、当然の事ながら、元流人の頼朝には、彼らに与える領地などあるわけがなく、それは、「彼ら武士たちがもともと持っている領地を安堵する」・・・つまり、現在ある領地を頼朝が認め保証するという形をとりました。

これは、それまでは、上の者が朝廷から認められた官職を下の者に授ける事でその上下関係を正当な物としていたのを、無位無官の頼朝が朝廷の力を借りる事無く行った事で、頼朝が関東を束ねる新たな権力者である事を示すとともに、その頼朝の采配で配下の武士を支配するという新しい組織の形だったわけです。

名門であるが故に、佐竹はこの頼朝のやり方が気に入らない・・・

当時、佐竹の当主であった佐竹隆義(さたけたかよし)は京都にて平家に仕え、領地は、その息子の佐竹秀義(ひでよし)が預かっていましたが、父が京都で平家に仕えているのも、今のところ、平家の当主である清盛が朝廷から高い冠位を与えられているからで、佐竹から見た上司は、あくまで朝廷であり天皇であるわけで、同じ武士の身分の者に従う気なんてさらさら無いのです。

なのに、無位無官の頼朝が、関東の支配者気取りで、自分勝手に領地を分配するなんて・・・彼らから見れば、あってはならない事だったわけです。

また、隆義の母が、奥州藤原氏の初代・藤原清衡(ふじわらのきよひら)(11月14日参照>>)の娘であった事もあって、この時の佐竹氏には「関東以北は俺らが守る」的な思いもあったかも知れません。

一方、頼朝にとっても・・・
当時、この佐竹氏と、相馬(そうま)の領有権を巡って、度々争っていたのが桓武平氏の流れを汲む千葉氏・・・その千葉常胤(ちばつねたね)は、頼朝が挙兵した時にいち早く駆けつけてくれた人物で、おかげで、軍の士気も挙がったわけで、当時、不安なまま旗揚げした頼朝にしてみれば、味方の中の味方である常胤に敵対する者は倒すべき相手でもあり、「関東で頼朝に従わない者は許さない」事を内外に示すチャンスでもあったのです。

頼朝は、広常に命じます。
「“話し合いをしたいから…”と言って、彼らを誘い出して殺せ」と・・・

武士なら、正々堂々と合戦に挑めよ!
とも思いますが、まぁ、策略も一つの作戦と言えば作戦・・・

この誘いを警戒した秀義は、誘いに乗る事なく、むしろ決戦が近い事を悟って、本拠の金砂城(きんさじょう=茨城県常陸太田市)へと籠ります。

ところが、佐竹一族の一人(秀義の兄とも)佐竹義政(よしまさ)は、広常の誘いに応じて国境まで出かけたところを、国境を流れる園部川に架かる大矢橋の上で騙し討ちにされたのです。

「義政死す」のニュースは、またたく間に金砂城に伝わり、城内は動揺します。

なんせ、騙し討ちですから・・・
「頼朝はどんな手を使ってでも佐竹を皆殺しにするに違いない!」と・・・

もともと、多くの関東武士を味方につけた頼朝に佐竹一族だけで立ち向おうという多勢に無勢・・・そんな中で、さらに、佐竹一族と言えど、当主の隆義&秀義父子とはかなり縁の薄い親戚もいるわけで・・・

そうなると、負けの見えた佐竹を見捨てて、自分だけ助かろうと考える者も出て来る・・・

かくして治承四年(1180年)11月4日、かねてより広常が交渉を持ちかけていた佐竹義季(よしすえ)が、とうとう頼朝側に寝返ります。

この義季は、当主・隆義の弟・・・つまり、留守を預かる秀義の叔父。

このような重要人物を寝返らせる事に成功した頼朝・・・早速、金砂城への総攻撃を決定します。

これまでも、幾度か攻撃を仕掛けてはいましたが、金砂城は断崖絶壁に建つ難攻不落の名城・・・敵の守りは固く、頼朝軍は大いに阻まれていたのです。

しかし、翌11月5日に始まった総攻撃では、義季の手引きによって金砂城内に楽々侵入した頼朝軍が、またたく間に奥へ奥へと・・・

なんせ、はなから兵力に劣る籠城作戦なのですから、「何としてでも城へ侵入させない」「鉄壁の防御で、籠城する」のが鉄則・・・そこを、内通者を利用して突破されてしまっては、もう、なす術もありません。

やむなく秀義は、城を脱出し、陸奥(むつ=青森・岩手・宮城・福島と秋田県の一部)へと逃走し、金砂城は、総攻撃から、わずか2日で陥落してしまいました。

・・・と、今回の金砂城の戦いをみて、お気づきになられたと思いますが・・・

今年の大河ドラマ「平清盛」に限らず、この時代のドラマでは、どうしても、わかりやすさ重視で、源平の争い=源氏VS平氏と称される事が多く(かく言う私も、このブログ内で「源平争乱の時代」というくくりで年表などの表示しています(^-^;)

頼朝の配下は皆源氏で清盛の配下は皆平氏と思い込みがちですが、実際には、頼朝に攻められた佐竹が源氏で、頼朝の配下として佐竹を攻めた上総介広常や千葉常胤が平氏という事になります。

参考↓
桓武平氏の系図>>
清和源氏の系図>>

なので、源平争乱というよりも、実は、清盛率いる伊勢平氏と坂東平氏(関東に根づいた平氏)との戦いと見ても良いかも知れませんね・・・特に、この金砂城の戦いは、房総地域の平氏の領地争いの色が濃いかも知れません。

と言いながら、題名には源平争乱をつけちゃいましたが・・・つけた方が時代がわかりやすいので(*´v゚*)ゞ
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コメント

千葉常胤さんは地元の武将なのですが、こうしてみると随分源平合戦において、重要人物ですね。ちょっとうれしいです。
佐竹氏は鎌倉時代から存在するのですか。どうも戦国の佐竹義重のイメージが強いですが、子孫でしょうかね。

源平合戦は、どちらも完全な一枚岩の軍団ではなかったのはびっくりです。なかなか歴史の授業では教えてはもらえないことですが、多くの人たちが自分たちの利益のために戦っていたのは、知れば知るほどおもしろいです。

投稿: ティッキー | 2012年11月16日 (金) 21時43分

ティッキーさん、こんばんは~

戦国武将の佐竹義重は、今回の秀義さんから数えて15代め、直系の子孫ですね。

今回の金砂城の前の富士川の戦いで頼朝に味方する甲斐源氏の武田氏も、あの武田信玄の何代か前のお祖父ちゃんですから…

そんな風に見て行くと、それはそれでおもしろいですよね~

投稿: 茶々 | 2012年11月17日 (土) 02時21分

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