信長の山陽戦線~秀吉の上月城攻め
天正五年(1577年)11月29日、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、赤松政範の籠もる播磨上月城に攻めかかりました。
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ご存じのように、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて(9月7日参照>>)上洛した織田信長は、その後に義昭との関係が悪化した事で(1月23日参照>>)、その義昭の呼びかけに応じた反信長勢力による信長包囲網とも言える包囲網が形成され、周囲が敵ばかりの状態に・・・
それを、一つ一つ崩していく信長・・・
元亀四年(天正元年=1573年)7月に、その義昭の槇島城(まきしまじょう)を攻撃し(7月18日参照>>)、続く8月に越前の朝倉と北近江の浅井を倒し(8月28日参照>>)、翌・天正二年(1574年)に長島一向一揆を終結させ(9月29日参照>>)、さらにその翌年の天正三年(1575年)5月には、あの武田を長篠で撃ち破ります(5月21日参照>>)。
その年の11月に、これまで本拠としていた岐阜城と美濃(岐阜県)・尾張(愛知県西部)2国の家督を、嫡男の信忠(のぶただ)に譲った信長は(11月28日参照>>)、翌・天正四年(1576年)の2月から安土城の築城に取りかかります(2月23日参照>>)が、この頃、激しくなって来ていたのが、すでに6年前の元亀元年(1570年)に勃発していた本願寺との石山合戦・・・(9月12日参照>>)。
5月の天王寺合戦(5月3日参照>>)に続いて、7月の第一次木津川口海戦(7月13日参照>>)では、いよいよ西国の雄=毛利が、水軍を出して本願寺に兵糧を送り込むサービスで参戦し、さらに、あの越後(新潟県)の上杉謙信までもが、本願寺と和睦して参戦を表明します(5月18日参照>>)。
とは言え、ご存じのように、この時期・・・信長自身は畿内を中心に動いていますが、一方では、配下の武将に、それぞれの地域を担当させて、領地を拡大してしていたわけで、謙信が参戦した北陸には柴田勝家(しばたかついえ)(9月18日参照>>)、伊勢方面は北畠に養子に入れた息子の信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)(11月25日参照>>)、そして、山陰の丹波方面は明智光秀(あけちみつひで)(1月15日参照>>)・・・
と・・・そんな中で、山陽地方担当だったのが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)です。
この状況に、いち早く信長傘下を表明したのが、後に秀吉の軍師として活躍する黒田官兵衛孝高(よしたか=如水)の属する播磨(兵庫県)の小寺氏だった(2008年11月29日参照>>)わけですが、その小寺氏でも、これまで通りに毛利の傘下でいるか?、新しく登場して来た信長の傘下となるか?で大モメにモメたわけで、ここらあたりに領地を持つ中間管理職大名は、皆、今後の動向を悩んでいたワケです。
・・・で、そんな中の一人が、西播磨の上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を本拠とする赤松政範(あかまつまさのり)・・・
彼は、なかなかに武勇優れた武将であり、先見の明を持つ名君でもありましたが、少々優柔不断のところもあり、ここのところ、「どうすべきか?」の軍議を何度も設けておりながら、「どうするか」の決断をなかなか出せずにいました。
そうこうしているうちに時間ばかりが過ぎ、いよいよ秀吉の手が間近に迫った段階になって、よくやく、「毛利は裏切れない」の決断となります。
さすがは、才智溢れる政範・・・
「後々、バカな決断だと笑われるかも知れないけれど…」
と、この先の状況を読みとりつつも、
「これまでの義理は捨てられない」
として、この決断に至ったようです。
こうして、来たるべき秀吉との決戦を覚悟した政範・・・なんせ、この西播磨は、この先は毛利一色の出雲(島根県東部)・美作(みまさか=岡山県北東部)・備前(岡山県南東部)への玄関口に当たる要所ですから、敵はスルーするはずはなく、刃向かえば、必ず決戦となる場所ですから・・・
(↑以前の上月城のページでupしたイラストですが、位置関係がわかりやすいので…今一度)
そんな中、上月城の決断を受けた秀吉は、まず、竹中半兵衛や黒田官兵衛を先鋒に、上月城の支城や砦の攻撃をを開始します。
支城の城主の中には、すでに秀吉との講和の場を持って、信長の傘下に入る事を表明していた者もいたという事ですが、ここは、「本社の上月城が決断したなら、それに従うしかない」とばかりに抗戦に至った支城もあったとか・・・
とは言え、やはり、秀吉軍は強く、小さな支城や砦が次々と攻略されていく中、天正五年(1577年)11月29日、いよいよ、本城の上月城に攻めかかるのです。
側面と正面の2陣に分かれて開始された攻撃・・・翌・30日には、同じく毛利傘下となっている宇喜多直家(うきたなおいえ)の援軍が、上月城を救わんとばかりに駆けつけた事で、その戦いは壮絶を極めました。
しかし、激戦の中で、その援軍も蹴散らされると、すでに、総攻撃の前日=28日の包囲が完了した時点で水の手も断たれている上月城は、その籠城も時間の問題となって来ます。
やがて、12月2日の夜・・・政範は、残っていたわずかな兵で、秀吉の本陣に夜襲をかけますが、あえなく失敗・・・
翌・3日の朝に、その敗戦の一報を受け取った彼は、城内で最後の酒宴を催した後、妻をその手で刺し、自らも自刃しました。
主君の最期を見届け、そばにいた一族&家臣たちも次々に自らの命を絶ったという事です。
こうして上月城を陥落させた秀吉は、尼子氏滅亡の後に、信長に近づいて来ていた山中鹿之介(やまなかしかのすけ・幸盛)に、この上月城を守らせ、自らは、三木城攻防戦へと向かう事になる(3月29日参照>>)のですが、
ご存じのように、その鹿之介さん・・・すでに仏門に入っていた尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を新たな当主として尼子の再興を夢見てる人・・・(7月17日参照>>)
が、しかし、なにぶん、先に書いた通り、この上月城は、毛利にとっても最前線の重要な場所であるわけで、毛利が、そのままにしておくはずはなく・・・
と、この先の上月城については
5月4日:信長に見捨てられた上月城>>
7月3日:山中鹿之介奮戦!上月城の攻防>>でどうぞ
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