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2012年11月19日 (月)

朝敵・尊氏を追討せよ…大将軍・新田義貞

 

建武二年(1335年)11月19日、足利尊氏らの追討命令を受けた新田義貞が京都を出立しました。

・・・・・・・・・・

元弘三年(1333年)5月、長きに渡って執権として政権を握っていた北条氏の第14代執権・北条高時(ほうじょうたかとき)自刃に追い込み(5月22日参照>>)鎌倉幕府を終わらせて建武の新政を開始(6月6日参照>>)した後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、その新政は貴族や公家に厚く、実際に討幕に功労のあった武士には薄い物で、両者のギクシャク感を増長します。

そんな中、亡き高時の遺児北条時行(ときゆき)を担いだ信濃(長野県)諏訪頼重(すわよりしげ)らによる北条復権を願っての反乱=中先代の乱が鎌倉を占拠・・・この地を任されていた後醍醐天皇の皇子=成良(なりよし・なりなが)親王(八宮)足利直義(ただよし=足利尊氏の弟)命からがら駿河(静岡県)へと脱出します(2012年7月23日参照>>)

・・で、これを受けた後醍醐天皇が足利尊氏(あしかがたかうじ=高氏から改名)乱の鎮圧を要請するのですが、この時、京都を出兵する条件として尊氏が提示したのが「関東8ヶ国の管理と支配権」「征夷大将軍・就任」

結局は、関東の支配権だけて征夷大将軍に関する正式な勅状(ちょくじょう=天皇の命令を記した文書)は得られないまま、尊氏は出陣する事となったのですが、ほどなく、乱を鎮圧した尊氏は、今回の戦いで功績のあった配下の者に、独自の論功行賞を開始します(8月19日参照>>)

それが・・・
今回、関東を平定した事を良い事に、新田義貞(にったよしさだ)の領地も、恩賞として配下の者に与えたとか・・・

これに怒った義貞は、逆に、足利の領地を自らの家臣に与え・・・

そうなると、今度は、義貞誅伐の認可を求める尊氏の奏状(天皇宛ての意見書)が京都に送られて来て、それを見た義貞が、次は尊氏誅伐の奏状を提出し・・・と、

さらに、そこに「尊氏謀反」の噂まで登場し、もはや大混乱・・・

そこで後醍醐天皇は、真偽を定めるべく評定を開くのですが、この席にて発言したのが坊門宰相清忠(ぼうもんのさいしょうきよただ)・・・

「今両方の表奏を披(ひら)いて、つらつら一致の道理を案ずるに…」という『太平記』での彼の発言を要約すると・・・

「尊氏と義貞、双方の訴状を見て検討しますと、義貞が訴える尊氏の8つの罪は、どれも重罪・・・特に、大塔宮(おうとうのみや=護良親王の事)殺害の一件(2009年7月23日参照>>)が本当やったら、尊氏と直義の罪も確定でっしゃろけど、一方の訴えだけで即決してしまうのは良く無い事…少し時間を置いて、この噂が真実かどうか確かめてから判断を下しまひょ」
という事で、その日の評定は終了したのですが、

まもなく、鎌倉にて大塔宮の身辺の世話をしていた南御方(みなみのおんかた)という女官が上洛した事で、大塔宮が実際に直義の配下の者に暗殺されていた事がわかり、天皇以下、朝廷は動揺します。

さらに、そこに、尊氏が下した九州や四国方面での援軍要請書が数十通ある事が発覚し、これが決め手となって尊氏の謀反が決定・・・尊氏追討軍が派遣される事となったのです。

早速、後醍醐天皇の皇子・一宮(いちのみや=尊良親王)関東管領(総督)に、新田義貞を大将軍(最高司令官)とした尊氏追討軍が編成され、建武二年(1335年)11月19日6万7000余騎の軍勢が京都を出立したのでした。

もちろん、これを受けた足利側も早速・・・と言いたいところなのですが、肝心要の尊氏が、異を唱えます・・・

実は尊氏・・・新田を相手にする事には、何のちゅうちょも無いわけですが、「自分は後醍醐天皇に刃向かうつもりでは無い」というのが、彼の心情・・・

ここまでの一連の行動は、
「あくまで配下の武士たちの待遇を向上するためにした事であり、天皇自身には恩義を感じており、敵対する気は無い」
と・・・その気持ちを解ってもらうために、このまま出家するとして、以降、尊氏は引き籠り状態になってしまうのです。

Asikagatadayosi600 やむなく、弟の直義が兵を率いて新田軍に立ち向かうため、翌11月20日に鎌倉を出陣するのですが、まもなく、三河矢矧川(やはぎがわ=愛知県岡崎市)でぶつかった両者・・・

しかし、義貞と、その弟・脇屋義助(わきやよしすけ)渡河誘導作戦に引っ掛かり、足利軍は矢矧川を撤退・・・

続く、鷺坂(さぎさか=静岡県磐田市)で迎え撃つも破られ、手越(てごし=静岡県手越原)では夜襲を掛けられて敗走・・・

逃げる足利軍を追撃する形で、とうとう新田軍は伊豆を手中に収め、いよいよ鎌倉に迫ります。

鎌倉に逃げ帰った直義が、その戦況を報告すべく兄=尊氏のもとを訪ねると、兄は、ボサボサ頭にヒゲぼうぼうの状態で、まさに出家寸前・・・

そこで直義・・・一世一代の大ウソをついて、尊氏の出家を止め、彼を参戦に導くのですが、そのお話は、ようやく尊氏が参戦する事になる箱根竹ノ下の戦いのページ(後半部分)でどうぞ>>
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南北朝・室町時代」カテゴリの記事

コメント

やはり尊氏さんは いい人っぽいですよね。偽の書面(弟)に騙されて参戦するなんて いかにも尊氏さんらしいです。

ウチらの家は一応足利系となっていまして、家紋は丸に二両引きです。父は我が家には日本の二大逆賊の血が流れている、と語っておりました。

織豊以降ならともかく、鎌倉・室町時代まで遡ると、家系図はあてにならないですが。そんな訳で、尊氏さんには微かな親しみを抱いています。

投稿: レッドバロン | 2012年11月22日 (木) 22時45分

レッドバロンさん、こんばんは~

私も、尊氏さんは、とてもイイ人だと思います。
親分肌で猪突猛進的な感じは、智略で勝負する弟と見事に相乗効果を発揮しているように思います。
後に、大いなる兄弟げんかをするのが残念でなりませんが…

投稿: 茶々 | 2012年11月23日 (金) 02時19分

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